地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ:アルヴァロ・シザのガリシア現代美術センターその2
キリスト教3大聖地の1つであり、中世から続く巡礼路「サンティアゴの道(El Camino de Santiago)」の終着地点でもあるサンティアゴ・デ・コンポステーラに行ってきました。



この都市の起源は非常に古く、今から1000年以上も昔に遡ります。当時、イベリア半島で布教活動をしていたのがキリスト教12使徒の一人、ゼベダイの子ヤコブ。彼は6年間の布教活動の後、イスラエルに戻ったもののヘロデ王によって直ぐさま捕らえられ斬首刑。首を刎ねられた遺体は、弟子達によってこっそりとスペイン北西部ガリシア州のフィステーラ(Fisterra)に運ばれ、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラが位置する土地に紀元1世紀半頃に埋葬されたという伝説が残っているんですね。



長い間忘れられていたそのお墓が再び発見されたのが9世紀初頭の事。奇しくもスペインはその時代、レコンキスタの真っ最中であり、聖ヤコブはイスラム教勢と闘っていたキリスト教勢を守護するシンボルとして熱狂的に崇められました。現在我々が見ているサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂というのは、元々は、発見されたヤコブの遺骨を祭る為に建てられた小さなものだったんだけど、それが世紀を超えて増改築が繰り返された結果、遂には西方カトリック世界における代表的な巡礼地に相応しい大聖堂になったと、そういう経緯が存在します(大聖堂については次回のエントリで詳しく書く事にします)。

さて、僕が今回(正に巡礼者の如く(笑))この地に再び赴いた理由は主に3つ。

1つ目は上述のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂と、その周辺状況を調査する為です。と言うのも約一年前、人類の至宝とも言うべきカリクストゥス写本(Codex Calixtinus)が大聖堂から盗み出され、それ以来、その事件の動向には常に注目してきた事もあって、現在どういう状況になっているのか非常に関心があったからなんですね(詳しくはコチラ:地中海ブログ:サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂から12世紀に記されたカリクストゥスの写本(Codex Calixtinus)盗まれる!、地中海ブログ:スペインの石川五右衛門こと、伝説的な大泥棒のインタビュー記事:サンティアゴ大聖堂から盗まれたカリクストゥス写本について、地中海ブログ:サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂から盗まれたカリクストゥス写本(Codex Calixtinus)発見!)。そして2つ目の目的がコチラ:



ピーター・アイゼンマンが手掛けたガリシア文化都市(Cidade da Cultura de Galicia)を訪れ、その空間を実際に体験してみたかったからです。この建築、去年来た時は未だ完成してなくて図書館とカフェくらいしか見る事が出来なかったんだけど、「流石に1年も経ったら完成してるだろう」と言う事で再訪したんだけど、丘を登っていくと何やら悪い予感が‥‥。



あ、あれ、クレーンとかが未だ動いてる‥‥。そうなんです!何とこの建築、予想に反して未だ工事中だったんですね!って言うか、緊縮財政で医療、教育分野でさえ予算が全く無いって言う状況の中、こんなバカでかい建築、本当に完成するのかー?何てったって、バブル絶頂期にガリシア地方で圧倒的な権力を握り続けたガリシア州政府フラガ大統領の個人的な要求から構想された「ピラミッド計画=墳墓」ですからね(フランコ政権時代からの大物政治家、フラガ氏についてはコチラ:地中海ブログ:スペイン語の難しさに見るスペインの多様性:ガリシア語とカステリャーノ語)。



でも、まあ折角来たんだからという事で一応中に入ってみたんだけど‥‥ハッキリ言ってコメントする事は何も無いかな(悲)。「良い建築を知る為には悪い建築も見ないといけない」という意味においてココに来た事も無駄では無かったかなとは思うんだけど‥‥。この巨大な建造物に関しては去年のエントリで書いたので、興味のある方はそちらを見て頂ければと思います(地中海ブログ:ガリシア旅行その5:ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)のガリシア文化都市(Cidade da Cultura de Galicia):スケボーするには画期的な建築)。

で、気分を取り直して、今回の旅の3つ目の目的地へGO!それがコチラです:



アルヴァロ・シザの傑作中の傑作、ガリシア美術センターの登場〜。この建築を訪れるのは今回で5回目くらいなんだけど、いつ来てもその空間は輝きを増すばかり!ここに展開されてる空間構成こそ「知的ゲーム」と呼ぶに相応しいものだと思います。



この建築に展開する空間構成や視線操作の妙などについては、去年来た際に書いたエントリで書き尽くしたので、興味のある方はそちらをご覧ください(地中海ブログ:ガリシア旅行その6:アルヴァロ・シザの建築:ガリシア美術センター(Centro Gallego de Arte Contemporaneo):複雑な空間構成の中に隠された驚く程シンプルな原理)。一年経った現在、もう一度この建築を訪れてみた僕の感想は、基本的にその時と変わりません。今日はココに来て気が付いた事を補足的に少しだけ。



何度も繰り返すのですが、シザ建築の特徴の1つはパースペクティブ的空間にあります。そしてその効果が「これでもか!」と見える建築、それがこのガリシア美術センターなんですね。例えばコチラ:



元々この敷地に存在していたSan Domingos de Bonava修道院との関係性を注意深く吟味した上で決められた配置計画、これがこの建築の全てだと言っても過言ではありません。



修道院との間に創られる2つの線が織りなすパースペクティブ的空間と、それらの線が向かう先にある消失点。これらの線が、外観だけでなく内部空間までをも規定し、素晴らしい空間構成を実現している起源なのです。今回は以前のエントリでは紹介出来なかったパースペクティブ的空間を創り出しているテクニックを1つだけ紹介しておきます:



正面ファサードに付いてるスロープと開口なんだけど、良―く見ると、その開口が手前から奥に行くに従って斜めになっている事に気が付くかと思います。もう少し近寄って見ます:



上の写真は手前側の開口が始まる部分。そして下の写真は奥の方の開口が終わる部分なんだけど、あちら側とこちら側とでは開口の高さが明らかに違うのが見て取れるか思います。



つまり直線を斜めにする事によって、一方向から見たパースペクティブを強調しているんですね。僕がシザの建築について「パースペクティブ的空間」という言葉で表そうとしているのは、何も観念的な難しい事ではなくて、この様な身体的なとても単純な事なのです。しかしこの様な誰にでも分かる単純な操作が、大変ドラマチックな視覚的効果を生み出すという事を我々は学ぶべきだと思います。

で、今回、僕がこの部分をそれこそ舐め回す様に観察していたら、それを見ていた警備員のおじさんが近寄って来てこんな裏話を教えてくれました:



「君、君、この建築に興味があるみたいだね。私はこの美術センターが出来た時からここで働いてるんだけど、当初このスロープに手摺は付いてなかったんだよ。この美術館が完成して数ヶ月した頃だったかなー、アロヴァロ・シザがここへやって来て、来館者の人達がこのスロープの途中から「ひょい」と飛び越えていくのを見て彼は大変機嫌を悪くしてねー。どうやら彼の当初の意図としては、このスロープを最後まで歩いて行ってもらい、そこから振り返り様にこの建築を見て欲しかったみたいだよ。だから彼はここに手摺を付けて、来館者が途中からスロープを昇れない様にしたのさ」



警備員のおじさんとは約10分程度話していたので、もっと色んな事を教えて貰ったんだけど、要点を掻い摘むとこんな感じになるかと思います。

コレです!こういう、書籍には絶対に現れてこない話、現地に来ないと絶対に分からない裏話などに、実はシザ建築の謎を解く鍵が眠っていたりするのです!

全く予想もしなかった裏話が聞けて、ルンルン気分で中へ入って行った所、今回の訪問で初めて気が付いた事がありました。多分それは先週行ったシザの真っ白な教会こと、マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下聖堂に入る事が出来たのが大きかったと思うのですが‥‥(地中海ブログ:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下空間:真っ白な空間と真っ黒な空間)。



上の写真は展示室への入り口を潜った所に展開する素晴らしいレセプションの風景なのですが、手前側には天井に斜めの線のパースが付いた低くなった空間が存在するのが分かるかと思います。その反対に、その向こう側には下の写真の様な2層吹き抜けの空間が創られていて、その上方には明かり取りの為の大きな大きな窓が付いているんですね。



そう、ここでシザが試みている事、それは入り口を入った所からは光源を見えなくしつつ、そこから零れ落ちる柔らかい光やその光源の具合によって不思議に変化する光の空間を試しているんですよ!(写真ではかなり分かりづらい。と言うか、この空間の質は写真では捉えられないと思う)



これはまるで、先日見たマルコ教会の真っ正面に付いていた2つの不思議な長方形の窓と、そこから見える光の効果の様ですらあります。と言うか、ここへ来てあの時の光の効果を思い出したと言った方が正確かな。



そしてシザの十八番、床と家具を連続させるデザインにも注目。シザの建築においては何処からが家具で、何処からが建築なのかがかなり曖昧なんですね。もっと言っちゃうと、「その2つの間を行ったり来たりしている」という点が、彼の建築の魅力の1つでもあるかなと、そう思います。



この真っ白で透明な空間。この空間に漏れるあの不思議な光。過去と現在を結び付ける軸線による空間構成‥‥。ここに来ると何故アルヴァロ・シザという建築家が現代最高の建築家の一人と言われるのか、その理由がイヤという程分かります。そしてここに展開されている空間は決して写真では捉える事が出来ない質を伴ったものであり、実際にここを訪れる事でしか体験し得ないものだと確信します。

それこそ、建築の怖さでもあり面白さでもあるのです。
| 旅行記:建築 | 03:40 | comments(4) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
アルヴァロ・シザの建築:アヴェイロ大学図書館(Biblioteca Universidade de Aveiro)
「人間こそ人間にとって最も興味あるものであり、おそらく人間のみが人間に興味を感じさせるものであろう」ゲーテ
“Man is ever the most interesting object to man, and perhaps should be the only one that interests” (Goethe, 1796 p64)

ポルトから電車で1時間ほどの所にある町、アヴェイロ(Aveiro)に行ってきました。



電車でこの町にアプローチすると先ず目を惹かれるのがアヴェイロ旧駅舎を飾っている大変美しいアズレージョ。ポルトのサン・ベント駅もそうなんだけど、ポルトガルの駅舎には旅人を迎え入れ、又、旅立つ人を送り出してくれる大変素晴らしい空間が用意されているんですね。



町中へ出てみると、町のド真ん中を流れる運河に出会します。アヴェイロは「潟」の町として発展してきた事などから、「ポルトガルのヴェネツィア」と呼ばれる事もしばしばなんだとか。正直言って、それはちょっと言い過ぎかなと思うけど(笑)、町中に水辺の空間があるのは大変気持ちの良い事だと思います。で、今回僕がこの町に来た理由、それはアルヴァロ・シザが1995年に設計したアヴェイロ大学図書館を見る為なんですね。



