地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
カイシャ・フォーラム( Caixa Forum)とプッチ・イ・カダファルク( Puig i Cadafalch)
久しぶりにモンジュイックの丘付近に来てみました。何気なくミースパビリオンの辺を歩いていると、向かい側にある地元銀行の文化施設、カイシャ・フォーラム( Caixa Forum)エトルリア( Etruscan Princes: Between East and West)の展覧会をしている模様。面白そうなのでちょっと入ってみました。

この建物はカタルーニャモデルニズモの三銃士の内の一人、プッチ・イ・カダファルク( Josep Puig i Cadafalch) によって1913年にCasaramona 工場として建てられました。その当時の企業家、Casimir Casaramonaさんが所有する工場だった為にCasaramona工場という名なのだそうです。ちなみに1913年操業を開始し、1919年には早々と工場としての機能を終えています。その後、長い間放置されたのちに、1940年から1992年まで警察署として使用されていました。

現在の所有者である地元銀行のものになったのが1963年で、1976年には国の歴史的モニュメントに指定されています。そんな歴史的価値の高い建物が文化施設として蘇ったのが2002年。改修デザインを担当したのは我等が日本人建築家、磯崎新さん。



エントランスにガラスの屋根を持つ樹木のようなモニュメントをデザインし、そこから先ずは地下へと誘導されるという導線計画。屋外展示空間を担う清潔感溢れる中庭を見ながら風除室を通り抜けると気持ちの良いエントランス。





この地下スペースに受付ロビー、ショップ、メディアセンター兼図書館、コンサートホールなどを収め、上階は既存の建物を生かした展示空間とカフェ・レストランになっています。ちなみにココに入っているカフェLaieは僕のお気に入り。





この建物を見ていると、プッチ・イ・カダファルクは建築家としても非常に優れていたんだなと思わされますね。まあ、ロマネスク美術の研究者だったんだから当然か。

僕は趣味で良く古本屋に足を運ぶのですが、ある時プッチ・イ・カダファルクが1909年から1918年にかけて著した「カタルーニャのロマネスク建築」のオリジナルを目にした事があります。この本はカタルーニャロマネスク研究の基礎を築いた大著であり、かのフェルナンド・ブローデルも地中海の中でプッチに触れているくらいです。ちなみにそのプッチの仕事の基礎を築いたのはドメネク・イ・モンタネール(domenech i montaner)だったという事は依然のエントリで書いたとおりです。この本、むちゃくちゃ欲しかったのですが、一冊30万くらいしたので手が出ませんでした。

そんな事を思いながらエトルリアの展覧会に足を運びました。
展覧会場の冒頭の解説にこんな文が掲載されています。

“Debido a sus peculiaridades etnográficas y lingüísticas, así como religiosas, políticas y culturales, los etruscos fueron tan diferentes de los demás pueblos de la Italia Antigua que aun hoy s sigue hablando del “enigma etrusco”. Ya en la Antigüedad, el historiador griego Herodoto afirmaba que se trataba de un pueblo oriental que había emigrado desde Asia Menor y se había establecido en la Toscaza. Por otro lado, en la época del emperador Augusto, Dionisoio de Halicarnaso sostenía la idea de que habían sido habitantes autóctonos……”


“ エトルリアの民族、言語、宗教、政治そして文化の特色は古代イタリアにおける他民族とは全く違う特色を示しているので、未だに我々はエトルリアの謎について解明し続けている。古代ギリシャの歴史家であるヘロドトスはエトルリア民族はアジアから来た移民であり、トスカーナに住み着いたと主張した。一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは彼等は元々そこの住人であったと言っている。・・・」


つまり何にも分かって無いというわけですね。謎の民族。更にエトルリア人は海を航海する技術を持っていた為に、地中海の至る所にその痕跡が見られるそうです。古代エジプトに記述されている「海の民」というのはエトルリア人の事ではないのか?という説もあるんだそうです。へー、へー、へー。

