地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
歩いても、歩いても(是枝裕和監督):伝統と革新、慣習と感情の間で:リアリズムを通して鑑賞者の眼が問われています
今バルセロナでは是枝裕和監督の話題作(と言っても一年前の作品ですが)「歩いても、歩いても」が、ベルディ映画館(Verdi Park)で上映されています。同監督作品の「誰も知らない(2005)」は、バルセロナで毎年開催されるアジア映画祭(2006年度版)のオープニング作品に選ばれ、大喝采を受けた作品だっただけに、是枝監督の新作を首を長―くして待っていたカタラン人ファンも多かったはず。

実は僕の周りにも既にこの映画を見た友達が沢山いて、「とっても良かったから是非行って、感想を聞かせて欲しい」と言われていたんですね。そんな事もあり、土曜日の夕方に早速出かけてきました。天気が良かったので、歩いて行こうと思い、張り切って歩いたのですが、途中から無茶苦茶暑くなってきて、もう死にそう。それこそ「歩いても、歩いても、着かない!」みたいな(苦笑)。それでも何とか映画館に着いたのですが、ココで今日2度目のビックリ。なんと入場料が7.5ユーロもするじゃないですか!「あれ、ベルディ映画館ってこんなに高かったけ?」って驚き桃の木。普段よく行くイカリア映画館(Yelmo Cineplex)は6.5ユーロ(確か)ですから。

でも、まあ、ここまで来て見ずに帰るのも馬鹿らしいので、ブツブツ言いながら見たのですが、コレがナカナカ良かった。日本芸術のお家芸である、「静のデザイン」が際立っていました。突破な事件を作り上げ、好きな人に対して「好きだ、好きだ」と強く押すのでは無く、ごくごく普通の日常を切り取りながらも、その風景を「差異化」する事で我々の記憶に残ろうとする。

僕はよくこのようなデザインの違いを「歌舞伎」と「能」の違いで説明するのですが、コノ映画は正に「能」型の映画だと思いますね。歌舞伎というのは毎回違う事をやって派手さで勝負する。逆に能というのは、毎回大筋は同じなんだけど、ホンの少し細部を変える事で勝負をする。だから能を楽しむ為にはその違いが分かる「鑑賞者の目」が大変重要な要素となってくるんですね。正に「違いの分かる男」(もう死語?(笑))が必要になってくる訳です。

そんな、一定のラインをクリアしている良質な映画だからこそ、ちょっと又、映画評を書いてみようかなーという気にもさせてくれます。と言う訳で、何時ものようにここからは僕の独断と偏見で勝手な映画解釈(笑)を書き始めます。こんな見方もあるというくらいに思ってもらえると嬉しいですし、逆に言うと、それ以上のものではありません。そして一応念の為に:

警告
ここからはネタバレになる危険性がありますので、まだ映画を見ていない人は読むのをストップしましょう。





さて、この映画は「評価する」のが大変に難しい映画だと思います。何故なら、コノ映画は「僕達が映画を評価する(良いとか悪いとか)」という、ごくごく普通の形式では創られてはいなくて、むしろ逆に「映画の方が僕たちを評価する」かのように創られているからです。この映画がしている事、それはただ単に現在の日本社会がどのように機能しているか?を淡々と描写する事、唯それだけなんですね。ココには右寄りだとか左寄りだとか、良いとか悪いとか、そんな主観は一切無く、ただただニュートラルに我々の日常を描写しています。

例えば日本の伝統として、親の仕事を継ぐ事が良い事だ、子供は社会の中においてこう振舞うべきだという、日本社会全体で共有されている(いた)描写はされていますが、それに対して特別批判するという操作は見られません。むしろこの映画がしている事は、そういう現実を突きつけた上で「あなたはいったいどう思う?」と我々の方に問いかけているのです。その返答如何によって、まるで我々の方が「映画に評価されている」気にさえさせられます。

この映画は横山家のとある一日を描く事で進行して行く訳なのですが、横山家の構成員たちは長男が亡くなったという事に起因する、それぞれに固有の問題を抱え、未だそれらの問題から各自が抜け出せていません。まるで(長男が亡くなった時点で)時間が止まってしまい、各々がグルグルと同じ所を回り続けているかのようです。そのような状況を暗示しているのが「おばあちゃんの家」なんですね。非常に遠く不便で行きにくい所にある、古くて何時まで経っても変わらないその家自体が、冒頭からこれら各々のシチュエーションを暗に指し示しています。

そして冒頭から頻繁に出てくる「料理」の占める位置が結構重要。おばあちゃんの家と同様に、料理は「家族が集まる場所」、もっと言っちゃうと「家族が集まる理由」を暗喩しています。一年の内でバラバラに住んでいる家族が集まるのはお盆くらいで、場所はおばあちゃんの家。そんなおばあちゃんの家で共通の話題、もしくは皆が一同に会す理由(現代社会において家族を微かに引き留めているもの)と言えば、もう食事くらいしか無いという事をこの映画は言いたいんですね。むむむ‥‥監督、良く見ているなー。

更にもう一つ。映画の終盤において、良多と父親(おじいちゃん)が海岸で会話する場面が出てきます。映画の中で彼らが面と向かって話す事はさほど無く、二人の会話が一番長く、印象的なのがこの場面なのですが、その話題が何と野球なんですね。思えば映画の最中に二人が話していた事と言えば、「仕事はどうなんだ?」とか、「ちゃんと生活出来ているのか?」とか、若者が一人立ちしたての頃に交わされると思われる話題ばかりでした。「野球」というのは、それらを代表する話題。つまり彼らの時間は、良多が若かった頃、未だ、野球などに興味があった頃(長男が亡くなったと推定される時)から全く進んでいないという事が言いたい訳なんですね。

さて横山家の人達は、このような「歩いても、歩いても」終わる事の無いメビウスの輪の中に居る訳なのですが、これら登場人物はその役割から2つのグループに分ける事が出来ます。一つ目のグループは良多とその息子あつし。2つ目のグループはそれ以外の人々で構成されます。これら2つのグループがそれぞれどんな役割を持っているかというと、前者が「変わっていこう」とするタイプであり、後者が「変わらない」とするタイプ。

特に良多とあつしは違う社会(家族と学校)の中において、同じ役割を与えられている所などは注目すべきです。

どんな役割か?それはずばり「革新」です。

良多は同じ事を繰り返す家族の中において、「父親と同じ職業にはならない」、「家を継がずに出て行った」、「普通のお嫁さんではなく、バツイチの子持ちをお嫁さんにもらった」など、古い伝統から見ると、到底受け入れられない様な「変わった」立ち位置をし、何時までも変わらない家族の中において、一人だけ変わっていこうという姿勢が見られます。彼が変われないのは、変わっていこうとする彼に対して、家族が「変わるな」と同じ場所へと何時も呼び戻すからです。

一方のあつしの方はというと、冒頭のファミレスでの良多との会話からその立ち位置が伺えます:

良多:「ママから聞いたんだけど、どうしてウサギが死んだ時笑ったの?」
あつし:「だって、友達が、死んだウサギに手紙を書こうって言ったんだ。誰も読まないのに‥‥それが可笑しくって‥‥」