鮮やかな橙色の壁がうねるその姿は、まるで海から吹く風にヒラヒラとなびいているかの様ですらあります。と言うか、多分シザはこの地に来た際、そんなイメージを膨らましたのでは?と思う程の湿地帯が目の前に広がっているんですね。こういう情報こそ、現地に来ないと絶対に分からない事であり、写真には決して写らない情報なのです。



この建築はシザの代表作の1つとしてあまりにも有名なんだけど、マルコ・デ・カナヴェーゼス教会(1989年)、ガリシア現代美術センター(1993年)、セトゥーバル教育大学(1993年)、セラルヴェス現代美術館(1997年)など次々と名作が竣工する、正にアルヴァロ・シザという建築家の黄金期に計画された事などから、彼の建築に対する基本的な考え方や方針を体現してくれている傑作だと個人的には思っています(シザの他の作品に付いてはコチラ:地中海ブログ:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下空間:真っ白な空間と真っ黒な空間、地中海ブログ:ガリシア旅行その6:アルヴァロ・シザの建築:ガリシア美術センター(Centro Gallego de Arte Contemporaneo):複雑な空間構成の中に隠された驚く程シンプルな原理、地中海ブログ:ガリシア旅行その8:アルヴァロ・シザの建築:セラルヴェス現代美術館(Museu de Arte Contemporanes, Fundacao de Serralves):人間の想像力/創造力とは)。

町の中心部から歩く事15分、見えてきました目指すべき建築が:



先ずはここがこの建築を見る1つ目のポイントだと思うんだけど、シザはこの建築に対するアプローチを建物に対して対角線上に配置しています。つまりここで既にシザ建築の1つの特徴であるパースペクティブ的空間が見られるという事なんですね。



そしてメインアプローチ側から見えるファサードの構成は、あくまでも直線を基本とする四角形の組み合わせに拘っているのが見て取れます。前面には気持ちの良い程の芝生空間が広がっているにも関わらず、この建築にはその風景を楽しむ為の前面ガラスどころか十分な窓すら見られないという事を(伏線として)ここで指摘しておいても良いかもしれません。



そんな事を思いつつ、言われるがままにアプローチ空間を歩いていくと現れてくるのがこの風景:



建物と建物のフレームによって切り取られた真っ青な空!‥‥実測した訳じゃないんだけど、ここで切り取られた空の高さと、マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の扉の高さ、そしてポルトの市場の天井の高さが同じくらいだという事も指摘しておいても良いかもしれません。



この空を切り取っているフレームの全体像をちょっと離れた所から見てみると上の写真の様になってるんだけど、全てを跳ね返すかの様な頑強な壁が一層部分で少し跳ね返る事によって、まるで訪問者に「おいで、おいで」と言っているかの様です。フムフムと思いながらイヨイヨ中へと入って行きます。



入り口を入って少し歩を進めると、そこでは3層吹き抜けの空間が我々を出迎えてくれて、見上げると天空にぽっかりと空いた2つの穴が見えます。そう、既にここでクライマックス的空間の「チラ見」をさせ、そこに至るまでの期待感を膨らませているんですね。そしてこの空間を抜けると広がっているのがこの風景:



温もりのある木を基調とした落ち着いた感じの閲覧室と書架の並んでいる風景です。この木の色と材質、そしてそれらが醸し出す雰囲気が、真っ白の柱や天井と素晴らしいハーモニーを創出し、大変居心地の良い空間となっています。



注目すべきはこの書架のデザインかな。良―く見てみると、書架の高さが入り口などの開口と同じ高さになっている事に気が付くかと思います。素材は床材と一緒。そうする事で、書架を床からの連続として扱っているんですね。この空間の中で建築的な要素は柱しか存在していないかの様です。



一階部分の天井には大きな大きな四角形の2つの吹き抜けが設けられ、見上げればこの風景:



2階部分の天井に空いた吹き抜けを通して3階部分の水玉模様の丸い天窓が見えます。面白いのは1階部分と2階部分に空けられた吹き抜けの位置がズレてる事。これがどれくらいズレているかは2階から見ると分かり易いかなと思います:



ほらね、ズレてるでしょ?で、もっと面白いのは、この吹き抜けの周りに沿って閲覧席が設けられている事なんですね。



この閲覧席の配置のアイデアが、この図書館の1つの特徴となってると思うんだけど、と言うのもこの図書館では普通の図書館の様に、閲覧席が外の風景を眺める窓際に並べられているというよりは寧ろ、内側に向かって向き合う様に並べられているんですよ。



勿論、水平一直線に切り取られた窓は存在して、その窓に沿って閲覧席も設けられている事は設けられてるんだけど、そこから見える風景は「歓迎されている」と言うよりは「抑圧されている」、もしくは「制限されている」と言った方が良い様な気がします。



これをどう読むのか?つまりここにおけるシザの意図とは一体何なのか?

その答えの1つが、以前のエントリで訳したシザのインタビュー記事の中に垣間見られる気がします。その中で彼はこんな事を言っているんですね:

R:シザ
Q:インタビュアー

R: その通りです。しかし又、別の事も学びましたけどね。小さい時の経験は、住居とその外部との関係性について考えさせてくれたのです。祖父母の家で療養して いる期間は外に出る事が厳しく禁止されていました。2ヶ月もの間、ずっと家の中に居なくてはならず、その間、殆ど毎日の様に窓から外を眺めていたのです。 と言うか、それしかする事が無かったのです。
R: Sí, pero también hay otros aprendizajes. Esa de niño fue una experiencia que me hizo pensar la casa y su relación con el exterior. Yo no estaba autorizado para salir. Tuve que permanecer encerrado dos meses, y eso me obligó a mirar por la ventana.

Q: どんな病気だったのですか?
Q: ¿Qué enfermedad tenía?

R: 当時の子供がみんな患ってた病気でした。結核の前症状の様なものです。当時は未だ効果的な治療薬が無く、最善且つ唯一の治療法と言えば絶対的な安静でした。だから小さな,本当に小さな村に移り住む事になってしまったのです。家の中は窮屈だったので、新鮮な空気を吸う為にベランダへ良く出て行ったものです。そこからは本当に美しい景色が見えました。「開発されていない」という事は、「美しい風景が保持されている」という事と同義語です。その村は小さな農村で、建築が風景を創っていました。だからこそ、風景はキラキラと輝いていたのです。それらは本当に息を呑むほど美しかったのですが、15日間の療養中、四六時中見ていたものですから、何時しかそれらの風景は私の中に入り込み、私の心を一杯にしてしまいました。その時の経験が、後の私の作品に大きなガラス 窓を創り出す事を避けさせたり、断片的な開放部を意識的に設けたりする事を好むようにしたのだと思います。
R: Yo tenía, todos teníamos entonces, una “primera infección”, la antesala de la tuberculosis. Todavía no había antibióticos y la única posibilidad de recuperación era el reposo absoluto. Total, que estaba en un pueblo muy pequeño. Y me acercaba a la terraza para tomar aire. Desde allí se veía un paisaje maravilloso. La falta de desarrollo se traducía allí en la falta de deterioro del paisaje. El pueblo era un pueblo agrícola, y es la arquitectura la que hace el paisaje. Por tanto , el paisaje era precioso. Pero, a pesar de eso, tras 15 días de reposo ya no soportaba verlo. Por eso, años después, evité la tentación de crear una gran cristalera con una gran vista y preferí orientar las aberturas de una forma intencionada, pedazo a pedazo.

Q: クライアントは大きな窓を欲しがるのではないのでしょうか?小さな窓を創る事を理解しますか?
Q: ¿Los clientes lo entienden?

R: 文句を言う人が多いですね。「美しい風景の前では、それらを見渡す展望台を創るべきだ」と、そう考えているのです。その様な時、私は何時もこう答えます: 「それは違う」と。「美しい風景を見続ける事は人間を心から疲れさせるだけだ」と。風景を望む事は「押し付け」になるべきではなく、それを見るかどうかと 言う「選択肢」であるべきなのです。
R: Protestan. Frente a un gran paisaje creen que hay que hacer un gran mirador. Y yo les contesto que no, porque cansa. El paisaje no debe ser una imposición permanente, debe ser una elección.
(地中海ブログ:アルヴァロ・シザ(Alvaro Siza)のインタビュー記事:シザ建築の特徴は一体何処からきたのか?

そう、シザはここでハッキリと「美しい風景を見続ける事は人間の心を疲れさせるだけだ」と、そう言ってる訳ですよ!そしてこの独特の姿勢こそが、シザの建築を希有なものにしている根源であり、このアヴェイロ図書館ではその基本的方針を鮮明に見る事が出来るのです。つまり彼の関心は、外に広がる自然にではなく、人間自身に向かっていると、そういう事が出来るんじゃないのかな?

さて、そんな事を考えつつ、イヨイヨこの建築のクライマックス的空間である3階へと上っていきます。そこに広がっているのがこの風景:



圧巻の丸天井のアンサンブル!これこそ正にてんとう虫のサンバ(笑)。で、ここからが面白い所なんだけど、このてんとう虫のサンバ、よーく見てみると、天井面がフラットではない事に気が付くんですね。



ほら、ちょっと丸みを帯びてるでしょ?



ちなみに1つ1つの丸天井はこんな感じで結構奥行きが深く出来ていて照明が取り付けられています。多分夜になるとこの照明が光って、この穴が光る筒になると、そういう事なんでしょうね。

「外に開くというよりは内側に開かれている」、この建築の内部空間を堪能した後は外に出てみます。先程入って来た入り口を出て、来た方向とは反対へ曲がってみるとそこに広がっているのが、この建築一番の見所であり、最もドラマチックなこの風景です:



じゃーん、うねる壁!!



前回のエントリで書いた教会と同様に、この図書館もその鮮やかな橙色が、真っ青な空に凄く映えるなー。



シザの建築には至る所にアアルトの影響が見られ、ヘルシンキにあるアカデミア図書館(アアルトが設計した本屋さん)なんかはポルト大学の図書館の元ネタになってたりするんだけど(地中海ブログ:Alvar Aalto (アルヴァ・アールト)の建築:国民年金協会とアカデミア図書館)、このアヴェイロ図書館もアアルトのMIT宿舎の影響なんかが見て取れます。



って言っても、その様なアイデアが何処から来たかという事はさほど重要じゃなくって、その様な元ネタが、ある時に「ふっ」とシザの空間に変換させられている、そっちの方がよっぽど重要な事だと思います。大体創作の基本は模倣ですからね。だから「あ、これはアアルトのコピーだ」とか、「あ、ここにはライトの影響が見える」とか、そういう指摘をして思考を終わらせていたら、それこそシザ建築の本質を見失ってしまう様な気がする訳ですよ!