そんな謎の民族エトルリアに迫った展覧会、” Etruscan Princes Between East and West”は5月4日までバルセロナのカイシャ・フォーラム( Caixa Forum)で開催中です。
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エティエンヌ・カベ(Etienne Cabet)とモントゥリオル(Narcis Monturiol)
1992年にオリンピック選手村として建設された地区に「イカリア(Icaria)」という名の一本の通りが走っています。建築家の間ではこの通りのど真ん中に取り付けられているエンリック・ミラージェス(Enric Miralles)デザインのモニュメントでよく知られている通りです。





地面から大変に力強い木の根っこが生えてグニャっと曲がったそのいでたちは正にミラージェス節全開という感じで結構好きですね。

さてこの「イカリア」という名前なのですが、この名は19世紀のフランス人社会主義者エティエンヌ・カベ(Etienne Cabet)の主著「イカリア旅行記(Travel and Adventures of Lord William Carisdall in Icaria)」に由来しています。

1785年フランスはディジョン(Dijon)の労働者の家庭に生まれたカベは後にイギリスで工場労働者の協同組合を提唱するユートピア社会主義者ロバート・オーエンに出会い、空想的社会主義者フランソワ・マリー・シャルル・フーリエに大変に強い影響を受けました。フーリエが理想とした自給自足が可能な共同体でフリーセックスを基本とする共同生活に。カベは「不平等」こそが社会における諸悪の根源であると考え、徹底した「平等」を説いたんですね。全てが平等の社会。着るものから食べるもの、仕事、住宅全てが平等なその社会では悪が生まれるはずもなく理想郷が生まれるだろうと考えていました。1840年に出版された「イカリア旅行記」の中でカベは、彼の理想とする社会像をオーエンをモデルとしたとされる紳士とカベをモデルとしたと言われている芸術家の対話を通して余す所無く描き出しています。そこでは住宅、衣料、食事など全てのものが「平等」に扱われ国家によってコントロールされています。

その7年後、カベはこの著書に描かれた社会主義的ユートピアを実現するためにイカリア主義者達と共にテキサスへ移住を開始します。しかしながらこの運動は直ぐに失敗に終わり、1856年に失意の内に亡くなってしまいました。

このような経緯を辿った彼の思想は祖国フランスでは殆ど顧みられなかったんですが、意外な地で大変に強い影響を及ぼしその名を残す事となりました。それがカタルーニャでありバルセロナでした。カベはカタルーニャの共和主義的社会主義に大きな影響を与えた人物として知られ、彼の思想は街の大通りの名に今でも刻まれています。そして後にバルセロナの現在の景観に多大なる影響を及ぼす事となります。

このカベの思想のカタルーニャにおける繁殖と生き残りに一役買ったのがカタルーニャでの彼の一番弟子であり潜水艦発明の先駆者として知られるナルシス・モントゥリオル(Narcis Monturiol)という人物でした。(ちなみに世界初の潜水艦はオランダ人のコリネリウス・ヤコブスゾーン・ドレッベル(Cornelius Drebbel)によって実現されました。)

1819年ムントゥリオルはダリ美術館がある事で有名なフィゲラス(Figueres)の漁港で生まれています。



(話は逸れますがカタルーニャ北部にあるこの小さな村に観光客を毎年毎年惹き付けているダリ美術館(Dali Teatre and Museum)はダリ満載という感じでダリ好きには堪らないでしょうね。しかし個人的にはダリ美術館の隣にひっそりとあるダリがデザインしたジュエリーに特化したジュエリー美術館の方が魅力的だったんですが。)

彼が青年期を過ごした1840−50年代のバルセロナでは進歩的自由主義者たちがカベの著作を読みイカリア思想に飛びついた時代だったんですね。平和を説いたカベの思想はモントゥリオルに大変強い影響を与え、バルセロナの他のイカリア主義者達との交友を深める事となります。後に彼らは「イカリアへ行こう」をモットーにイカリア・グループを結成する事になりますが、この中にはカタルーニャ音楽復興のリーダーだったジョセップ・クラベーも含まれていました。