あつしのこの「変わった死生観」が、亡くなった息子に対するおばあちゃんの強い思いなどに触れる内に成長を遂げたと見る事も出来、この映画の主題は「子供の心の成長」と考える事も出来なくは無いのですが、それではちょっと射程が狭すぎる気がしますね。もっと言っちゃうと、あつしは映画の中で特別成長はしていないように僕には思われます。彼は普通の子供と違い、かなり早い時期に父親の死に直面しました。だから、彼は同年代の子に比べてかなり早熟なんですね。多分彼は何度も天国にいる父親に手紙を書いたのでしょう。しかし一度も返事は来なかった。そんな事が分かっているからこそ、「死んだウサギに手紙を書く」という行為が可笑しかったのだと理解出来ます。

あつしというのは、この映画におけるキーパーソンであって、節目節目で大事な事をちらほらと言っています。例えば冒頭、母から「今日だけは良多の事をパパと呼んで」と頼まれるのに対して、はっきりと「嫌だ」と言っていた割には、従兄弟の子供達の前ではちゃんと「パパ」と言っていたり、おじいちゃんに「将来何になりたいんだ?」と聞かれて「ピアノの調教師」と答え、「何でだ?」と聞かれ、「音楽の先生が美人だから」と答える辺りなど、あつしは日本社会の中において、子供というのは「こう振る舞うべきだ」という古い因習を「あえて演じる」役割を担わされています。つまり彼は、自分の「感情」を殺して「慣習」に従わされている象徴として存在している訳なんですね。そしてそれが日本社会の現実であると。

冒頭に書いたように、この映画は我々にこのような現状を突き付けるに留まっています。しかしながら、その裏で暗に、我々にこう問いかけている訳です:

「こんな小さな子供が本当の事を言えない社会、こんな小さな子供にまで嘘をつかせる社会って果たして健全なのか?」と。

さて、映画の中盤辺りから、モンシロチョウが登場します。途中と最後に「何故モンシロチョウは黄色いのか?」という説明が2度も出てくる事、更に映画の終わり近くになって、おばあちゃんがモンシロチョウを息子の生まれ変わりだと思い込んで、狂った様に追いかける事などから、「あ、何か深い意味でもあるのかな?」とか思ってしまいますよね。控えめな表現で埋め尽くされているこの映画にしては珍しく、くどいくらいの「押しの表現」になっています。

先ず、モンシロチョウが亡くなった長男を暗喩しているのは容易に分かる事と思います。「モンシロチョウは最初は白かったんだけど、冬を乗り越えて生き残ると、黄色くなる」という説明のごとく、死(=冬)を通り越した長男が被ったその受難が故に、彼は黄色い(受難を表す色)モンシロチョウに生まれ変わったと言う解釈ですね。(おばあちゃん曰く)

しかしですね、このモンシロチョウは何も長男だけを指しているのではなく、実は横山家の全員を表していると言う所にも注目すべきです。おばあちゃんは必要に、「死という受難」を被った長男を「可哀想」といたわっていますが、長男の死で一番苦しんでいるのは実はその家族なんですね。長男が亡くなってから何十年もの間、出口の無い旅を強いられる事になった彼らこそ、長―い冬を越し、色が変わってしまったモンシロチョウのごとく、心を黄色く濁らせてしまった存在な訳です。

何時まで経っても息子の死を忘れられず、毎年のように義男(長男が助けた子供)を呼び付ける母、跡継ぎを失い解決策が無いまま、完全に定年も出来ない父、長男の抜けた穴を埋めようとするけど、両親に拒絶される妹(不動産問題はそのシンボル化)。そんな堂々巡りの「歩いても、歩いても」一行に出口の見えない旅を続けている内に、彼らの心は黄色くなってしまったと言う訳です。

そんな中において、唯一の例外が良多です。何故なら良太だけが、この家族の中において「もう一度やり直そう」という姿勢が見られるからです。家族から離れる為に家を飛び出し、お嫁さんをもらい独立してやっていこうとする彼の背中を引っ張るもの、それこそ何時までも同じ所をぐるぐると回り続けている家族。彼らに事ある毎に呼び出され、昔話をされる度に、「変わっていこうとする力」が「変わらないとする力」に浸食され、結局何も変わらずに終わっているんですね。

その事をよーく表している逸話が「トウモロコシ泥棒」の思い出話です。隣家から盗んできたトウモロコシを調理していた時、お隣さんがやって来てバツが悪かったと。すると、すかさず良多が「市場で買ったトウモロコシ、お得だったね」みたなフォローを入れ、「そういう所だけは昔から頭が良く回る」と、両親が褒めます。しかし、実際にそのフォローを入れたのは実は長男の方だったんですね。

ココでは何が言いたいのか?つまり、両親は長男の代わりを無意識的に何時も次男に求めていたという暗喩になっている訳です。

しかしそんな良多も映画終盤で両親が亡くなった事で、過去を吹っ切れる事が出来た様です。彼が長い間悩んでいた事、それは両親の長男の代わりになって欲しいという重苦しい思いであり、独立したいのに、事ある毎に実家に呼び戻され、事ある毎に昔を思い出させられる重苦しい空気でした。それらから解放された彼は、今正に生まれ変わったように自由になりました。

それを暗示しているのが、新しく生まれた長女(新しい生まれ変わりみたいな)と、今まで決して買う事の無かった車です(母親は車を買えとくどいくらいに言っていた)。これら二つは、良太が黄色いモンシロチョウから生まれ変わり、白いモンシロチョウになったシンボルだと見る事が出来ます。

さて、ここまでで僕が語った事柄が一撃の下に表されているのが、実は「歩いても、歩いても」のウェブページです:



モンシロチョウが飛んでいます。そして言語を選択すると現れるのがこのページ:



もうお分かりだと思うのですが、これら2枚の絵は一枚目が「苦悩、苦痛、忍耐」などを、二枚目が「革新、変化、希望」などを表しているんですね。一見、「チョウチョが飛んでてキレイ」とか思ってしまいますが、大変意味深な皮肉になっている訳です。そしてこれら2枚の絵が、この映画全体の主題と構想を現しているかと思うと、その絶妙な技に舌を巻かずにはいられません。

良多とあつし。彼らは冒頭に書いたように、違う社会の中において同じ様な役割を担わされています。そして2人共別々の回答を見つけ出しました。しかしながら、そこには「伝統と変化」に対する二人の回答において、世代間の微妙な違いが「慣習と感情」の相違として現れています。

実はココにこの映画が我々に問いかけている(唯一主観的な)微妙な期待が見られるのではないのでしょうか。日本社会は大変閉ざされた社会である。しかしながら、日本社会の未来は我らの子供達(少しずつ開かれた心を持ちつつある)にあるとでも言わんばかりに。