あー、又脱線してしまった‥‥。で、実は今回この建築を訪れるのは10年振りくらいだったんだけど、個人的に驚いたのはコチラです:



圧倒的な見所であるコチラ側のファサードの目の前に駐車場が出来てるー!何処から見ても正面ファサードに車の姿が映り込んでしまい、ちょっと不満(悲)。「あ、あれ、昔はこんな駐車場無かったのになー」と少し文句を言ってみる。



このファサードは角度を付けて見ると、カーブが絶妙に重なり合って非常にカッコイイ風景が姿を表すんだけど、それを真正面から見ると、ビヨーンと真横に間延びした形になって、それがこのポルトガルという地のゆったり感を醸し出しているかの様で、それはそれでナカナカ秀逸な表象だなと思います。そして振り返るとこの風景:



そう、この建築は湿原のド真ん前という、見方によっては最高に眺めの良い敷地に立っているんですね。にも拘らず、上述した様にファサードにガラス窓はあまり見られず、建築空間が内側に向かっている訳ですよ。近くへ寄ってみると、この点がより明らかになると思うんだけど、実はこの建築、ハリボテ建築なんですよね。



躯体から数メートル離した所にわざわざファサードを持ってきて、それによって先程のクネクネを創り出している事が分かるかと思います。



外観に関しては非常に巧みな視線操作が行われ、シザはこのクネクネを如何にドラマチックに見せるかという事に全てを集中させ、それを効果的に見せる為に、わざわざ反対側のファサードを直線と四角形で構成しています。つまり、メインアプローチをわざわざ反対側に設定し、ここを訪れる人々に「直線によるカクカク」という感覚を植え付けておきつつ、最後に「曲線によるクネクネ」を見せると言う物語を創り出しているんですね。

繰り返しますが、この建築にはシザ建築に共通して見られる3つの特徴、パースペクティブ的空間、天井操作、そして物語的空間展開だけでなく、シザの幼少の頃の体験が元になった空間構成が非常に明確に見える作品となっていると思います。

ポルトからは電車で1時間と、それ程遠くない町ですし、是非訪れて欲しい建築の1つです。

おまけ:

この町に朝着いて、シザの建築を見ていたらお昼になってしまったのでレストランを探していたのですが、町の中心広場の辺りで営業しているレストランは観光客狙いで値段はちょっと高め、料理もイマイチっぽい‥‥。と言う訳で、「大通りを一本中へ入った所で何処か良い所はないかな?」と探していたら、一件良さそうなお店が。



お店の雰囲気も良く、食べに来ているのは地元のビジネスマンと見られる人達ばかり。お昼の定食もあったんだけど、メニューを見るとポルトガル北部の代表的な料理、「アンコウの雑炊(arroz de tamboril)」があるじゃないですかー!



市場が真横にある事から、そこから買って来たと見られるプリプリの海老が「これでもか!」と入ってて、物凄く美味しかった!値段も結構安くて大満足!もしアヴェイロにシザの建築を見に行ったのなら、ここでランチして帰ってくるのも良いかもしれません。

Name: A Tasca do Confrade
Address: Rua dos Mamotos, 34, 3800-220, Aveiro
Tel: 234386381
Email: tasca.doconfrade@sapo.pt
| 旅行記:建築 | 18:28 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下空間:真っ白な空間と真っ黒な空間
ガリシア地方滞在を利用して、地理的にも文化圏的にも非常に深い関係にあるポルトガル北部の都市、ポルト(Oporto)へ来てみました。



秋口から春先に掛けてまるで梅雨の様に雨が降りまくるポルトガル北部では、その期間中は晴れの日が非常に少なく、ともすれば1ヶ月間太陽がお目見えしない事なんてざらなんですね。更に海から吹き付ける強烈な大西洋風によって、雨が真横から叩き付けられる様に降ってくる為に、傘で防ぐ事はほぼ不可能。結果、毎日の様にズボンや服がビシャビシャになり、それこそ「不快感度数150%」という日々が続きます。



そんな暗黒期間(笑)を経た上で迎えるハイシーズンにおいては、それまでの数ヶ月間に溜まりに溜まった鬱憤を一気に晴らすかの様な素晴らしい風景がこの都市に姿を現します。それはまるで都市全体で夏の到来を喜んでいるかの様な、そんな幸せな光景があちらこちらで垣間見られます。



世界遺産に登録され、魔女の宅急便のモデル都市になったと言われているこの美しい風景こそ、この地に暮らす人々が心の底から誇りにしている財産であり、彼らの生活の質の高さを表しているかの様ですらあります。そしてそんな彼らのもう1つの誇り、子供からお年寄りまで誰もが知っているこの街のヒーロー、その人こそローカルな土地を基盤にしながらグローバルに活動を展開している建築家、アルヴァロ・シザという人なのです。



ポルトガルに着いた初日、世界で最も美しい教会の1つと僕が(勝手に)思ってる真っ白な教会こと、マルコ・デ・カナヴェーゼス教会を見に行ってきました。この教会を見るなら午前中、欲を言うなら気持ちの良いほど空が晴れ渡っている日の10時前くらいがベストかなと、そう思います。何故なら東から昇ってきたお日様の光がこの教会の真っ正面に当たり、青い空を背景に、真っ白なその躯体をより一層美しく見せてくれるからです。



優れた造形力を有する建築家というのは、それまでは美しいと思いもしなかった形や側面を提示する事によって、「あ、あれ、この形って実は結構美しいんじゃないの?」と我々に再発見させてくれる事がしばしばです。



僕が考えるシザ建築の魅力の1つというのは実はそこにあって、例えば上の様な形態なんて、ありがちかもしれないんだけど、シザが提示するまではそれほど魅力的な形だとは思われてなかったと思うんですよね。でも、このヘンテコな形態が朝日に照らされ、真っ青な空に映し出されると、思いもよらなかった魅力を醸し出し始めるから不思議です。そしてこの様なアクロバッティブな形態操作を成り立たせているのがこちら:



ともすれば見落としてしまいがちなんだけど、きちんとデザインされている細部です。これは何も「神は細部に宿る」とか、そういう難しい事を言おうとしているんじゃなくて、こういう基本的なデザインがキチンと処理されている、その上でアクロバッティブなデザインがされていると、そう言いたいだけです。例えば上の例で言うと、この橙色の石を半円形の所でスパッと終わらせるんじゃなくて、正面の長方形の側までホンの少しだけ回りこませる事によって自然にデザインを終わらせています。長さにしてほんの数センチの出っ張り、そんな小さな差が、これ以上は無いという大きな大きなデザインの質の差として機能するのです。同様の事がコチラにも見られます:



正方形のガラス面と先程の橙色の壁が、コレ又大変見事に切り返され且つ連続しているのが見て取れるかと思います。派手じゃないんだけど、こういう所がしっかりと処理されているからこそアクロバッティブなデザインが生きてくるのです。って言うかこういう基礎的な所が無かったら、それは単なる形態遊び、もしくは「ギャー、ギャー騒いでるだけ」のうるさいデザインで終わってしまいますからね。



ここで繰り返す事は敢えてしないけど、僕はシザの建築こそ「能のデザイン」であり「静のデザイン」だと思っています。つまり毎回違う事をやって観客を喜ばせるのではなく、一見同じなんだけどチョットだけ細部を変える事によって観客の見る眼を試す差異化によるデザイン(地中海ブログ:歩いても、歩いても(是枝裕和監督):伝統と革新、慣習と感情の間で:リアリズムを通して鑑賞者の眼が問われています)。



そんな魅力溢れるシザのデザインは見れば見るほど新たなる発見があり、それこそ教会の周りをぐるぐる回ってるだけで半日くらいは簡単に過ぎていってしまうんですね。ちなみに今年は20週くらいした所で司教さんとの待ち合わせ時間になってしまったので、向かいにあるコミュニティセンターのベルを押して司教さんを呼び出し、教会の鍵を開けてもらい中へ入らせてもらいました。



側面にそっと備え付けられている小さく控え目な入り口を入ると、そこからは温もりのある木製の椅子達が大変行儀良く並んでいるのが見えます。それを眺めつつ入り口を潜ると眼に飛び込んでくるのがこの風景です:



圧巻の真っ白な空間の登場〜。この10年間、この教会には何十回と来ているのですが、いつ来てもこの空間が醸し出している気持ちの良さに変わりはありません。



「何時までもここに居たい」、心の底からそう思わせてくれる空間がここには在ります。この内部空間の素晴らしさについては以前のエントリで十分に書いたので興味のある人にはそちらを見て頂く事として(地中海ブログ:ガリシア旅行その9:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会(Igreja de Santa Maria do Marco de Canaveses):世界一美しいと思わせてくれる真っ白な教会)、今日のエントリでは1つだけ強調しておきたい点が。



これも繰り返し書いてきてる事なんだけど、シザ建築には幾つかの共通した特徴があって、それがシザの建築を「シザ足らしめている」と僕は思っています。手短に言うとそれは、1. パースペクティブ的空間、2. 天井操作、そして3. 物語的空間シークエンスの3つなんですね。



パースペクティブ的空間については、実際に彼の建築を訪れてみれば一発で分かると思うのですが、シザが創り出す空間には、見間違う事無いパースが付いています。



良く知られている様に、シザはスケッチを描きながら建築を創作していくのですが、そのスケッチの多くは右肩上がりのパースが付いている事で知られています。実はあのスケッチというのは、2次元という紙媒体に3次元の建築を表現する為に付いているのでは無く、「シザの頭の中では最初からパースが付いた建築が想像されているのでは?」というのが僕の持論です。ちなみに昔のシザは余り絵を描かなかったそうなんだけど、何故かというと、亡くなった奥さんの方が明らかに絵が上手かったので、自分の下手くそな絵を見られるのが恥ずかしかったからなのだとか(詳しくはコチラ:地中海ブログ:アルヴァロ・シザ(Alvaro Siza)のインタビュー記事:シザ建築の特徴は一体何処からきたのか?)。

シザ建築2つ目の特徴は天井操作です。



ガリシア美術センターの展示室に取り付けられたテーブルを逆さにしたかの様な造形に始まり(地中海ブログ:ガリシア旅行その6:アルヴァロ・シザの建築:ガリシア美術センター(Centro Gallego de Arte Contemporaneo):複雑な空間構成の中に隠された驚く程シンプルな原理)、初期の銀行で見せた槙さんの風の丘の葬祭場を彷彿とさせる大胆な天井の切り取り方など、シザは空間を創る際、必ず天井操作を伴った構成をしてきました。そして最後の一点が物語的な空間シークエンスの展開なんだけど、こちらは書き出すと長くなり過ぎるので、興味のある方はこちらへどうぞ→(地中海ブログ:ガリシア旅行その7:アルヴァロ・シザの建築:ポルト大学建築学部:外内部空間に展開する遠近法的空間と、その物語について)。



で、ここまで書いてきて鋭い読者の方は気が付いたかも知れないんだけど、こういう観点で見るとマルコ・デ・カナヴェーゼス教会というのはそれら3つの特徴のどれも見られないんですね。



確かにパースは付いてるんだけど、それは前方の祭壇両側の四半円形が中心部に向かって流れ込んでいくという様な、他の建築構成で見せている一直線で分かり易いパースとは明らかに質が違います。



天井に関しては見るからにフラットで天井操作は全く無し。空間シーケンスについても、教会というビルディングタイプが要求している機能という側面もあるだろうけど、「起承転結」という様な一連の物語空間は見られません。



つまりこの建築はシザの代表作に見做される事が多いにも関わらず、実は一連のシザ建築作品の潮流からしたら、異色の存在という事が出来ると思う訳ですよ!