カベの平等思想はモントゥリオルの中で独自の発展を遂げ、科学技術の革新は人類の進歩に寄与しなければならないという信条を形成して行きました。そのような思想の下で、幼い頃から海で働く楽しさと厳しさ、そしてダイバーが当たり前のように海で溺れる姿を目の当たりにしてきた彼にとって、科学技術の粋を集めた潜水艦と技術革新が人類の安全性を高める為に寄与すると考える事はごく自然の事だったのかもしれません。

こうして彼は1857年潜水艦建造に取り掛かり、2年後イクティネウ(Ictineo)と名付けられた全長7メートル、排水量8トンの潜水艦を発表し、バルセロナ港で科学者や議員などを前に公開潜水試験を行いました。



結果は大成功。この潜水艦は現在バルセロナ海洋博物館に保存、展示されています。この成功を受け、彼は1862年からイクティネウ2号(Ictineo II)の建造を始めます。全長17メートル、潜水可能深度30メートル、水中滞在時間7時間半を可能にしたのは、彼の発明した画期的な推進システムと空気供給システムでした。

当時は未だ潜水艦に蒸気機関を載せる事が可能な技術は発達していませんでした。何故なら狭い潜水艦内で蒸気機関を動かせば直ぐに空気を使い果たし艦内は熱でムンムンになってしまったからです。そこで彼は化学反応を利用して熱を起こさせ酸素を供給するシステムを思い付き彼の潜水艦に導入しました。こうして2号は当時世界で最も進んだ潜水艦となったのです。

さて、このモントゥリオルですが1854年にマドリッドで運命的な出会いをする事となります。それがイルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)です。セルダは1854年におきた労働運動解決調停委員としてバルセロナからマドリッドに派遣されていました。同じ頃、労働者代表としてマドリッドに出てきていたのがモントゥリオルでした。1856年にセルダが出版したモノグラフィーの調査には彼との間の人脈が大変に役立っただろうと指摘されている事は既に以前のエントリで書いたとおりです。
| バルセロナ歴史 | 23:41 | comments(0) | trackbacks(37) | このエントリーをはてなブックマークに追加
イルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)
所用でバルセロナ新市街地に繰り出す。



新市街地と言ってもそれほど新しいわけではなくて歴史的中心地区を旧市街地とした時に「新しい」というぐらいの意味。1辺が113、3メートルある四角形が20メートルの道路を挟んで碁盤の目のように延々と並ぶこの地区はエンサンチェ(Ensanche)と呼ばれています。

この新市街地は「バルセロナ拡張計画」として都市計画家、理論家、技術家、政治家など多彩な顔を持つイルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)によって1859年に計画されました。


イルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)

19世紀後半をかけて行われた、この大規模な都市改造・拡張計画が現在のバルセロナ市の景観を形作っています。日本でも良く知られ人気の高いモデルニズムの建築郡はこのエンサンチェに集中しているんですね。バルセロナにはカテドラルやグエル公園など見るべきものが多いですが、意外と知られていないお宝が眠っているのがココ、エンサンチェ。


casa Lamadrid by Lluis Domenech i Montaner

casa Lamadrid by Lluis Domenech i Montaner
Casa Comalat by Salvador Valeri Pupurull

Casa Comalat by Salvador Valeri Pupurull

何故か?
何故ならスペインの近代工業発祥の地であり、産業革命推進の地でもあったバルセロナにおいては、蓄積されたブルジョアの産業資本が不動産とそれを飾る建築に投資されたからなんですね。つまりエンサンチェを埋め尽くしているモデルニズモ建築郡は、その時期を担った人々の社会・文化・経済的表象だと言う事が出来ると思います。そしてセルダが計画したエンサンチェはそのモデルニズモが「これでもか」というぐらいに花咲く舞台を提供しました。その最高の舞台においてガウディ、ドメネク・イ・モンタネール(Lluis Domenech i Montanter)プッチ・イ・カダファルク(josep puig i cadafalch)などの建築家達の競演が始まったわけです。

このブログにも何度か登場した僕の大変尊敬する歴史家アルベルトさんはそれらの事実を指してエンサンチェを「黄金の四角形」と呼びました。


Alberto Garcia Espuche: El Quadrat d'Or

四角形とは上述したエンサンチェを構成する一つ一つの街区を指しています。その街区を色とりどりに飾る建築郡はまるでエンサンチェという大宇宙に散らばる星々のよう。正にバルセロナにおいて建築が表象芸術として花咲いた時代でした。