冒頭に書いたように、この映画は唯単に現実を描写し、我々にそれらの問いを突き付けてきます。人間が千差万別な様に、一つの事象に対しての感じ方は人それぞれ。だから、コノ映画が問いかけてくる問題に対する決まった答え、正解などは決してありません。そうではなくて、この映画は我々にそれらの問いに対して「考える事」を促進させるのです。そしてそれらの思考を通して、正に今、この映画が「僕自身」、もしくは「あなた自身」を評価しようとしているのです。
| 映画批評 | 21:38 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
カンヌ国際映画祭:イザベル(Isabel Coixet)監督のMapa de los sonidos de Tokioに見る日本とスペインの見解の違い
今日はどうやらカンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)発表がある模様で、どの新聞もその話題を大々的に取り扱っています。というのも、スペイン人監督作品が2つもノミネートされているからなんですね。一つはペドロ・アルモドバル(Pedro Almodovar)監督作品のBroken Embraces。もう一つはイザベル・コイシェ(Isabel Coixet)監督作品のMapa de los sonidos de Tokio。特にイザベル監督はカタルーニャ出身で、今世界的に注目を浴びている有望株な事から、バルセロナでは期待が高まっています。

更にこの映画は舞台が東京で、主人公に菊地凛子さんが登用されている事から、日本でもかなり話題になっているようですね。今ざっとネットを見たら、「菊地凛子、レッドカーペット、涙」みたいな文字がネット上で躍っていました。つまり、その大半が映画の内容ではなく、「日本人、菊地凛子」に注目しているという事らしいです。

その一方で、スペイン各紙が伝えている情報は180度違う内容です。例えば、今日のEl Paisに載っていた記事、”Ultimo tango en Tokio” (El Pais, P42, 24 de mayo 2009)では、「かなりチープな内容だ。訳が分からない。はっきり言って最悪。」みたいな酷評が書かれていました。魚屋で働く女の子が夜は殺し屋になって、そのターゲットとラブホテルでセックスしまくるという、そのかなり無理な設定が受け容れ難いらしい。更に(日本では報道されたのかどうか分からないのですが)試写会後に「ブーイングが起こった」という事まで書かれている始末。

まあ、批判されるという事は、それが批判するに値する事だから批判するのであって、もし本当にどうでも良い事なら新聞もわざわざ取り上げたりしないですから、これは期待の現われと取って良いのではないかと思っています。

一般公開はもうちょっと先になるそうなのですが、こんな時は、僕は自分の目と耳を信じたいと思いますね。
| 映画批評 | 23:15 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画:愛を読む人(The Reader):恥と罪悪感、感情と公平さについて
この所、バルセロナは連日の雨空。雨、雨、雨。ヨーロッパは現在イースターの真っ最中なので、晴れたらモンセラットやレウスに小旅行にでも行こうと思ってたのに何処にも行けない・・・。しょうが無いから久しぶりに映画館にでも行こうと思い、「何か面白そうな映画やってないかなー」と探していた所、目についたのが「愛を読む人(The Reader)」でした。そう言えば、色んな所で色んな人から「絶対に行った方が良い」と薦められていた事を思い出す。まあ、良い機会だしと思って行って来たのですが、これがナカナカ良かった。少なくとも、久しぶりに映画評を書いてみようかなー、と思わせる程の質は持っていたような気がしました。

と言う訳で何時ものように僕の独断と偏見(笑)で、「愛を読む人」の映画評を書いてみようと思います。

(注意)ここに書くのはあくまでも僕の観点から見た映画解釈なので何時ものようにかなり偏っています(笑)。こういう見方もあるというくらいに思っておいてください。あと、この評ではストーリー展開を詳細に追う訳では無いので、映画をまだ見ていない人が読んでもどうって事は無いと思いますが、まあ、それでも念の為一応:

警告:映画を未だ見ていない人はココで読むのをストップしましょう。




さて、僕が映画を見る時に興味があるのは「この映画では一体何が言いたかったのか?」という映画のテーマです。あらすじの裏に隠された主題ですね。この映画を見終わった時、僕の頭の中に浮かんだ一つの言葉がありました:

言葉は飛び去るが、書かれた文字はとどまる
Verba volant, scripta manet (Words fly away, the Written Remains)


この言葉がこの映画にとって何を意味するのか?は最後にとっておくとして、とりあえず、この映画の主題なのですが、それはずばり「恥と罪悪感」、「感情と正義」だと思いますね。これらの対は映画内で様々な場面で交錯し互いに関連付けられるのですが、この映画はそれらが交差する時空間内において物語が展開されていくという構成を取っています。そしてそれらの物語が語られるのは常にマイケルの口(言葉)からであり、マイケルの視点からだという事もココで付け加えておいても良いと思います。

さて、ここからこの映画を論ずる為に必要最低限のあらすじを導入したいと思います。以下のあらすじは「愛を読む人」の公式サイトからコピーしてきたものだという事をお断りしておきます:

1958 年ドイツ。15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は気分の悪くなったところを21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられたことから、二人はベッドを共にするようになる。
やがて、ハンナは本の朗読を頼むようになり、マイケルは会うたびに様々な本を読んで聞かせるのだった。
ゲーテ、チェーホフ、ヘミングウェイ・・・彼女に読んだ本の数々。二人で出かけた自転車旅行・・・初めての大人の恋にのめり込むマイケルだったが、ある日ハンナは彼の前から突然姿を消してしまう。

時は流れて、ハンナとの出会いから20年後。
結婚と離婚を経験したマイケル(レイフ・ファインズ)は、様々な想いを胸に、ハンナの最後の“朗読者”になることを決心し、彼女の服役する刑務所に朗読を吹き込んだテープを送り始める・・・。



この映画の主人公、ハンナは読み書きが出来ないという設定になっていて、その事が一つのキーワードになって物語が展開していきます。ここがこの映画の非常に巧い所であり、絶妙な所なのですが、「読み書きの出来ないハンナ」という設定がこの映画に決定的な影響力を与えていると言っても過言では無いと思います。

ハンナはマイケルと出会う前、ナチで大量虐殺に関わっていた人間でした。そして人を殺したという事に罪悪感を持っていなかった。正確に言うと罪悪感を持つ事を「(最初は)意識的に、後に無意識的に避けていた」んですね。

どうやってか?

身近な人間に本を朗読させる事によって、その人(現実世界)を通してファンタジーの世界(本の物語世界)へと入り込む事によって、現実世界を直視する事を避けていました。

しかしココで問題が一つ発生します。本を朗読する人と一定期間時間を共にすると、そこに感情が生まれ、その感情が彼女を現実世界へと引きずり込むという問題が発生してきました。それを回避する為に彼女が選んだ方法は、一定期間毎に朗読者を取り替える事でした。これが彼女が収容所で次々に女性を取り替えた(死刑台に送った)理由でもあった訳です。

彼女が読み書きが出来ない理由は映画内では明らかにされてはいません。しかし「読み書きが出来ない事」が現実世界からの逃避、すなわち、罪悪感からの逃避を暗示している事は明らかだと思います。そしてこの「逃避」が二つ目の重要な要素、「恥」と交差する場面が映画中盤のハンナの裁判の場面です。

ハンナは「読み書きが出来ない」という事を死ぬほど恥じる価値観を持った女性でした。どれくらいかというと、人を何百人も殺したという罪悪感を上回るよりも、ずーっと重い価値観をそこに置いていたんですね。

価値観というのは人によって千差万別で、ある人にとっては些細な事でも、別の人にとっては凄く重要な事だったりします。何故なら僕達の社会は多様性に満ち、多様な価値観を享受する社会だからです。だから彼女の価値観をあーだ、こーだというつもりは毛頭ありません。そしてこの映画において彼女の価値観がどうのこうのと言う事はあまり重要では無いし、映画の本質には何の関わりも無いように思います。重要な事は以下の問いです。

彼女は本当に読み書きが出来ないという事を恥じていたのか?