そしてもう一点、この教会について今まで全く語られてこなかった点、それがコチラ:



そ、そーなんです!実はこの教会にはその存在さえ全く知られていない、上の真っ白な教会堂と対をなすかの様に存在する、薄暗くひっそりと存在する地下空間があるんですね。



僕がこの空間の存在を知ったのは全くの偶然でした。あれは忘れもしない10年ほど前の事、日課の様に毎週1回この教会に来ていた時期があったのですが(当時は暇だったのです(笑))、その日に限って何やら教会堂の下の方がざわざわしてて、いつもとは雰囲気がちょっと違う‥‥。「な、なんだー?」と不思議に思い下階の方へ回ってみると、普段はしっかりと閉まっている扉が開いてるじゃないですかー!(普段この扉は下の写真の様に閉まっています)。



沢山の人達が出入りしていたので、僕もその人達に交じって恐る恐る中へ入ってみると、そこには思いもしなかった光景が広がっていました。薄暗い空間の中で、悲しみが辺りを包み込みながらお葬式が行われていたんですね。

夢にも思わなかった空間に出会った衝撃と、真っ白な教会堂との計り知れないギャップ、更に「お葬式」という特殊な状況下において、当時は写真を撮る事は勿論の事、あまりジロジロと見て回る事も出来ませんでした。それ以来この教会に来る度に、「もう一度あの空間に入りたい!」と望んではいたんだけど、その度に司教さんに「ダメー!」って断られるという押し問答の繰り返し(苦笑)。で、今回は教会堂を訪れる前日に電話で感触を確認し(笑)、更に訪れた当日に片言のポルトガル語で「とっても素敵な教会ですね。世界一美しい空間じゃないですか!‥‥あ、あのー、下に広がってるこの世のものとは思えない空間にも入りたいんですけど‥‥」とか言ってみたら、「お、君日本人なのにポルトガル語分かるのか?」と、ちょっと良い感触!「じゃあ、しょうがないなー」みたいな感じで入れてもらえる事に!こういう時、「現地の言葉が出来ると本当に得だよな!」と呟きつつガッツポーズ(笑)!



教会堂内部から地下へと続く秘密の扉は、十字架の脇にひっそりと隠れる様にしてありました。そこに備え付けられている階段を降りて行くと、先程までの真っ白な空間から段々と薄暗い空間へ移行していくのが手に取る様に分かります。



その階段を一番下まで降りると、左手側に何やら大きな空間が存在するのが暗示されます。



振り返ると10年前に開いていた扉がそこに!



更に歩を進め、左手側に曲がると目の前に広がるのがこの空間です:



先程までとは全く様相を異にする薄暗い空間が広がっているんですね。10年振りの再会!そう、僕があの時見たのは正にこの空間だった!!今回もう一度良く観察してみると、ここに展開されている空間は、先程上で見た空間とは全ての意味で対になっていると言う事が出来るかと思うんですね。



先ずは言うまでも無い事なんだけど、空間を支配している色が挙げられます。上は真っ白、下は真っ暗(写真では結構明るく写ってるけど、実際はかなり暗い)。



そしてこの空間の高さ。上の教会堂の天井が気持ちの良い程高いのに対して、コチラの空間は低く抑えられ、正にその事によって親密感を醸し出しています。先程見た扉も、上の教会堂に付いている扉とは大きさがまるで違います。



そしてですね、これら全てにおいて対をなしているかの様に見える2つの空間の謎を解く鍵がコチラです:



写真では分かり難いかも知れないんだけど、この写真はこの教会堂の真上から真下まで貫いている「光の井戸」と言っても過言ではない空間を撮った所です。一見「あれ、こんな所あったっけ?」って思うかも知れないけど、実はですね、この空間、外から見るとこの部分に当たるんですね:



そう、4分の1円形が切り取られ、その中央部にくっ付いてる長細い長方形がこの光の井戸の正体だったのです!そしてこの井戸に光を供給しているのが、正面上の方に付いている窓なんですね。この光の井戸、実は僕達が見慣れている教会堂にもその姿がお目見えしていたのですが、それがコチラです:



そう、祭壇中心部に開いている長方形の2つの穴、あそこから見える不思議な淡い光の正体が実はこの光の井戸だったんですよ!(この事は祭壇からこの長方形の穴を覗き込めば直ぐに分かる事なんだけど、祭壇というのは神聖な場所で普段は立ち入り禁止なので、この事を知っている人は少ないと予想されます)。そしてこの光の井戸を真下から見ると先程の風景となると、そういう構造になっていたのです!

では一体、この光の井戸は何を表しているのか?

ここからは僕の勝手な想像(と言うか解釈)でしかないんだけど、それは多分、天井から降り注いでくる光は天上界の光、そしてその光を2つの長方形の窓から見ている教会堂は僕達が生きている現世。そしてその光を底から見上げる風景は、正に地獄からの見上げの風景だと言う事は出来ないでしょうか?そんな事を考えていたら、この言葉が僕の心の中に沸き上がってきました:

「初めにみことばがあった。みことばは、神と共にあった。‥‥みことばの内に命があった。この命は人間の光であった。光は闇で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。‥‥すべての人を照らす真の光はこの世に来た」

‥‥と、勝手な想像を膨らませてるんだけど、1つだけ言える事、それは世界中のメディアに取り上げられ、真っ白な教会として知られているこのシザの教会は、実は白い空間だけで存在しているのではなく、その真下にある薄暗い空間と対になる事で「その存在の意味が見えてくる」という事だと思います。この地下空間の存在を知っているか知らないかで、上の教会堂を見る眼が全く変わってきますからね。



もう一度言います。あの真っ白い教会堂はそれだけで存在しているのでは無く、下の薄暗い空間と対になる事によって、この教会は増々その白い輝きを増していく事になるのです。

この教会に通い始めて10数年、回数にして多分50回以上は来たと思うんだけど、今日初めてこの教会の真の意味の片鱗がチラッと見えた気がしました。

シザ建築の奥は深い‥‥。故に僕はこんなにも彼の建築に惹かれるのかも知れない‥‥と思いつつ、今年もこの村を後にしました。
| 旅行記:建築 | 01:09 | comments(5) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ルイジアナ美術館(Louisiana Museum of Modern Art)その3:建築と彫刻と:動く事、動かない事
前回のエントリ、ルイジアナ美術館(Louisiana Museum of Modern Art)その2:ジャコメッティ(Giacometti)の間はちょっと凄いの続きです。



長い回廊空間を巡った末に辿り着いたジャコメッティの間。「いつまでもココに居て彫刻を見ていたい」、正にそんな感動を我々に抱かせてくれる空間的質がここにはあります。



暖かみのある木とのコンビネーションを巧く生かした階段なんかも非常に良くデザインされています。少しの間ここに佇み、2階から行き交う人々を観察していたら面白い事に気が付きました。



この空間から見える素晴らしい風景をカメラに収めようと、訪問者の人達がガラスに近寄りシャッターを切るという行動が随時観察されたんですね。



その様な行為を後方から見ていた僕の目には、彼らの姿とジャコメッティの彫刻が重なり、あたかも一つの風景の中に2つの彫刻が存在しているかの様に見え始めました:



‥‥彫刻の本質とは「動く事」にあります。何故なら彫刻は動かないからです。つまり動かないからこそ、如何にして動きを創り出すか、動きを表現するかという事が彫刻にとって本質的な問題として浮上してくるんですね。

反対に建築とは人々がその空間の中を動き回る事によって成り立つ芸術です。つまり建築においては人々が動き回るという事を前提にして創られるので、その命題は必然的にどうやって空間的な「忘れられないワンシーン」を創り出すか、それらの風景を訪問者の心の中に刻み付けるかが命題となる訳です。この辺の事についてはベルニーニの彫刻を例に出しながら以前のエントリでこんな風に書きました:



「‥‥彫刻の素晴らしさ、それは一瞬を凍結する事だと思います。何らかの物語の一コマ、その一コマをあたかもカメラで「パシャ」っと撮ったかのように凍結させる事、それが出来るのが彫刻です。建築家の言葉で言うと、「忘れられないワンシーン」を創り出す事ですね。

では何故、彫刻にこんな事が可能なのか?それはズバリ、彫刻は動かないからです。「そんなの当たり前だろ、ボケ!」という声が聞こえてきそうですが (笑)、これが結構重要だと思うんですよね。彫刻は時間と空間において動きません。だから僕達の方が彫刻の周りを回って作品を鑑賞しなければならないんですね。そしてもっと当たり前且つ重要な事に、彫刻は一度彫られた表情を変えないという特徴があります。だからこそ、彫刻の最大の目標は「動く事」にあると思うんですね。

‥‥中略‥‥

建築家である僕は(一応建築家です(笑))、ココである事に気が付きます。「これって建築、もしくは都市を創造するプロセスとは全く逆じゃん」という事です。どういう事か?