さて、セルダがバルセロナ拡張計画に取り組んだきっかけは旧市街地における衛生問題でした。セルダはこの時期市内において労働者階層が置かれていた社会経済状況をきめ細かく調べ上げ、一冊の本に纏めています。「バルセロナの労働者階層についての統計的モノグラフィー」。それによると当時の市内人口密度は1Ha当たり平均で859人。これは同時期におけるロンドンの人口密度が86人、パリが356人である事を考慮すると驚異的に高い数字です。この数字は何を意味するかというと、当時労働者階級が置かれた劣悪な居住環境をも示しているんですね。市壁内における人口増加への対応には当初、中庭を造ったりする事で対処していたと予想されますが、それも次第にスペースが無くなっていく。次は建物の高層化が始まりました。すると日照や風通しなどを悪化し余計に衛生環境を悪化させる原因となった訳です。これらに加えてバルセロナには疫病が定期的に流行っていました。コレラが1834,1854,1865年にバルセロナを襲っています。この時期の平均寿命は富裕層36歳、貧困層23歳だったそうです。

注目すべきはセルダが経済社会データを通じて科学的な実態把握をして、空間解析をしていた事です。彼は死亡率の分布と人口密度や建物密度などの空間分布を比べるという事を試みています。そして都市の問題を「衛生問題」と設定した上で、その問題が物理的な事、即ち過密である事に起因しているとしました。故に解決法も物理的手法に求めたんですね。従って、セルダが描いたエンサンチェは当初、今のように過密ではなく建蔽率50パーセント、高さは16メートル、建造物は4階建てと決められていました。


エンサンチェ街区の提案。Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori,p94

エンサンチェ街区提案模型。Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori,p108


彼の描いた理想図はオープンスペースと緑で溢れています。しかしながら資本で動いている現実がそのような理想郷になるはずも無く、彼の計画はその後ズタボロにされていったのですが・・・

僕にとって大変興味深いのは150年も前に「ウルバニザシオン(Urbanizacion)」という言葉を発明し、都市分析・解析手法を導入した都市がバルセロナであったという事です。そしてその都市がもう一度、都市分析の首都になろうとしている。今度はセルダの創った下地の上に車主導の社会ではなく歩行者主導の社会を目指して。
我々が学ぶべき事はまだ山ほどあります。
| バルセロナ歴史 | 21:56 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
征服王ジャウマ1(Jaume1)
今日の新聞にカタルーニャの征服王ことジャウマ1の記事が載っていました。彼はマヨルカ島征服やバレンシアをイスラムの手から奪還などを通して13世紀の地中海全域を支配し、カタルーニャに黄金時代をもたらしました。来年の2月2日をもって彼の生誕800年と言う事で最近カタルーニャでは彼に関するシンポジウムなどが盛んに行われています。

さて、今日の記事を読んでいて大変面白かった箇所があるので紹介します。彼は生前に自伝を書いており(真実の書と言います)、その中には彼の生活などが詳細に記されています。その中で結婚生活に触れた箇所があって、彼は12歳で結婚したらしいんですね。しかしその当時の法で14歳まではセックスをしてはいけなかったらしく、「1年くらいは普通の男が彼の嫁と普段することが出来なかった。何故なら僕らは若すぎたから」とか言ってるんですね。