彼女は実はそれを恥じていたのでは無いのです。彼女が本当に恥じていたのは「沢山の人を殺めた」という事実だったのです。しかし彼女はその重圧に耐えられず現実を直視出来ないが故に、「読み書きが出来ない」という事を自分の最も恥じている事に「仕立て上げ」、自分が本当に恥じている事の上に置く事によって、本当の恥を隠そうとしたのです。だから、実は彼女が恥じる事は「読み書きが出来ない」事であったって、「髪の毛が金髪である」事であったって、「シワが多い事」であったって、何だって良かったんです。重要な事は本当の恥を「捏造された恥」によって隠す事だったんですね。

さて、このハンナの裁判にはこの映画のもう一つのテーマである「感情と正義」が盛り込まれています。感情と正義、これら2つの要素というのは本来、独立して存在するべき要素です。しかし我々の現実世界ではこれら2つがまぜこぜにされ、分ける事はほぼ不可能に近いんですね。戦後、ドイツ国民の間に広がった、ある種の罪悪感、「ナチを生んでしまった」という罪悪感は、ナチが何をしたのかに関わらず、いきなり「ナチは悪い。だから撲滅しろ」という感情へと変わっていきました。ここで「感情と正義の葛藤」がマイケルの心情の葛藤として描かれています。マイケルは当然の事ながら彼女に「何らかの感情」を抱いています。ポイントはこの時、マイケルが抱いている感情が「彼女の事が好きなのか?」、「憎んでいるのか?」何なのかはっきりとしないという所なんですね。その一方で、彼は彼にしか知りえない彼女についての情報、「彼女は読み書きが出来ない」という情報を裁判官に伝え、彼女を擁護するという選択支も与えられていました。これは勿論、「正義」の暗喩です。

ここでもし彼が「正義」を取るのならば、この情報を裁判官に伝えるという決断を取ったはずです。しかしながら、彼はそうはしませんでした。彼は結局、自分の感情を正義の上に置いたんですね。つまり彼女は「罪を償うべきだ」というドイツ国民全体が感じていた集団的感情と同様に。

これは如何に我々の社会において正義と感情をわける事が難しいかという事を指し示しています。そしてココにおいて、映画監督は我々にこう問いかけている訳です:我々の社会におけるモラルとは何か?平等とは何か?正義とは一体何なのか?と。

さて、映画の後半部分、非常に重要な転機が彼女に訪れます。彼から送られてきたテープに刺激されて読み書きを覚えるように努力を始めたのです。ここがこの映画の一番の見所であり、感動する所だというのが一般の見解かなー、と思います、こんな感じで:

「あー、彼の情熱に答えて、読み書きを覚え、彼に愛していると言いたいのね」。もしくは「あー、彼の盲目の愛に打たれて、彼女もとうとう良い人間になる事を決意したのね」みたいな。

悪くは無いけど、僕はちょっと違う事を考えていました。彼女が読み書きを覚え始めたというのは、彼女が現実世界に接近してきた暗喩なんですね。今まで彼女は読み書きが出来ない事によって、ファンタジーの世界に生きていました。しかしそんな彼女も読み書きを覚える事によって、現実を少しずつ直視するようになってきたのです。

現実を直視するようになってきたという事は、それまで隠されていた本当の恥、沢山の人を殺めてしまったという罪悪感を直視し始めた事を意味します。それを裏付けるかのような発言が彼女の世話人の口から説明されています:

「彼女は入所した頃は本当に自発的に仕事をこなしていたわ。でも、最後の数年間は自室に閉じこもる事も多く、暗かった・・・」(はっきりと台詞を覚えている訳では無いのですが、確かこんな感じだったと思います)

つまり文字を覚えれば覚える程、彼女は現実世界を直視するようになっていったので、それだけ罪悪感が増していったという事です。そしてその罪悪感がピークに達したが故に彼女は自殺してしまったのです。

ハンナはこのように、彼女の長ーい人生の大半をかけて、彼女にとっての「恥」、そして「罪悪感」からの逃避と現実との直面との間の闘争を続けてきた訳なんですが、それは彼女の自殺という行為を持って、成就した(現実を直視する事が出来るようになった)と見なす事が出来ます。一方で、マイケルの方も、彼の生涯を悩ましてきた「感情と正義」そして「罪悪感」、これらの葛藤からの開放を暗示しているのが、物語の一番最後で、誰にも言わなかった過去を彼の娘に口述するという行為なんですね。

そしてこれら、ある種の「自分探しの旅」を暗喩しているのが、彼が彼女に何度も朗読した「オデュッセイア」なのです。オデュッセイアとは勿論、ギリシャ神話の物語なのですが、その中でオデュッセウスが乗った船が遭難し、長い長い旅の末、元の家に行き着くという物語です。この物語では船の遭難と心の遭難とが重ね合わされ、旅という形式を取って自分探しをするという2重の旅が展開されているのですが、勿論これは、ハンナとマイケルの自分探しの旅を暗喩しているのです。

さて、この評の最初にラテン語の散文を引用したのですが、それはそのままこの映画を物語っているように思います。

マイケルは言葉によって彼女に語り掛けてきたのですが、物語の最初から最後まで、常に何らかの変化を引き起こしたのは「書く事」によってだという事に気が付きましたか?

この映画には様々な対が出てくるのですが、その一つがこの「言葉」と「書く事」という対なんですね。言葉というのは「書く事」に比べて非常に弱い性質を持っています。このテーマは、はるか昔から論じられてきた所であって、特に目新しい主題では無いのですが、この映画では「言葉」をマイケルが、「書く事」をハンナが担っているんですね。そして「書く事」(ハンナ)というのは常に言葉(マイケル)よりも上位に置かれています。彼女の罪を決定したのは「書かれた文書」でしたし、彼にもっとテープを送ってくれと要求(命令)したのも「手紙」でしたよね。

そしてもう1つ重要だと思われる点がハンナとマイケルの役割についてです。この映画の主人公はハンナです(マイケルではありません)。ではマイケルとは一体何者なのか?