僕達が建築を計画する時、一体何を考えてデザインしていくかというと、空間の中を歩いていく、その中において「忘れられないワンシーン」を創り出していく事を考えると思います。何故か?何故なら建築とは空間の中を歩き回り、その中で空間を体験させる事が可能な表象行為だからです。だから建築や都市には幾つものシーン(場面)を登場させる事が出来ます。そう、幾つものシーンを登場させる事が出来るからこそ、我々は、忘れられない「ワンシーン」を創り出そうと試みる訳なんですね。

‥‥中略‥‥

このように彫刻と建築は、その作品の体験プロセスにおいて全く逆の過程を経ます。彫刻は「ある一瞬」から心の中に前後の物語を紡ぎ出す事を、建築は様々な場面から心に残る一場面を心に刻み付ける事を。しかしながら、それら、彫刻や建築を創り出す人が目指すべき地点は同じなんですね。それは「忘れられないワンシーン」を創り出す事です。」(地中海ブログ:彫刻と建築と:忘れられないワンシーンを巡る2つの表象行為:ベルニーニ(Bernini)の彫刻とローマという都市を見ていて



ジャコメッティの彫刻の後ろで写真を撮っていた訪問者達は、エントランスから続く長い回廊を経て、この2層吹き抜け空間に辿り着いた「動く人達」です。更にそれら「動く人達」が、建築のフレームワークによって切り取られた風景を、「動かない写真」に焼き付けようと必至になっています。



その一方で、その後ろに位置しているジャコメッティの彫刻は動きません。動かないんだけど、その姿を見ていると、恰もその周りに「ある種の物語」が展開し始め、動かない筈の彫刻が動き出すかの様な錯覚に捕われます。



そう、この空間の中には「動くもの、動かないもの」、「動く事、動かない事」という相反する2つの事象が共存し、それらが拮抗し合う事によって、大変不思議な空間感覚を生み出しているのです。



さて、この空間を抜けると、今度は何やら見た事がある沢山の椅子が並んでる空間へと導かれます‥‥あ、あれはー:



ヤコブセン(Arne Jacobsen)のセブンチェアだー!す、凄い。さすがヤコブセンのお膝元、デンマーク!!ヤコブセンの椅子を惜しげもなく使ってる。そして屋外を見ればこの風景:



コレ又見事な屋外彫刻の空間となっているんですね。で、ここからがこの美術館の醍醐味なんだけど、この彫刻を見つつ振り返り様に展開するのがコチラの風景です:



そう、実はこの空間はレストラン&カフェになっているのですが、これが非常に広々としていて気持ちが良い!で、あちらにチラチラ見える、あ、あれは:



オーレスン海峡の地平線だー!素晴らしい!!ここに来て漸くこの建築のクライマックス的空間に辿り着いたという訳なんです。



それにしても素晴らしい眺め。この日は対岸のスウェーデンまで見通せるくらいの快晴だったんだけど印象的だったのは、地元のおばちゃん達がランチに美術館にやって来てたり、大学生っぽい人達がこの空間で読書に耽っていた姿だったんですね。つまり美術館っていう場所は何も芸術作品を鑑賞するだけではなく、「それら様々な諸活動を促す場所でもあるんだ!」という事を思い出させてくれたという訳なんです。そしてそれを可能にしている事こそ、この美術館が醸し出している雰囲気であり、空間デザインの力なのです。



‥‥ここでも自然(海の地平線)を背景にして、この空間で食事をしている人々があたかも彫刻の様に見えてくるから不思議です。そう、あのジャコメッティの間を通った僕達には、一体何が彫刻で、一体何が現実の人間なのか?という事の境界が非常に曖昧になっているんですね。そしてこの事こそ、この美術館が提示したかった問題なのかもしれません。



僕達の世界は輝いています。日常生活の中における瞬間瞬間は、それこそ芸術に値する様な輝けるワンシーンの連続で満ち溢れているんだけど、日々の雑用に追われ、生きる事だけで精一杯な現代人達はそれらを見つけ出す事、それらの輝きに気が付く事を忘れてしまっているんですね。



そんな素晴らしい瞬間を発見する事が出来るかどうかは僕達次第。そんな何気ない日常を輝きに変え、人生の素晴らしい糧にする事が出来るかどうかは我々次第なのです。

この美術館で試されている事、それは展示されている彫刻や現代芸術作品なのではなく、この美術館を訪れ、「そこで何を得る事が出来るのか」という訪問者である僕達の方なのかもしれません。

本当に素晴らしい美術館、そして素晴らしい体験でした。
| 旅行記:建築 | 07:16 | comments(4) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ルイジアナ美術館(Louisiana Museum of Modern Art)その2:ジャコメッティ(Giacometti)の間はちょっと凄い
前回のエントリ、建築の歩き方:ルイジアナ美術館(Louisiana Museum of Modern Art)その1:行き方の続きです。

世界的に知られているルイジアナ美術館なんだけど、この美術館には「著名美術館」という言葉から僕達がイメージする「真っ白な壁」や「超高層ビル」と言った様な外観はサッパリ見当たりません。



そうではなく、我々を出迎えてくれる美術館の正面ファサードは大変静かな趣を保ちつつ、住宅街という周りの環境に溶け込むかの様に、非常にさり気なく佇んでいるんですね。自然の木々に囲まれ、あたかも建築自体が消えているかの様ですらあります。そんな中でも僕が注目したのがココ:



門の設えです。門の真上に、木の枝が頭を擦るくらいの高さにまで生えてきています。一見平凡に見えるこの「木の枝の演出」が、我々の空間体験に非常に重要な意味を持っているという事に気が付く人はなかなか居ないのではないでしょうか?



つまりこの枝がこの位置にある事によって、訪問者は一度ここで屈まざるを得ず、この事が正に美術館という特別な空間への「見えない閾」になっているんですね。これは「壁」や「襖」などといったフィジカルな仕切りとは違い、大変「緩やかな境界」なんだけど、この内側と外側とでは明らかに空気の質が変わり、心が「凛」となるのが解ります。そんな仕掛け一杯の入り口を潜ると到達するのがコチラの空間:



エントランスに入る前の、「ほっ」と一息付く空間です。三方を別々の建物に囲まれた、大変心地良い空間となっています。前方の建物は全面を蔦で覆われ、歴史を感じさせると共に暖かみを醸し出してもいます。



左手方向にはヘンリームーアの彫刻が置かれ、右手方向には切符売り場と美術館への入り口があります。



この辺りの空間構成も結構良く考えられていて、門から一直線に建物へと訪問者を入らせるのではなく、わざわざ右手方向に回り込ませているのが解ります。つまりエントランスから直線上の強い軸を創り出し、一気に目的地へと到達させるのではなく、クライマックスを匂わせつつ、そこには「わざと到達させず」に、雰囲気を盛り上げていくという訳です。

‥‥む、む、む、この美術館に到着して未だ5分程度しか経ってないんだけど、僕は既にこの時点である一つの印象を抱いていました:

「‥‥この建築、とっても日本建築っぽいなー」

と。

美術館入り口における静かな佇まいといい、自然を用いた演出やら軸線の操作といい、それらを見るだけでもかなり日本的な香りのする建築だと思うのですが‥‥。まあ、いいや。



さて、右手方向の建物に入ると、チケット売り場を通して先ずはミュージアムショップが姿を現します。そしてその最深部の全面ガラスからは、表の住宅街からは想像もつかなかった様な広い中庭と、海の地平線らしきものがチラチラ見え隠れしています:



ここでは、物語のクライマックス的な空間である中庭空間と、その前面に広がるオーレスン海峡の地平線をチラチラ見せるだけに留まり、敢えて全てを見せない事によって来館者の期待感を膨らませているんですね。そしてこの時点ではあちら側へは行く事が出来ないのがミソかな(決して辿り着けないユートピアとして存在させるに留まっている)。

さて、このエントランス空間からイヨイヨ展示空間へと歩を進めて行く事にします。

とその前に、最初に断っておきたいのですが、この美術館では写真撮影はOKでした。ネットでググると「ルイジアナ美術館内では写真撮影禁止」とかいう情報が出てくる事があるのですが、少なくとも僕が行った時は写真撮影は許可されていました(違う係員の人に2回も聞いた)。これはブロガーや観光客の皆さんにはとても嬉しい配慮ですね。と言う訳でウキウキ気分で先ずは右手方向から:



最初の展示室に入って直ぐ、半階ほど降りた場所ではガラス張りの回廊空間が我々を出迎えてくれるのですが、この回廊の創られ方に注目:



そう、この回廊空間、この場所に元々生えていた木を避ける様に計画されているんですよ!つまりこの美術館においては、建築というハードな箱は、あくまでも自然との調和を考えて計画されているという事の証なんですね。



そこを曲がると、同じ様な回廊空間が続くんだけど、その行き止まりには一枚の絵が掲げられ、僕が行った時には丁度、地元の幼稚園児達がその絵の前でお絵描きをしている最中でした。



この様な風景はヨーロッパの美術館なんかに行くと結構遭遇するんだけど、ヨーロッパの子供達というのは、こんなにも小さな頃から、教科書の写真ではない、本物の絵画(ピカソやダリ)に触れる事が出来て本当に幸せだなと思います。そしてその様な機会をパブリック(公共)が全面的にバックアップしているという点は注目に値しますね。

では何故ヨーロッパではこんな事が可能になっているのか?

何故ならヨーロッパにおいては、「子供達こそ自分達の将来を担っていく大切な宝物である」という同意が社会全体に浸透しているからです。そしてこの様な積み重ねこそが、ヨーロッパ文化の奥深さを創り出しているのかなとも思います。

さて、そこを通り過ぎると、コレ又両側をガラスで覆われた回廊が続き、各曲がり角(アイ・ストップ)にはシンボル的な彫刻作品が置かれている空間が姿を現します。



「なるほどなー」とか思いつつ、良く周りを見渡してみたら、屋外彫刻が庭の至る所に置かれている‥‥。



そーなんです!実はこの回廊、内部で芸術作品を見る為に創られたというよりは寧ろ、広大な庭のあちこちに散在している屋外彫刻を見る為に創り出された回廊だったんですよ!そしてそれらの屋外彫刻は各々の彫刻の個性が最大限に生きる様に置かれる事によって、訪問者が最高の状態で鑑賞出来る様になっているんですね。



更に面白いのは、この回廊、ただ室内から屋外彫刻を見るだけなのではなく、至る所に出入り口が付いていて、好きな時に好きなだけ外へ出て行って彫刻に直に触れる事が出来るって言う点なんです。



この地に広がる大変豊かな自然との対話は最高!とか思ってたら、何やら視線の先に見慣れた彫刻が見えてきました。あ、あれはー:



ジャ、ジャコメッティだー!しかもこんなカッコイイ展示の仕方は見た事が無いぞー!そして光が差し込んでくる左手側を見てみると、何やら今までの回廊空間とは全く違った空間的な仕掛けがしてある雰囲気がー:



そちら方向に歩を進めて行くと、そこには正に「えも言われぬ風景」が展開していました:



じゃーん、2層吹き抜けの全面ガラス張りの空間の登場です!まるで屋外に広がる大自然を切り取り壁画にしたかの様な、そんな見事な演出がされているんですね。



そしてその大自然の前にはジャコメッティがそっと置かれています。うーん、正に溜め息が出る様な空間とはこの事かな。



この空間を見つめていると、大自然というキャンパスを背景に、そこを歩く人の姿があたかも彫刻の様に見えてくるから不思議です。



そう、まるでこの空間の中では「生身の人間までも」がジャコメッティの彫刻の如くに存在しているかの様なんですね。



この前面ガラス張りの風景のインパクトが余りにも強いのでナカナカ気が付かないのですが、実はここに辿り着くまでの空間構成、特に空間の強弱の付け方が驚くほど絶妙でした。というか、その空間構成があったからこそ、この「ジャコメッティの間」がこれ程までのインパクトを伴って僕達の前に現れてくるんだと思うんですね。