ジャウマ1っていうのは実は「夜の征服王」としても有名でかなりの女好きだったらしいんですね。だけど、そんな彼の事が大好きでそんな所にばっかりフォーカスするカタラン人もかなり女好きだと思ってしまいました。
| バルセロナ歴史 | 22:17 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
カタルーニャの闘うジャーナリスト Josep maria Huertas Claveria
カタルーニャが誇るジャーナリストのJosep Maria Huertas Claveriaが先週亡くなりました。彼はカタルーニャにおいては「表現の自由」を求めて闘うシンボルとしてフランコ政権時代から既に伝説的な存在でした。彼の名を一躍有名にした事件が1975年にあります。1975年6月のDiari TeleXpresに軍人の未亡人が所有するマンションで売春が行われている事を暴露する記事を発表したのです。当時のスペインはフランコ政権の下、厳格なカトリックであった為セックスや性に関する事柄は硬く禁じられていたんですね。更に絶対権力であった軍人はその概念を体現する純粋な存在だと信じられていた。そんな状況の中でHuertasは「軍人の未亡人が売春に関わっている」という大変スキャンダラスな記事を書いた訳です。当然国中大騒ぎ。軍人大怒り。という訳で直ぐに逮捕・裁判になりました。

更に拍車をかけるようにフランコの後継者とみなされていたCarrero Blancoが暗殺された事件のETAグループの一員という全くでたらめな罪を着せられてしまったのです。この根拠となったのがバスク地方から訪ねてきた若者を家に招いて食事をしたという唯それだけの理由で。彼は当時バルセロナ近郊にあるモンセラット山の宣教師と仲が良く彼に頼まれてその若者と夕食を共にしたらしいのですがこの若者はETAグループの一員である事がその後の調査で明らかになっています。しかしながら当時のHuertasはその事実を全く知らなかったと彼の妻が新聞に記事を書いています。

つまりですね、もう何が何でも彼を裁判で有罪にして処刑するという雰囲気だった訳です。それに反発したのが勿論当時の世論とジャーナリズム界。Huertasを救う為にボイコットを繰り返したり記事を投稿したりと必死だった様子が当時の新聞などを見ると伝わってきます。その後事態は急展開を迎えます。フランコが亡くなったんですね。で釈放。釈放のその日、門の外には沢山の市民が彼の名前の大合唱と共に待っていました。

それ以来30年以上もの間、彼は「表現の自由」を求めて闘ってきました。当時のフランコ政権にたてつくという事はそれはそのまま死を意味したと言っても過言ではありませんでした。それを覚悟の上で真実を求めて行ったその生き様と心意気は間違いなくカタルーニャのジャーナリズム界に何時までも刻みこまれ続ける事と思います。



| バルセロナ歴史 | 19:49 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
ヨーロッパの伝統
プルーデンスさんコメントありがとうございます。重要な問題提起も。
ヨーロッパに住んでいて何時も思うのは「伝統」の機能の重要性です。それがプルーデンスさんが言われた問題の大部分を解決しているように思う。勿論前回論じたようにグローバリゼーションなんかによってその機能が薄れていっているとは言っても日本に比べたら未だ健在です。
例えば昨日、うちの部署でクリスマス休暇と新年を祝う忘年会みたいなのがあったのですが、その時に皆にクリスマス何するか聞いてみました。約40人中家族と過ごさない人は1人だけ。チリから来てる子なんですが今年は帰らないからと言うのが理由。あとの人は僕を除いて全員家族と過ごすそうです。何故ならそれが伝統でありヨーロッパ社会の最小単位には家族があるから。

この家族と言う最小単位をコアにして近所があり街路付き合いがあり区があり街があり・・・というような入れ子になっている。ここが明らかに日本とは違う所でしょうね。更にこのような社会的な背景があってパブリックスペースというものが多様性や近所とのコンタクトを確保する場になっている。故に高密度な地中海都市においてパブリックスペースを創り出すという政策は圧倒的に正しい訳です。

それが日本に当てはまるのかは慎重に議論しないといけない。プルーデンスさんが言われたような諸問題が先ずあり、それをどう解決するかというレイヤーがコンタクトを保障する街路空間とどう連結するのか?もしくはしないのか?難しい所ですね。

そのレイヤーでの問題設定は多分こんな感じ:ヨーロッパ的な伝統やアメリカ的な中間集団が存在しない日本においてどのようにコミュニティを再創出していく事が出来るのか?その中において建築はデザインを通して何が可能なのか?