その答えはこの物語がどのように始まったか?をよーく思い出してみれば分かると思います。この物語はマイケルの語り口によって展開して行っています。つまりこの映画はマイケルの視点から見た物であって、それは同時にマイケルが知り得る所までしか、我々は知る事が出来ないという事を表しているんですね。つまりハンナが本当は何を考えていたのか?などは我々には知る事が出来ないのです。(これは謎などを作る時に頻繁に使われる文学(特に黒文学)のテクニックですね)

この意味においてマイケルは正に「朗読者」なのです。タイトルの朗読者とは何も映画内でマイケルがハンナに物語を読んで聞かせるという事だけを指していたのではなく、物語の進行をも彼の口が語るという事をも指し示していた訳なんです。

ちょっと長くなっちゃったなー。
物語の進行も良いし、様々に散りばめられたシンボルの扱いも面白い。そして何より色んな事について考えさせられる映画でした。
| 映画批評 | 22:43 | comments(69) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
それでも恋するバルセロナ:ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その3:都市での撮影について
前回のエントリ、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その1:何故我々は真の愛に辿り着けないか?/何故人は人を愛する事が出来ないのか?、前々回のエントリ、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その2:都市のイメージの続き、三部作完結編です。

この映画はバルセロナで撮影されている事から、僕の日常生活に関わる様々な舞台が映画に登場します。例えば、ハビエル・バルデム(Javier Bardem)扮するフアン・アントニオ(Juan Antonio)が住んでいるというすごく素敵な家。



映画を見ている最中は「何か見た事あるよなー。でも思い出せないなー」という感じだったのですが、映画館を出た帰り道ではっきりと思い出しました。「あの家、毎週日曜日の僕の散歩道にある家じゃないですか!」

日曜日はいつも、少し遅めのお昼を取った後、ちょっと昼寝、そして散歩というのが日課になっています。僕が住んでいる辺りは緑や公園がとても多くて、すごく静かで過ごし易いエリアです。しかも中心街までは公共交通機関が20−30分足らずで連れて行ってくれる立地の良さなので昔からお金持ちが街の喧騒を離れて暮らしていたエリアなんですね。

今回のアントニオの家もそれらの内の一つ。それがコレ:



ちょっとクネクネした石畳の小道はものすごくロマンチックです。





勿論中へは入った事はありませんが、入り口付近に無造作に転がっている彫刻などを見るからに、住人は本当にアーティストなのかも知れません。

僕はさっぱり知らなかったのですが、家の近くの友達に聞いた所、撮影当時、かなり大掛かりなセットと一緒にウディ・アレン始め、出演者一同が撮影しに来て、その日はこの辺り一体パニックだったと言う事です。「超ミーハーな僕がそんな大事、知らないはずが無いだろ!」とか思ったのですが、どうやら撮影は僕が日本に帰っている夏に行われたらしい。どうりで知らない訳だ!

昨年の夏、この御一行が僕達のオフィスがあるバルセロネータ地区に来た時は、スターを一目見ようとものすごい人垣が出来ていました。(スカーレット・ヨハンソン in バルセロナ with ウディ アレン、地中海ブログ)撮影は丁度僕らのオフィスの目の前で行われたのですが、その付近300メートルは勿論立ち入り禁止。柵が設けられて遠目からでもナカナカ見えないようにされていたんですね。そこへ来て、僕らのオフィスはまん前、しかも3階と言う事もあり、撮影風景は窓から丸見え。(これぞ市当局に勤める者の特権!)その日ばかりはみんな窓にへばりついて写真を取りまくっていました。こんな感じで(中央に見える金髪さんがスカーレット・ヨハンソン):



更に更に、レベッカ・ホール(Rebecca Hall)扮するヴィッキー(Vicky)とスカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)扮するクリスティーナ(Cristina)が食事を取っていたレストラン、「なんか見た事あるなー」とか思ってたら、先日クリスマスパーティーに仕事仲間みんなで行ったレストランじゃないですか!!!(バルセロナの食べ歩き方:Restaurant Barceloneta:クリスマスパーティー2008その2、地中海ブログ)きっと、ビーチで撮影したついでに「雰囲気のいい近くのレストランで」とか言う事で選んだんですね、きっと。

追記(14/09/2016):

昨日からツイッターのほうで、「#女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になっています。

洋画が日本に輸入される際、原題やオリジナルの内容とは全く異なる日本語訳になっていたり、宣伝用のポスターのデザインがオリジナルの雰囲気をぶち壊すような映画を批判しているのですが、今回の記事で取り上げた「それでも恋するバルセロナ」もその一つだと思います。原題は「Vicky Cristina Barcelona」なのですが、日本語訳では「それでも恋するバルセロナ」と訳されているんですね。



ウディ・アレン監督作品であるこの映画は、レベッカ・ホール演じるビッキーと、スカーレット・ヨハンソン演じるクリスティーナ、その二人がバルセロナを舞台に様々な出来事に巻き込まれていく様を描いているのですが、ここで重要なのは、「バルセロナ」という固有名詞が、二人の名前と共に並列に記載されている点です。つまりバルセロナという都市があたかも一人の人間として存在しているかのように「擬人化されている」というのがこの映画のミソなのに、日本語訳はその点を全く切り落としているんですね。



もっと言っちゃうと、この映画の重要なメッセージの一つは、「バルセロナという都市の魅力は、サグラダファミリアやガウディに代表される観光スポットにあるのではなく、人間味溢れる下町の雰囲気にあるのだ!」と言うことだと思うのですが、日本語版のポスターには何故かサグラダファミリアが付け加えられています。バルセロナ=サグラダファミリアというあまりにも短絡的な結び付けだですね。

ウディ・アレン監督作品であるこの映画は、そんなに単純な作品ではありません。
深い思考に裏打ちされた非常に素晴らしい作品なので、「この日本語訳とポスターのデザインには幻滅した覚えがある、、、」ということを思い出しました。
| 映画批評 | 18:07 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
それでも恋するバルセロナ:ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その2:都市のイメージ
前回のエントリ、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その1:何故我々は真の愛に辿り着けないか?/何故人は人を愛する事が出来ないのか?の続きです。
前回はこの映画の主題を論じた訳なんですが、今回は「この映画にとってのバルセロナの意味」、「バルセロナにとってのこの映画の意味」について考えてみたいと思います。

僕が面白いなーと思ったのは以下の2点。1点目は映画の題名です。2人の女性主人公の名前と並列に「バルセロナ」が使われています。内容から言って、ビッキーとクリスティーナの次に重要なのは明らかに彼女達と三角関係になるアントニオであり、その後、四角関係になるペネロペ扮するマリア・エレーナのはず。それらを押し退けて「バルセロナ」が躍り出ている事にこそ注目すべきはずです。つまりココではビッキー、クリスティーナというパーソナリティと同格に「バルセロナ」という「都市」が扱われている。どのように?「地中海都市バルセロナ=ブランド」と言う人格を与えられた都市としてと言えると思います。

コレは結構面白くて、バルセロナという都市はしばしば一個の個人として扱われる事が多い都市なんですね。コレは世界的に見ても極めて稀です。例えば1999年、国立英国建築家協会(RIBA)はその年のゴールドメダルを、始めて個人以外の「バルセロナという都市」に授与しました。そんな事は1960年以来、ずーっと続いてきた長い歴史の中においても唯一の例外です。