更に更に、この美術館には彫刻と建築を巡ってトンでもない仕掛けがしてあり、正にその事によって「彫刻とは何か?」、「建築とは一体何なのか?」という事を我々に考えさせる契機を与えてくれているのですが、その話は次回に持ち越したいと思います。

ルイジアナ美術館その2:建築と彫刻と:動く事、動かない事に続く。
| 旅行記:建築 | 06:27 | comments(4) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ボン・ジェズス・ド・モンテ聖堂(Bom Jesus do Monte)に見るキリスト教の大変秀逸なマーケティング手法
ポルトガルにおいては良く、「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの町である」って言われるんだけど、そんな「祈りの町」のシンボルとも言える存在、それがブラガ市内からバスで郊外に向けて15分程行った山の上に建っているボン・ジェズス・ド・モンテ聖堂(Bom Jesusu)なんですね。



1811年に完成したこの教会を設計したのはブラガ出身の建築家、カルロス・アマランテ(Carlos Amalante)。教会自体はネオ・クラシック様式なんだけど、この教会、何が凄いかと言うとですね、教会自体というよりも、その教会の前に展開しているバロック風の大階段が大変見事なんですね。



一度見たら忘れられない様な、そんな眺望を提供しているこの装飾階段は、標高400メートルの丘の上に立つ教会と山の麓を数百段という段によって結ぶ役割をしています。僕なんか、この階段を下から見ただけで「ヒェー」って思っちゃったんだけど、巡礼者の人達は、この大階段を祈りながら、更に「膝を使って」登っていくっていうんだから驚きです。勿論、「こんな階段登ってられるかー!」って人達の為にケーブルカーが用意されてるんだけど(片道1ユーロ)、この階段は自分の足で登らないとその意味が分からないと思うので、是非自力で登ってみる事をお勧めします。

僕はと言うとですね、実は今回泊まっていたホテルがこの教会の真横にあったので、毎朝街へ繰り出す時と帰って来る時、毎日2往復づつしてたのですが、初日は登るだけで「ゼーゼー」言ってたのに、2日目の夕方くらいから段々と慣れてきて、最終的にはそれ程苦も無く登れる様になっていたのにはちょっと驚きました。人間の適応能力って言うのは凄い!カリン塔を登って修行してたゴクウの気持ちがちょっと分かった気がした(笑)。



この教会への行き方なのですが、市内から2番の「Bom Jesus行き」のバスに乗ってると、勝手に教会の正門らしき所に僕らを運んでくれます(所要時間約15分)。その門がコチラ:



巡礼の出発点に相応しい、何とも歴史が感じられる厳かな門ですね。まるであちら側に展開している深―い森の中に我々を「おいで、おいで」と誘い込んでいるかの様ですらあります。



巡礼はここから始まる事になるんだけど、緑濃い木々が覆い茂る中、真っ直ぐに続く階段を登っていくと、何やらその先に小屋の様なもの発見。



この小屋、中が覗ける様になっていて、みんなが覗いてるので僕も恐る恐る覗いてみると、中には何やら強大なフィギアが何体か集まって何か形造ってる・・・こ、これはー!:



最後の晩餐です。イエス・キリストを取り囲む様にしてみんなで食事をしている、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画などで非常に良く知られた場面ですね(地中海ブログ:モナリザの起源が遂に判明か?レオナルド・ダ・ヴィンチって実はカタラン人だったらしい)。



それを横目に見つつ、さっき来た道とは反対側に折り返しになっている階段を登っていくと、その先にはさっきと同じ様な小屋があって、これまたさっきと同様、中が覗ける様になってる:



今度はイエス・キリストが兵隊に捕まって連れ去られていく場面が再現されています・・・。そ、そうなんです!実はこの階段のあちこちに点在している小屋の中には、イエス・キリストの受難の物語がフィギアで再現され、巡礼者達はそれらを見ながら、というか、それらを思い出しながら、又は教えられながら、この階段を登って行く事になるんですね。で、どうやらこの何百段とある階段は、イエス・キリストが受けた苦しみを表していて、「ぜー、ぜー」言いながら一段一段登って行く事によって、イエス・キリストが受けた苦しみを皆で理解しようと、そういう事らしいです。僕もかなり「ぜー、ぜー」言いながら、ようやく辿り着いたのが一つ目の節目:



市内が見渡せる空中テラスです。「もうこんなに上まで来たのか?」って感じかな。で、振り返ればこの風景:



交互に織り成す階段が大変見事な風景を創り出しています。で、ここからはこの美しい装飾階段を登っていく事になるんだけど、この大階段、どうやら2部構成になっていて、下部は「五感の階段」と呼ばれ、上部は「三徳の階段」と呼ばれているのだとか。更に途中には泉が湧き出ていて、その装飾がちょっと面白かった。



先ず最初の泉は、目から水が出ています。



2番目は耳から。



3番目は鼻から。



4番目は口から。ここまでくれば、この泉が我々の五感を表しているって事は分かると思うんだけど、でも、次は触覚・・・。どうくるのかなと思いきや、こんな表象の仕方をしていました:



壺から水が出てる・・・。壺は特別何かのメタファーと言う訳では無さそうなので、ネタ切れって事かな(笑)。まあ、何はともあれ、階段の間からチラチラと見え隠れする教会の姿、そして刻々と移り変わっていく風景が非常に印象的です:



あんなに小さく見えた教会が、段々と大きくなっていく、この距離感の移り変わりはちょっと感動的ですらありますね。「あー、ここまで来たんだー」みたいな(笑)。この辺まで来ると、下から続いていたフィギアの物語もイエス・キリストが十字架に架けられる場面を現してたりして、いよいよクライマックスって感じですね。



各階段には聖人の彫像が林立していて、それらが創り出す風景も圧巻そのもの:



この様な風景は以前にも見た事があって、ミラノ大聖堂の聖人像が創り出しているランドスケープは大変印象的でした(地中海ブログ:ミラノ(Milano)旅行その2:ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano):文化の多様性をゴシック建築の多様性に見る)。そして最後の階段を登った先にあるのがコチラです:



大変見事なネオ・クラシック様式の教会です。そして振り返るとこの風景:



ブラガ市が一望の下に見渡せるこの上なく気持ちが良い風景が展開しています。「あー、ここまで来て良かった」みたいな。ここまで来ると、疲れというよりも、「登ったぞー!」って言う達成感の方が強くって、ここから見える風景は、正にそんな感情を増幅させてくれているかの様なんですね。

さて、実はここからが今日の主題なんだけど(笑)、と言うか、下記に書く事はあくまでも僕が思った事なので、「あー、こんな風に解釈する事も可能かなー」くらいに思ってもらえればありがたいです。

さっきも言った様に、僕はこの階段を4日間くらい行ったり来たりしてた訳なのですが、毎日の様に上り下りを繰り返していると、ある一つの疑問が僕の頭の中に浮かんできました:

「この教会は一体我々に何を語りかけているのか?」もっと言えば、「この教会は何故我々に、こんな何段もある階段を登らせる様な事を強いるのか?」

と。
 一つには上述した様に、「天国に行くためにはイエス・キリストの様に受難を体験しなければいけない」って言う教義があると思うんだけど、実はその裏には、もっと奥深い、「キリスト教の戦略みたいなものが隠されているんじゃないの?」とか思っちゃったんですね。

先に答えを言っちゃうと、実はこの教会と大階段というのは、「キリスト教における一つの広告として機能しているのではないのか?」と、そんな事を思った訳ですよ。つまり建築を利用して、人々に「キリスト教とは一体何か?」という事を身を持って学ばせる為の「体験型エンターテイメント装置」として機能しているのでは?って事なんですけど・・・。まあ、建築の主機能って言うのは僕に言わせれば「広告」であるって事は明らかで、しかもそれが宗教施設ともなれば尚更だと思うんだけど、この建築と大階段が秀逸だなと思うのは、その裏に隠された大変緻密な計算とデザインだと思うんですね。



その巧妙な手口を一つづつ明らかにしていくとですね、先ずは何百段とある大階段を永遠と登らせる事によって、人々を身体的、精神的に疲れさせると言う事が挙げられます。つまり思考停止状態に陥れさせると言う事。



そしてその節々でフィギアを使う事により、キリスト教の物語を来訪者の頭の中に擦り込ませる様に出来ています。しかも文字を読ませるのではなく、映像として直感的に分かる様にフィギアを使っている。



更に、それらの物語を階段の途中に散在させる事によって、ある種のスタンプラリーの様な、エンターテイメント性を持たし、苦労しながらも、又、楽しみながらキリスト教の歴史が学べる様になっています。



そんな事も知らずに、ただただ頂点を目指し、「えっこら、えっこら」と登っていくと、苦難を乗り越えた先には、美しい教会と、コレマタ大変美しい風景が広がっていると言う訳ですよ!長い道のりを歩いてきた人々はこの風景を、ある種の達成感を持って見ているはず。そして、そんな感情と、ココに展開する風景が何時の間にかキリスト教と結び付き、「ここまで辿り着けたのは神のご加護のおかげだ!」とか勝手に思い始め(笑)、最終的には「キリスト教ありがとう」とか言う感情と結び付いていると言う訳なんですね。

上手い、これは大変上手い感情コントロールだと思います。何故ならそれらが来訪者の無意識下に作用する様になっているという事、環境全体が一種のシミュレーション装置となっているという事、そして何より、この施設がエンターテイメントとなっているという事が挙げられます。つまり楽しみながらキリスト教が学べちゃうって言う訳。しかも最後にはキリスト教が好きになる様に出来てますしね。それがこの教会と大階段に隠された真の意味かなーとか、この階段を何往復もする内に、そんな事を思ってしまいました。
| 旅行記:建築 | 04:06 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの建築:ブラガ市立サッカー競技場(Estadio Municipal de Braga)
前回に引き続き、ソウト・デ・モウラの建築特集です(地中海ブログ:エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの建築:ポウザーダ・サンタ・マリア・ド・ボウロ(Pousada de Santa Maria do Bouro)その2:必要なくなった建築を壊すのではなく、修復してもう一度蘇らせるという選択肢)。ポウザーダ・サンタ・マリア・ド・ボウロと並び、彼の代表作と名高いのがブラガにあるサッカー・スタジアムです。かつては本気で建築家を目指していたというオバマ大統領も絶賛してましたし(地中海ブログ:エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ(Eduardo Souto de Moura)のインタビュー記事):



ちなみにこのスタジアムでは、観光客の人達の為に毎週火曜日、木曜日、土曜日の午前(10:30)と午後(15:00)(7月から9月までは毎日)に見学ツアーを組んでいるので、「内部空間をじっくり見たい」と言う人は、このツアーに参加する事をお勧めします(2011年8月現在の情報)。料金は一人5ユーロで、所要時間は約1時間30分。特に予約などは必要無いそうなんだけど、一応念の為に電話かメールで開始時間などを確認しておいた方が無難でしょうね。ポルトガルという国は本当に時間にルーズで、間違った情報があちらこちらに交錯してたりするので。

コンタクト
Tel: 253206860
Fax: 253612929
Email: visitas@scbraga.pt

一応少しだけ補足説明しておくとですね、この作品はソウト・デ・モウラが初期の頃から貫き続けてきた手法、「穴を掘って、そこに建築をカポっと嵌める」って言う系譜上に位置してる作品で、2つある観客席の内、片方の観客席が、正に岩と岩の間に隠れる様に配置されているのが建築的見所の一つとなっています。上の写真で見えているのは、駐車場側から見た観客席の方なんだけど、こちらもなかなかダイナミックな形態になっていますね。

で、てっきり見学ツアーはこの駐車場から始まるのかと思いきや、キヨスコのおばちゃん曰く、「道なりに5分くらい上っていった所に選手専用の入り口があるから、そこの警備員に事情を話しなさい」と。で、出たー!田舎にありがちな、ドラクエ式観光スタイル!!