問題は果てしなく大きいと思います。
| バルセロナ歴史 | 22:38 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
市民社会の実現に向けて
昨日は一日大学で講義を受けていました。教授はヨーロッパでは著名の経済学者Alcadi Oliveresで講義内容は経済、グローバリゼーションとサステイナビリティ。現在の世界がどのように構築されたか、どのように機能しているか、私企業と公的機関の問題、富の再配分の問題などを分かり易く講義してくれました。カタラン語だったけど。

彼はそのキャリアの始めから市民活動、アンチグローバリゼーション運動などに積極的に関与し近年、正義と平和( Juisticia i Pau)という団体を設立しました。この団体は平和研究所と共に如何に教育を通して市民社会を実現するか?という事をテーマに大学・私企業・地域などと強く結託し、たくさんのプロジェクトを回しています。最近気が付いた事なのですがバルセロナではこのような世界平和を視野に入れた公的機関が特に元気が良いと言えるのではないのでしょうか?

僕が積極的に関わっているCatedra UNESCOやその前ディレクターによる文化平和財団Fundacio culture de paz,友達が代表を勤め私企業による富の再配分不平等を扱うDeuda 。ちなみについ先日まで話題になっていた国連改革のイニチアティブはUNESCO の Federico Mayorと僕の元教授であったJosep Xercavinsがアンチ権力側から運動を起こしました。
もしかしたら近い将来この分野ではバルセロナが主導権を握るかも知れない。と同時にこれは日本が今後学ぶべき領域なのでしょうね。
| バルセロナ歴史 | 11:42 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
Puig i cadafalch の隠された文書
今日の新聞が3紙とも建築家であり政治家でもあったPuig i cadafalchに関連する文書が大量に見つかった事を報道しています。見つかった文書には10,000の設計図とスケッチ、386通の手紙などが含まれ386箱分に相当するそうです。ウナムーノなどの当時の文化人に当てた手紙も含まれているそうです。Puig i Cadafalchは建築家にはモデルニズモの建築家として知られていますが同時に当時カタルーニャにて結成されたMancomunidadという政党のキーパーソンとしてPrat de la Ribaと共に活躍しました。これがPrimo de Riveraによる独裁が始まる1923年まで続くのですが、彼の政治家としての活動記録になる私的な手紙などが今まで残ってなくて長い間謎だったんですね。歴史家はPrimoによってそれらが没収されるのを避ける為に何処かに隠したのではないのか?とずっと疑っていたのですがそれが大当たりしました。実家の壁の中から出てきたらしいです。これによってプッチの新たな一面が又浮き彫りにされる事でしょう。
| バルセロナ歴史 | 15:38 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
コロニアルグエルとジョアンマラガル
毎年この時期になると1週間ほどの間バルセロナの目抜き通りであるグラシア通りの両脇にたくさんの古本屋さんがテントを張って店を出します。今日は時間があったのでぐるぐる見て回る。去年の今頃この古本屋祭りでコロニアルグエルの本を買った事を思い出す。ずっと欲しかったけど絶版で探してた本を偶然見つけたんですね。何年か前に表紙の写真を見た時にものすごく惹きつけられた本なんです。なんかこう、写真に力があるというかものすごくネチーとした写真なんだけど黒いバックにガウディのモザイク柄のデザインを切り取った構成が素晴らしい。で、見つけたと同時に即購入。家に帰って開いてみたらなんと表紙の裏に直執のサインを発見。これがすごい。内容は「私の甥でありサグラダ・ファミリアをこよなく愛した偉大な詩人ジョアン・マラガルの息子へ。」
ジョアン・マラガルは僕のこのブログでもすでに何回か登場しているモデルニズモの旗手であり現カタルーニャ州政府の祖父にあたる人物。確かにマラガルはサグラダファミリアに関する有名な詩を残しているですね。「おお、バルセロナ、お前は魔女だ」で終わる詩です。確かロバート・ヒューズの著書バルセロナの最後はこの詩で締めくくられてた気がする。彼が活躍したのは20世紀の初期、この著者も同時期に活躍した有名なガウディ研究者で大変有名。時期としても合う。で、よくよく調べてみると、あれも、これも・・・。こういう発見は古本の醍醐味ですよね。バルセロナ現代文化センターに勤めていた当時、ドキュメンテーションセンターで当時開かれたAnyバルセロナ会議の磯崎さんと浅田さんの生原稿を発見した時もかなり興奮したものです。