さて、都市間競争時代における都市のイメージ創り=ブランド化に関しては当ブログでは散々論じてきた所なのですが、この映画では面白い程そのブランド創りの過程を見る事が出来ます。カサ・ミラ(Casa Mila)などのガウディ(Gaudi)関連、ピカソ(Picasso)やミロ(Miro)そして個人ギャラリーや展覧会と言ったアート関連、地中海都市=中世都市というイメージを喚起する旧市街石畳の細い路地などが「これでもか」というほど強調されています。

こういう都市のブランド化は、無理矢理何でもかんでもブランドにしようとする事から、何処かに必ず綻びが現れます。それを探すのがちょっとした楽しみだったりする。



例えば上の写真はバルセロナ旧市街ゴシック地区(Barri Gotic)に位置するカタルーニャ州政府(Generalitat de Catalunya)の2つの建物を結ぶ渡り廊下(El puente en el Palau de la Generalitat)で、観光客が必ずと言って良い程パシャパシャと写真を撮る、云わば中世のシンボルのような存在。地球の歩き方にはこんな風に紹介されています:

「ふたつの館を結ぶ渡り廊下の優雅な彫刻を眺めていると、ふと時間を忘れ、中世へと導かれる思いがする。」p62、地球の歩き方、バルセロナ05-06

だけど、この橋って中世に作られたんじゃなくて、実は1929年のバルセロナ世界博の為にココに付け加えられた紛れも無いフェイクなんですね。ちなみに設計者はイグナシ・デ・ソラ・モラレス(Ignasi de Sola Morales)のおじいさんにあたる、Joan Rubio i Bellverで1928年の事です。20世紀に付け加えられた装飾を見て、うっとりと中世へ導かれる人達って一体・・・。

同じ様な事で、映画の中でちょっと気になったのは、アントニオの設定です。彼はアーティストでバルセロナで個展とかも開いていて、話の流れから明らかにカタランアーティストかと思っていたら、彼の実家って実はオビエド(Oviedo)。アストゥリアス(Asturias)出身の芸術家です。カタランじゃないじゃん!!!

ダメ押しはクリスティーナの役柄設定。彼女はマスター論文をカタラン人のアイデンティティをテーマに書いていて、今回それを調べる為に1ヶ月バルセロナに滞在しているという設定です。それだけで、「なんだそりゃ!!」とか、思わず噴出してしまいそうな設定なのですが、そんな事が1ヶ月そこらの滞在で分かるなら苦労しない(笑)とひそかに思ってしまった。でもそこは問題じゃなくて、そんな事がまかり通ってしまうほどに、既にバルセロナやカタランがブランド化しているという事だと思うんですね。

今更言うまでも無い事ですが、映画は「想像の共同体」を創り出す為の強力な道具です(興味のある人はコチラ:想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson, Imagined Communities, 1983))。つまり映画というメディアは常にプロパガンダやイメージコントロールを含んでいるという事なんですね。それが分かっているからバルセロナのような、都市のイメージコントロールに大変敏感な都市は映画をどうにかして見方に付けようと必死なわけです。この辺りの事は以前のエントリ、スカーレット・ヨハンソン in バルセロナ with ウディ アレン(地中海ブログ)で書いた通りです。当時バルセロナ市はウディ・アレン監督(Woody Allen)にこの映画を撮ってもらう為に交通規制や建物開放など全面協力を申し出て、更に映画制作費の10%にあたる150万ユーロ(約2億円)を融資したとか。そこまでしても、それ以上に計り知れない影響がある事が分かっているからこそ、喜んで先行投資したんですね。

もう一点気になったのは、バルセロナという都市が醸し出しているもう一つのイメージ、バルセロナ=地中海都市=ビーチ=開放的、みたいな。しかも大抵の場合、その開放的にはセクシー系のイメージが纏わり付いています。例えば、以前紹介したまいっちんぐ・マチコ先生のオープニングに出てくるフラメンコ姿のマチコ先生とか。



今回の映画では、人生の岐路に立っている女性が一夏の恋をするのに夏の開放的な都市の雰囲気が手伝ったとでも言わんばかりの演出がされていました。映画中でヴィッキーがオビエドでアントニオとのゆきずりの一晩を過ごした後、彼女の婚約者がバルセロナを訪れてベットで寛いでいるシーンがあるのですが、婚約者はヴィキーにこう言います:
「今日の君、とっても良かったよ。まるで別人だ。この街の雰囲気がそうさせるのかな?」

これは前回論じたように、理性の塊だったヴィッキーがアントニオにその理性を乱され、少し感情側に針が触れた事による結果、彼女がベットで情熱的になったと考えられると思います。しかし注目すべきは何も知らない婚約者がその理由に「バルセロナという街の雰囲気が彼女にそうさせた」と言わせている所だと思うんですね。そしてそれがヨーロッパで一般に流通しているこの街のイメージです。

バルセロナ在住者としてはそれが真実かどうか?という所は大変微妙なのですが、外から見たバルセロナがそのように見られている事は明らかだと思います。ヨーロッパの大学にはエラスモス(Erasmos)という交換留学制度があって、沢山の学生が毎年バルセロナに留学しに来るのですが、彼らの求めているイメージは正に「終わり無きパーティー生活」。この間、バルセロナ大学(Universidad de Barcelona)に行ったらこんなポスターが貼ってありました。

「エラスモス学生歓迎フィエスタ:ダブリン神学校看護学科との国際コラボレーションパーティー。夜12時から朝7時まで」。

こういう事に関してはものすごくがんばるカタラン人達。仕事はさほど熱心じゃないのに、土曜日にどのレストランに行って、その後何処のバーに行くか、という計画に対しては異常な執念を燃やして火曜日辺りから予約や人集めの為に電話を掛けまくるカタラン人。誰とは言わないけど、僕の席の前のGちゃん、金曜、土曜、日曜とフィエスタに行って、風引いたとか言いながら、実は二日酔いだみたいな事、フェイスブック(Facebook)に書いちゃダメですよ、ばれるって、みんな見てるんだから。

望む、望まずに関わらず、このような都市のイメージが出来上がっている事は確かです。そしてそれがこの都市を他の都市と差別化している。グローバリゼーションが進み、どんどんジェネリックシティが出来てくる中、今、バルセロナが注目されている理由の一つは、このイメージ操作による所が大きいと思います。そんな中、今回のような映画が出てきた事は正に必然だったといえるかもしれませんね。
| 映画批評 | 20:25 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
それでも恋するバルセロナ:ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その1:何故我々は真の愛に辿り着けないか?/何故人は人を愛する事が出来ないのか?
遅ればせながら、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)を見てきました。行こう行こうと思いながらナカナカ行く暇が無かったというのが言い訳。年末も近いし、主要なミーティングもほとんど終わったので「マッタリした週末を送るか」という事で重い腰を上げてイザ映画館へ。

はっきり言ってこの映画には全く期待していなかったのですが、コレが以外に良かった。映画の主題は熟考するに値するテーマだし、ウディ・アレン監督(Woody Allen)が意図してか意図せざるか知らないけど、バルセロナという現代都市のイメージを良く表している側面もあって、ちょっとその辺書いてみようかなー、と思わせる程のモノではあったと思います。タダ、惜しむらくは様々な政治的要因からウディ・アレン監督がこのテーマを十分掘り下げる事が出来ず、不完全燃焼っぽいという所でしょうか。

という訳で3回くらいに分けてヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナの映画評を書いてみたいと思います。第一回目の今回は映画のテーマについて。最初に断っておきますが、ココに書くのはあくまでも僕の観点から見た映画解釈なので何時ものようにかなり偏っています(笑)。こういう見方もあるというくらいに思っておいてください。あと、この評ではストーリー展開を詳細に追う訳では無いので、映画をまだ見ていない人が読んでもどうって事は無いと思いますが、まあ、それでも念の為一応:

警告:映画を未だ見ていない人はココで読むのをストップしましょう。

さて、鬼才、ウディ・アレン監督が今回選んだテーマはずばり、「何故我々は真の愛に辿り着けないか?」、言い換えると「何故人は人を愛する事が出来ないか?」です。コレだけ書いただけで鋭い人はもうピンときたはず。「あー、ギリシャ悲劇(Greek Tragedy)ねー」ですね。何世紀にも渡って繰り返し用いられてきたテーマ。演劇や文学であの手この手を使って繰り返し何度も説明されてきたこのテーマに今回、ウディ・アレンが現代版を挑みました。

人は感情と理性を持っている生き物です。そしてそれをバランスさせる事によって日々生活している。人を愛すると言う事は正にその均衡の上に成り立っている行為であり、真の愛とはその均衡の上でしか成り立たない行為なんですね。しかし人間は不完全な生き物です。感情と理性の完璧な均衡を達成するのは容易ではありません。というか不可能です。ウディ・アレンはこの映画で理性と感情を2人の女性に表象させて、それらの均衡とその不安定さを描き出す事によって、「何故我々は真の愛に辿り着けないか?」を説明しようと試みています。

ここで2人の女性とは言うまでも無く、ヴィッキー(Vicky)でありクリスティーナ(Cristina)です。レベッカ・ホール(Rebecca Hall)扮するヴィッキーはつまらない人生と言われながらも冒険よりは堅実な人生、正に石橋を叩いて渡る人生を送ってきました。反対にスカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)扮するクリスティーナは自由奔放、感情の赴くままに気ままな人生を謳歌しています。言うまでも無く、この2人は理性と感情の両極端を表象している訳なのですが、彼女らの外見にもそれらは反映されているんですね。これが結構巧いキャスティングだなと思った所なのですが、金髪のクリスティーナに黒髪のヴィッキー。ヨーロッパでは金髪=尻軽女というイメージが創り上げられています。それにもまして、スカーレット・ヨハンソンの魅力を「コレでもか!」と存分に引き出しているのがウディ・アレンの演出です。彼はスカーレットをどう撮ればセクシーに写るかを知り尽くしている感がある。一方、黒髪のクリスティーナは何時も地味目の服装に振舞いも固めと好対照を成しています。

さて、そんな両極端の彼女達の前に現れたのが、この映画のキーパーソンの一人、ハビエル・バルデム(Javier Bardem)扮するフアン・アントニオ(Juan Antonio)です。彼の出現により先ずはヴィキーの中で保たれていた理性のバランスが崩される事になります。それまでゆきずりの感情で人を愛した事の無かった彼女に、初めての体験が訪れます。で、彼女は迷う。今まで通り堅実な人生、安定しているけれどつまらない人生を送るべきか、それとも・・・、と。

一方クリスティーナの方は、アントニオとの行きずりの恋が成就して満足しかけています。そこに元妻という設定でペネロペ(Penelope Cruz)扮するマリア・エレーナ(Maria Elena)が登場し、彼らは三角関係になり、完璧な均衡に達します。物語の修了間際、クリスティーナはこの均衡状況に不満を抱いて、家を出て行ってしまいます。

理性は安定を、感情は不安定を常に求め続けます。逆に言うと、理性が不安定な状態になったり感情が安定な状態になったりした場合には、各々逆のモノを再度求め続けるんですね。アントニオの出現によって、ヴィッキーの心は乱され、不安定な状態にされました。一方のクリスティーナは三角関係という安定状態に入った為に彼女の心は逆に再度不安定を求める状態を望むようになったんですね。

一方はもう一方を望み、他方は違う方向を望む。その間の均衡を行けばいいんだけど、それが出来ないのが人間のサガというもの。この均衡の難しさをこそ、ウディ・アレン監督は描きたかったはず。

そして映画の中盤にこの映画の隠れた最重要人物が登場します。それがオビエド市(Oviedo)に住むアントニオのお父さん。彼は詩人で「この世の中の全ての人の上に立つ人」みたいな設定で登場します。詩人の言葉は愛の言葉であり、詩を理解するとは愛を理解する事である。しかし理性と感情のバランスを均衡させる事の出来ない人間には詩を理解する事は出来ない。彼はそれを悟っているが故に自分の詩を世の中に発表しようとはしません。ここでウディ・アレンはこの詩人を使って映画の主題を我々に伝えようとしています。

テーマとしては面白いし、大枠の物語展開も悪くないけど・・・うーん、もう一つかな。完璧には描ききれていない気がする。惜しい!!!ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナその2:都市のイメージに続く。

追記(14/09/2016):

昨日からツイッターのほうで、「#女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になっています。
洋画が日本に輸入される際、原題やオリジナルの内容とは全く異なる日本語訳になっていたり、宣伝用のポスターのデザインがオリジナルの雰囲気をぶち壊すような映画を批判しているのですが、今回の記事で取り上げた「それでも恋するバルセロナ」もその一つだと思います。原題は「Vicky Cristina Barcelona」なのですが、日本語訳では「それでも恋するバルセロナ」と訳されているんですね。



ウディ・アレン監督作品であるこの映画は、レベッカ・ホール演じるビッキーと、スカーレット・ヨハンソン演じるクリスティーナ、その二人がバルセロナを舞台に様々な出来事に巻き込まれていく様を描いているのですが、ここで重要なのは、「バルセロナ」という固有名詞が、二人の名前と共に並列に記載されている点です。つまりバルセロナという都市があたかも一人の人間として存在しているかのように「擬人化されている」というのがこの映画のミソなのに、日本語訳はその点を全く切り落としているんですね。



もっと言っちゃうと、この映画の重要なメッセージの一つは、「バルセロナという都市の魅力は、サグラダファミリアやガウディに代表される観光スポットにあるのではなく、人間味溢れる下町の雰囲気にあるのだ!」と言うことだと思うのですが、日本語版のポスターには何故かサグラダファミリアが付け加えられています。バルセロナ=サグラダファミリアというあまりにも短絡的な結び付けだですね。

ウディ・アレン監督作品であるこの映画は、そんなに単純な作品ではありません。
深い思考に裏打ちされた非常に素晴らしい作品なので、「この日本語訳とポスターのデザインには幻滅した覚えがある、、、」ということを思い出しました。
| 映画批評 | 17:52 | comments(5) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画としての建築
結婚式教会の村瀬君からもらったNHKプロフェッショナルの宮崎駿の回を見る。ハウル以来の新作映画創りの現場にカメラが入り3ヶ月間の密着現場取材。これまであまり明らかにされていなかった宮崎映画の出来上がる過程が映し出されています。