| バルセロナ歴史 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
もう一つの9月11日:カタルーニャの場合
9月11日は今や世界的なメモリアルデーとなりましたが、それよりもずっと以前からこの日を歴史的な記念日としている地域があります。それがカタルーニャ。1714年の9月11日はカタルーニャがそれまで保持していた地域特権を失った日であり、そのような自分達の大事な文化的アイデンティティを守る為に必死になって最後まで戦った先祖を祭る大変重要な日なんですね。当時、スペインの王様であったカルロス二世は自分の世継ぎとしてルイ14世の孫のフィリップをスペイン国王フェリッペ5世として指名してたんですね。これに対してオーストリアとかが別の対立候補であるカール大公を立てました。で、イギリスとオランダはカール支持に回りました。何故かというともしフェリッペがスペイン王座につくとフランス王ともなっちゃう可能性があるので、そうなるとものすごく大きな帝国が出来ちゃう。それはまずいという事で反対勢力に回りました。ここにスペイン・フランス対オーストリア・イギリス・オランダというスペイン継承戦争が始まります。フェリーぺはマドリッドでは歓迎されたんですが、カタルーニャなんかでは評判が悪かった。なんでかっていうと、歴史的にフランスにはあまり良い印象を持っていなかったし、何より彼らの統治形態である中央集権型によって地方の特権が脅かされるのでは?と恐れてたんですね。そんなこんなで結局カタルーニャは反フェリッペ、カール支持に回りスペインに同時に2つの宮廷が置かれる事になります。しかしですね、皇帝ヨーゼフが急死しちゃって、カールが神聖ローマ帝国を継いじゃったんですね。そこで困ったのがイギリス、オランダなんかなんですね。カールがスペイン王兼、神聖ローマ皇帝なんかになるとそれこそ大帝国出現という訳でスペイン・フランス帝国なんかよりも厄介。そこでそうならないように手を打った上で自分達はさっさと戦争から手を引いてしまった。しかしカタルーニャはその後も戦争を継続しトップだったカサノバっていうのがいるんですが彼が負傷を負わされた1714年9月11日に降伏しました。故にこの日は今でもカタルーニャ復権の為のシンボル、英雄として祭られています。
僕が住んでる近くに彼の像が設置されてるんですがこの日は沢山の政治家達が参拝に来てテレビとかバンバン流してすごい。その後はその当時フェリッペがバルセロナ征服のシンボルと監視の意味を込めて建設した要塞があった場所を1888年の万博で市民の都市の肺とか言って大きな公園にしたんですが、そこで大々的な記念祭があります。去年はこの行事中にちょっとした事件があって毎年歌手が呼ばれて歌を披露するのですがそのメインがフラメンコ調の歌をカスティリアーノ語で歌ったんですね。もう皆、すごいブーイングの嵐でした。
さて、バルセロナの歴史的中心地区にボルン地区というちょっとオシャレでジェントリフィケーション起こりまくりのエリアがあるのですが、ここにボルン市場という18世紀に建てられた市場の遺構が残ってます。ここを再利用しようという事で2002年に公共図書館に変えるコンペが行われ一等案も決まりさあ建設という事で掘ってたらその下から昔の都市跡が出てきたんですね。で、調査してみたらこの都市跡、実はフェリーぺ軍が占領した後に破壊したモノで16世紀から18世紀までの都市の発展を知る上で大変貴重なものだという事が判明。図書館建設は急遽中止、現在はここに博物館兼文化施設を建設しようという計画が進んでいます。これ指揮をしているのがアルベルトさんっていう僕がこちらでものすごく尊敬している建築史家で僕が以前に勤めていたバルセロナ現代文化センター、エクスポジション部門長だった人です。彼の先見の明、豊富な知識、それを市民の眼に触れさせ且つ興味を持たせるようにする手腕と実現する為の政治力。
ここにもう一つ彼の作品が完成する訳なのですが、今から大変楽しみです。

| バルセロナ歴史 | 21:38 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加