先ず、彼独特の手法としてイメージから入るというのは興味深い。大抵の映画作りの場合、ストーリーに合わせて絵を描いていくというのが常套手段ららしいんですね。それを彼の場合は最初にイメージを広げていくという。まるで「脳ミソに釣り糸を垂らすように」行われるその作業によってイメージの風呂敷を広げるのだと言う。そうしないと映画が自分の想像出来る範囲に収まってしまいつまらないものになってしまうんだそうです。

これって建築設計の過程に似ていると思いませんか。建築設計の場合って模型を使うんだけど、アーでもない、コーでも無いとかやってて何十個も創っている内に風とか吹いてきたり、踏んずけたりした時に出来た形の方が絶対的に良かったりする。昔、渡辺先生が話してくれた事に幕張のあの形がどうやって出来たかと言う事がありました。基本構想をしている時に紙を切り刻みながら槙さんとアーでも無いコーでも無いとかやってた最中に、ふと、ボールト状に曲げたその紙の4分の3辺りの所で切り替えしたその形がまるで鳥の翼が今にも飛躍しそうになっている躍動感に、あの巨大な施設が静的では無くなる可能性を見出して決めたと言う事でした。

もしくはスケッチを描くという建築家のもう一つの道具にも宮崎さんとの共通点が見えると思います。これって正に「忘れられないワンシーン」を創り出す作業ですよね。そのようなイメージから物語が生まれていくというのは建築設計と通じる所があると思います。建築の設計なんて正にその繰り返し。宮崎さんの仕事場が写っていたけど、壁に何枚ものキーとなるイメージ図を貼ってる所なんて建築作業場と見間違うほど。

人間の想像力なんてたかが知れていると思う。頭の中で思い描く事が出来るものなんて大概、世界のどっかの誰かが創造すると思う。そんな限界に挑んでいる人を見るのはとても感動的だし、僕もそっちの世界に生きていたいとあらためて強く感じました。
| 映画批評 | 08:49 | comments(2) | trackbacks(0) | このエントリーをはてなブックマークに追加
河瀬直美:殯の森
久しぶりに映画館に映画を見に行く。近年話題の河瀬直美監督作品「殯の森」。なんでもカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品だと言う事と、久しぶりにバルセロナに上陸した日本映画だと言う事で大きな期待感を持って映画館に入りました。

しかし見終わった後の感想は、はっきり言って「訳分かんなかった」です。ストーリーがまるで無いしリアリティも無い。主人公のお爺さんが無くなった奥さんの遺体を山奥に埋める?で、最後に山奥で絶命する?それを介護士が見ていて号泣する?・・・・・

僕はあまり映画を見ないし映画の歴史とかさっぱりなので映画批評文脈からは全く的外れかも知れませんが、僕が映画を見るポイントは大きく2つ。一つは監督がこの映画を通して何を言いたかったのかというポイント。つまり主題ですね。もう一つは映像の美しさという点。槙さんの言われるような「忘れられないワンシーン」があるかどうかというポイント。

後者については日本の自然の美しさが出ていたと思います。例えば冒頭の緑畑を前面に押し出して右側からなにやら葬式の列みたいなのがゆっくりと歩いてくるシーン。もしくは途中、緑の中を車が走っていき、そこへ風が駆け抜けていくシーンなど大変美しかったです。それを踏まえた上で言わせてもらえば「日本の自然の美しさ」に頼りすぎた部分があるのでは無いのか?とも思いました。ココの辺りは海外を視野に入れた戦略なのかな?

問題は前者。この映画の主題は多分「自分探し」でしょうね。ありきたりといえばありきたりの主題。故に今まで何度も色んな監督が色んな映画で色んな回答を出している。この映画の中では日常から離れる事で心が開放されて似たもの同士の二人が心を通わせる云々という話。ココまでの主題に対する状況設定は分からなくも無い。しかしそれに対する回答としての映画そのものの完成度には首をかしげざるを得ないのでは無いのでしょうか?説明不足と意味不明なシーンの展開(とって付けたようなエロチックなシーンなど)、ストーリー性の無さと理解不能な結論部分。うーーーん、どう理解すれば良いのやら・・・・

家に帰って早速ネットで調べてみたら皆同じような事を書いていた。つまりこの映画が意味不明なのは何も僕の映画読解能力のせいでは無かったと言う事ですね。とあるウェブページに受賞後の監督のスピーチの要約が載っていました。

「映画を作ることは大変なことで、それは人生に似ている。人生には様々な困難があり、人は心のよりどころをお金や服など、形のあるものに求めようとするけど、そんなものが満たしてくれるのはほんの一部です。私は光や風、亡くなった人の面影など、私たちは、そういうものに心の支えを見つけた時、たった1人でも立っていられる、そんな生き物なのだと思う。そんな映画を評価してくれて、ありがとう。これからも自分にしか撮れないものを映画にしていきたい」(5月28日付け朝日新聞などにより佐藤編集)

このスピーチからは彼女の映画に対する射程の広さと日本文化を背負っていくという気概は十分に感じられます。今回の作品には不満足ながら次回作に期待したいと思いますね。
| 映画批評 | 19:25 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
アジア映画際 IN バルセロナ(BAFF)
毎年この時期にバルセロナで開かれるアジア映画祭が始まりました。アジア各国から注目の映画を集めて2週間に渡って市内の映画館で上映するという試みです。今年の招待国は中国。日本からは東京失格ゆれる無花果の顔などが上映されます。

この企画には少し思い出があって2004年にCCCBに勤めていた時に少しこの企画に関わった事があるんですね。その時は日本の版権元に連絡したり、日本語訳がどうのこうのという話があったりと、初めての事ばかりだったので右往左往でした。あれからはや3年。今年はゆっくりと時間を見て日本映画を楽しもうと思っています。
| 映画批評 | 23:24 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画:Perfume
久しぶりに映画を見に行く。80年代にベストセラーになったドイツ文学のPerfume,「香水」。良かった。日本ではまだ公開されていないようなので詳細は書きません。

物語は天才的な嗅覚を持った少年が究極の香水を創り出すという周りに展開する。しかしこの少年はその嗅覚で全てのモノを識別出来るという能力の代わりに自身には匂いが無いという事と同時に、少女には特別な匂いがあるという事に気が付く。そして如何にしたら人間の匂いを保存でき、自分にもその匂いを移し取る事が出来るかと展開して行く。

この物語の中で「匂い」がその人の人生を体現するモノとして用いられている。この表象は秀逸だと思う。匂いと言うのは一人ひとり違うしそれがある種の人格を表しているというのも納得できる。同時にその匂いが無いという事を通して主人公の人格が虚構であり、彼の「最高の香水探し」が同時に「彼の人格探し」になっている。

きっとこの原作者は人生=匂いという定式を見つけ出してこの物語を書いたんでしょうね。このようなはっきりと見える一つのアイデアをその周りに展開させる物語によって最高に高めていくというのはきわめて建築のデザインに似ているような気がする。
| 映画批評 | 05:44 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加