 「酒屋の主人に事情を話しなさい」→→→「街角にある武器屋に行くと良いよ」→→→「王者の剣を手に入れた!」

みたいな(笑)。 で、その教え通りに坂道を上っていくと、確かにありました、それらしいのが!



言われなきゃ絶対に分からない様な、そんな思いっきり隠れた所にある、選手専用の入り口をくぐると、そこには確かに警備員のおばちゃんが居て、見学ツアーの受付をしてくれた。で、そのおばちゃん曰く、「この道を道なりに歩いていくと地下駐車場に出るから、その一番奥の右手側にあるドアを入ってそこで待ちなさい」だって!「またかよ!」とか思ったけど、渋々従う事に・・・。で、ちょっと歩いていくと、見えてきました、目指すべき建築が:



非常にゆったりと大きな弧を描いた屋根が大変印象的です。そして紙の模型で作られた様な「パタパタ」って感じの折り返し階段も全体のシルエットに非常に面白いアクセントを付けていますね。とか思ってもっと近付いていったら先ずは最初のビックリが!



何とこの階段、使用されているのかと思いきや、手すりも何も付いてない、単なる飾りじゃないですか!あ、あれ・・・飾りですか??プリツカー賞受賞者が???って感じかな・・・(苦笑)。そんな事を思いながら、目指すべき地下駐車場の最奥右側のドアをくぐると、そこは博物館になっていました:



歴代の選手達の写真や獲得したトロフィーなんかが所狭しと並べられ、否が応にも気持ちが盛り上がってきます。今やサッカーは世界的なビジネスにまで発展してしまったので、その辺の事情を視野に入れたマーケティングを行っているチームとか、非常に多いですよね。僕が以前訪れて大変感心したのが、何を隠そうバルサの本拠地カンプノウなんだけど、バルサのマーケティング手法とか見てると、正に「ゴールは偶然の産物ではない!」という事を思い知らされます。(地中海ブログ:FC Barcelona(バルサ)のマーケティングがスゴイ:バルサ・ミュージアムに見る正に「ゴールは偶然の産物ではない」)。さて、ここからが今日の本番。選手専用通路を通ってピッチに出るというサービスを味わいながら、目の前に現れる風景がコチラです:



空を走る何本ものケーブルと、それらによって吊られている大屋根が大変印象的です。そして今回彼がやりたかったのがコレかな:



「建築(コンクリート)と自然の対比」みたいなー。山に穴を掘った後の岩肌が非常にワイルドです。



その岩の上には巨大な電光掲示板が備え付けられていたりして、なかなかカッコイイ。そして、この大自然との対比をテーマにした、もう一つのデザインポイントがコチラ:



岩の上からヘンテコな形の棒みたいなのが出てるんだけど、あれ、何かって言うとですね、どうやら屋根の上に溜まった水を流す為の巨大な樋らしい。つまり屋根の上に溜まった水が、先ずは傾斜した軒先まで流れてきて、その軒先がこのヘンテコな棒に水を受け渡すっていうシステムになってるらしいです:



なかなか面白い形をしてるし、それが屋根部分との間に見せる緊張感もなかなかですね。何よりこの一歩間違えばダサイ形態に陥りがちな、でも紙一重の所でカッコイイ形に踏み止まっている、そのギリギリの所の鬩ぎ合いが良いなー。この観客席の裏側には階段や売店、トイレなどといった各種インフラが入ってるんだけど、そこにも「岩を掘ったぞー」っていう痕跡と、それを強調したかの様なデザインがなされていました。



さて、ここまで見てきた僕の感想なんだけど、正直言って、この競技場は非常に評価の難しい建築だと思う。何故かと言うとですね、彼のやりたい事は良く分かり、そしてそれが良く見える事は見えるんだけど、そのアイデアが実現し切れて無い様な気がするからなんですね。例えば、山を掘ってそこに建築をはめ込むって言うアイデアは非常に斬新だし素晴らしいとは思うんだけど、実際の建築が、そう見える様にはなっていません。



そしてこのスタジアムの最大の欠点、それは競技場としての機能に致命的な欠陥がある事だと思います。

僕はそれ程サッカーの熱烈なファンと言う訳ではないんだけど、それでもバルサの試合がある日にはテレビをつけてみたり、友達とバルに行って観戦したり、年に数回はカンプノウに試合を見に行ったりもします。



スタジアムで試合を直に見るって言うのは、テレビで観戦するのとは根本的に違う体験で、それを生み出しているのはやはり、スタジアムおいて大波となって押し寄せてくるかの様な観客の熱気だと思うんですね。そしてその様な熱気を作り出し、僕達を興奮させるのに一役買っているものこそ、何を隠そう、スタジアムの構造に他なりません。



カンプノウが典型的だと思うんだけど、サッカーのスタジアムというのは、ピッチが真ん中にあって、それを取り囲む様に観客席が配置されています。四方を観客が埋め尽くす事で、あの独特の熱気が生まれ、そしてそのエネルギーが保持されているんだと思います。ここまで書けばもう何が言いたいか分かるかと思うんだけど、そう、このソウト・デ・モウラのスタジアムは、そういう構造になっていない為、果たして実際の試合において、あれ程の熱気が生まれるのかどうか、大変疑問な訳ですよ。と言うか、絶対生まれないと思います。

そしてもう一つの問題は、やはりこの建築にはその背後に流れる「空間の物語」が不在である事、そして何よりも、彼がポウザーダで見せた様な、細部への気配り、空間への気配りがさっぱり見られないと言う点が挙げられるかな。

今回はソウト・デ・モウラに対してちょっと辛口になっちゃったかもしれないんだけど、僕の5感がそう言ってるんだからしょうがない。例え、ポルトガルの雑誌がどう言おうと、世界的な建築批評家がどう書こうと、天下のオバマ大統領が何と言おうと、僕は自分の5感を信じます。そしてこれからも、自分の目で見たものを、自分の中の評価軸に沿って評価していきたいと思っています。
| 旅行記:建築 | 06:25 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの建築:ポウザーダ・サンタ・マリア・ド・ボウロ(Pousada de Santa Maria do Bouro)その2:必要なくなった建築を壊すのではなく、修復してもう一度蘇らせるという選択肢
前回のエントリの続きです(地中海ブログ:エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの建築:ポウザーダ・サンタ・マリア・ド・ボウロ(Pousada de Santa Maria do Bouro):行き方とレストラン情報)。



バスを降りた目の前に広がっているのは、12世紀に建てられたシトー派の教会と、その横にくっ付いている修道院を改装したという国営の5つ星ホテル、ポウザーダなんですね。石造りの外壁がこの建物を重厚なものにしていると同時に、大変拡張高いものにしているのが分かるかと思います。建築家が補修したというだけあって、保存状態は大変良く、と言うか、逆にこれが12世紀に建てられた建築だとは俄かには信じられない様な、そんな、艶々なお肌をしています(笑)。真ん中にポカンと開いた入り口からは、あちら側に燦燦と輝く中庭空間が:



オレンジ色の土に石壁の色、そして行儀良く並んでいる木々たちが非常に良い雰囲気を醸し出し、あたかもこの空間が、「ポウザーダへようこそ!」と、そう言っているかの様です。さっきまでの力強い石の壁が作り出す冷たい感じと、小さい入り口を通ってきた窮屈感がココで一気に解放され、大変気持ちの良い空間になっています。



左手側にはレセプションへと続く階段が設えてあるんだけど、これ又、石の彫刻なんかが大変丁寧に修復保存されているのが分かります。



ふと見上げると、全面に渡ってコールテン鋼で出来た天井が被せてあります。石のゴツゴツした感じ、塗り壁のクリーム色、天井のコールテン鋼、そして燦燦と降り注ぐ光と木々の緑などが相まって、5つ星ホテルのエントランスに相応しい、非常に質の高い空間を創り出していると思います。さてこの階段を上って行くとレセプションがある空間へと辿り着くんだけど、我々を出迎えてくれる空間がコチラです:



入った瞬間に背筋が「ゾクゾク」とするかの様な緊張感・・・ある種の建築だけが持つ事が出来る空間の質といったものがココにはあります。石で出来たアーチや床、クリーム色に仕上げられている塗り壁、選び抜かれた木の家具、そして青い絨毯と赤い絵画の組み合わせが一連のうねりとなって、この空間に独特な雰囲気を創り出している。言葉で表現するのは非常に難しいんだけど、正に全てが「ビシッ」と決まっている、そんな感じがするんですね。そして振り返るとそこには長い廊下に続く客室空間が見えます:



実は今回この建築を訪れる前に「泊まる予定じゃないんだけど、建築内部を見る事は可能ですか?」みたいな電話を入れておき、「OK」という返事を貰っておいたんだけど、その事をレセプションに伝えたら、普段は見せてもらえない客室を見せてもらえる事になりました。(ちなみにこの建築は、時々結婚式やら会議やらで関係者以外立ち入り禁止になる事があるらしいので、行かれる方は事前に必ずメールか電話で訪問可能かどうか?を確認される事をお勧めします):



一つ一つの部屋はさすが元修道院と言うだけあって、月明かりで読書をする為の石造りの椅子が窓際に備え付けられているって言う大変面白い構造をしています。こんな時、僕が何時も思い出す絵画がコチラです:



ロンドンに行った際に不意に遭遇して心底感動した、ラファエロ前派の代表的な画家、ジョン・エヴァレット・ミレイの描いた一枚です(地中海ブログ:ロンドン旅行その2:Sir John Everett Millais(ジョン・エヴァレット・ミレイ))。部屋の中はシンプルそのものなんだけど、僕が「面白いなー」と思ったのがコチラです:



何と、部屋の雰囲気を壊さないようにと、冷蔵庫が絵画の裏に収納してあったんですね。更にこんなものまでありました:



じゃーん、シザのスケッチ!さすが、この辺は建築家の国、ポルトガルだなー。ちなみに部屋を案内してくれた受付のお姉ちゃんは、この建築が誰によって創られたのか?その建築家がどういう人なのか?アルヴァロ・シザとは一体どういう人なのか?など、一通りの事はキチンと説明出来るくらいの知識は持っていました。彼女曰く、「ソウト・デ・モウラさんの様な素晴らしい建築家によって蘇った、こんな素晴らしいホテルで働く事が出来るなんて夢見たい。本当に幸せです」だって。いやー、自分の仕事に誇りを持って「働ける」、「働いている」って言うのは本当に素晴らしい事だと思います。



さて、この建築は元修道院って言うだけあって、空間的には天井が非常に高く、ゆったりとした空間が広がっているのですが、その一つ一つの空間には、吟味して選ばれたと見られる家具や絵画などが注意深く置かれ、それらがある事によって、空間全体の個性を最大限に引き出す様にデザインされているんですね。



もう一つの回廊型中庭は、一つ一つのアーチや柱に至るまで丁寧に修復・復元されていて、あたかもそれらの残像が、元々ここにあった空間を連想させてくれるかの様です。裏側に回ってみると、大自然に向かって開かれている、静寂だけが支配する中庭空間が展開しています:



石造りと言う特徴を最大限に生かした修復、そして現代的な材料を用いた最小限の付け加えが、この建築の魅力をより一層引き立てています。中に食堂が入っているコチラの部分には、小さな池が創られていて、そこに流れ込む水差の様なものがデザインされていました:



さりげない、本当にさりげない付け加えなんだけど、それが最大の効果を発揮する様に計算されているのが分かるかと思います。



この緑に覆われた建物の手前側に見える石造りの階段と、上の方に見える照明は後から付け加えられたものなんだけど、それがわざとらしくなく、まるで最初からそこに存在したかの様な、非常に自然な感じを醸し出していますね。そこを少し降りていくと、変わった形をしたプライベートなプールがあるんだけど、こちらの形態操作もなかなかニクイ:



形が正円じゃない所がキーですね。そして振り返るとこの風景:



建築が草に覆われ、その存在を消しているかの様なんですね。これはこれで「建築の一つの理想系を表しているのかなー?」とか思わない事もないかな。何より、古いものを使い続ける、壊すのではなく、悪い所を修復してそれを使い続けると言う姿勢には、大変共感を覚えます。前回のエントリで紹介したソウト・デ・モウラのインタビュー記事の中で彼はこんな事を言っていました(地中海ブログ:エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ(Eduardo Souto de Moura)のインタビュー記事):

「どんな建物でも又違った使い方、違った生命を与える事が出来ると、私はそう確信しています。もし片足が壊疽に冒されていたとしても、それを取り除く為に足全部を切断する必要はないのです。切り取るのは足の指だけで十分です。 建物も全く同じで、全壊する前に悪い部分を修復する事が必要なのです。そういう意味において、現実主義者になる事は好きですね。建築家は何時も自分の建てた建物は完璧であると思っていて、その一部が機能しないとか、壊れかけてきていると文句を付けてくるクライアントに対して怒り狂っている姿を良く目にしま す。大概の建築家というのは、いつもその様な意見を侮辱だと受け取りますからね。しかし私は常に現実主義者たりえたいと思っています。そして自分の建築に悪い所、機能しない部分があったなら、それらを取り除き、機能する様に修理修繕を好みます。」

さて、これまで見て来た様に、この建築の最大の見所は、石で出来た「地」と言うキャンバスに、現代的な材料であるガラスや鉄、コールテン鋼などをチョコチョコッと用いて、そこに元々存在した空間の魅力を「これでもか!」と高めている所だと思うんですね。逆に言えば、建築の構成などは殆どいじる事が出来なかったと思われる為、空間構成やその裏に流れる「物語り」の様なものには全く見る所はありません。ちょっと意地悪な言い方をすると、「この建築は誰がやってもこうなる」とさえ言えるのかもしれない。何世紀も前に建てられた石造りの下地があって、そこに現代的な材料をミニマルに合わせていけば、それ相応の空間は出来るんじゃないか、と・・・。そんな事を思ってしまうのも、ヴェネチィアに行った際、カルロ・スカルパによる神業的な修復と、家具などを用いた人間の創造性に挑戦するかの様な、そんな仕事を見てしまったからなんですね:



スカルパの、家具を用いた導線操作と視線操作、そしてそれによる物語の創出などには驚きを隠せませんでした(地中海ブログ:カルロ・スカルパ(Carlo Scarpa)の建築その3:カステルヴェッキオ(Castelvecchio):空間の建築家カルロ・スカルパ:ものすごいものを見てしまったパート2)。もっと言っちゃうと、「何故スカルパのディテールが素晴らしいのか?」というとですね、それは、そのディテールを活かす様な物語が、その背後に存在するからなんですね。「スカルパはディテールの人」とか思ってる人がいるかもしれないけど、馬鹿を言っちゃいけない。それは彼の建築の一側面を捉えているに過ぎず、素晴らしい空間構成力があるからこそ、彼のディテールが輝いている訳ですよ。

僕の見る所によると、ソウト・デ・モウラという建築家には、その部分、空間の構成や空間の物語の創出という部分が欠けている様な気がします。確かに一つ一つのディテールや一つ一つの空間は素晴らしいんだけど、それが一つの流れを創り出す様になっていない為、何かしら心に訴えてくるものが浅い様な気がする。



確かに、石造りの基礎とクリーム色の壁に、いきなり緑色の扉を持ってくるって言うトリッキーな事もやってて、それが結構シックリきてたりするって言うデザインセンスの良さはあちらこちらから垣間見える事は見えるんだけど、「それがどうした」、と。



コールテン鋼を斜めに走らせて、そこに銀色のワイヤーを張って創った階段なんて趣味が良いとは思うんだけど、「それがどうした」、と・・・。

その一方で、10年という長い、本当に気が遠くなる様な時間と労力をかけて、よくもまあ、こんなに上手く改修したなと、そちらの方に感動してしまいます。「壊す事に依るのではなく、修復する事で建物を使い続ける」という道、「いらなくなった建物を直ぐに壊すのではなく、改修して蘇らせる事によって新たな命を吹き込む」という選択肢がある事を我々日本人はもっと知るべきだと思います。そういう意味において、この建築は、日本で建築に携わっている人達、そしてこれから建築家を目指そうと考えている日本人の建築家の卵の皆さんに是非見てもらいたい作品だと思いますね。
| 旅行記:建築 | 05:01 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ガリシア旅行その9:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会(Igreja de Santa Maria do Marco de Canaveses):世界一美しいと思わせてくれる真っ白な教会
ポルトから北東へ50キロ程行った所にあるマルコ・デ・カナヴェーゼスという人口6万人にも満たない小さな町は、毎年世界中から建築巡礼者が何万人と訪れている事で知られているんだけど、と言うのも、この小さな町には、アルヴァロ・シザが設計した非常に美しく、この町のシンボルである珠玉の教会があるからなんですね。



到着するのに少し迷い、道行く人に「教会へ行きたいんだけど?」と聞いてみたら、

「あー、シザの教会ね。この町には何にも無いけど、あれだけは凄いんだ」

みたいな感じで答えが返ってきた。「やっぱりここでも建築家はヒーローであり、そんな英雄に建ててもらった町のシンボルの事をみんな誇りに思っているんだなー」と感じた瞬間でした。

ちょっとした坂道を上っていくと、抜ける様な青空を背景に、真っ白な壁で覆われた変わった形の建物が僕達の眼前に現れてきます:



建物の両端部分が半径5メートル程の円柱に削り取られたかの様なそのファサードは、今まで見た事が無い、ちょっと不思議な佇まいをしていますね。本当に雲一つ無い、絵に描いた様な真っ青な空だったので、この真っ白な形態がその青空にくっきりと浮かび上がり、あたかも御伽話の中にいるかの様な、そんな感覚さえ引き起こさせるくらいでした。



サンクンガーデンと上階へと続く階段の為に5メートル程も積み上げられたベージュ色の石と、教会の真っ白な壁の対比が非常に美しく・・・いや、もっと正確に言うならば、この教会の白色は、この石のベージュ色によって引き立てられていると言っても過言ではないと思います。「このベージュ色があるからこそ、白色がより一層活きている」みたいな。で、目の前にある階段を上っていくと現れるのがこの風景:



この町が一望出来るかの様な、正に「この教会はこの町の為に建っているんだぞー」と言いたげな、そんな風景が展開しているんですね。教会というのは元々、魔物を寄付けない為に鐘が聞こえる所までを浄化するという、そういう機能を宿していた建築だという事を思い出させてくれるかの様です。そんな長閑な風景を見つつ、振り返りざまに現れるのがコチラです:



じゃーん、「これでもか!」と言う程、真っ白な壁に覆われた大変シンプルで力強い形態が大変印象的です。先程のベージュ色の花崗岩が布石となり、壁の白色がより一層光って見えます。この教会も地面から腰壁辺りまで立ち上げられた花崗岩がその基礎となっているのですが、その花崗岩と白い壁との境界線の鬩ぎ合いのデザインに注目:



花崗岩の終わりが半円形を通り越し、ホンの少しだけ側面に石を回り込ませる事によって、違和感無く白い壁と石のデザインを連続させているのが分かるかと思います。更にコチラ:



向かって右手側の長方形の下の方に切り取られた窓を境にして、右側と左側で花崗岩の高さを変えているのですが、この辺のデザインもさすがだなー。そして見上げればこの空の切り取り方です:



何重にも折り重なった形態同士が襞を形成し、不思議な遠近感を創り出しているんですね。



教会の目の前には比較的最近完成したと思われる日曜学校があるんだけど、勿論、その建物は、教会との間に遠近法的空間を創り出す様に配置されています。 そうこうしている内に、その建物から管理人さんらしき人が出てきて教会の鍵を開けてくれました。ちなみにこの教会は何時も開いている訳ではなく、訪れる際には事前に連絡が必要なんだそうです(強制ではないが、連絡した方が良さそう)。と言うのも、一応教会の開館時間は季節によって決まってるらしいんだけど、その時間帯に管理人のおじさんが居るとは限らない為、前日までに何時頃に着くかを連絡しておけば、その時間帯には大体居てくれると、そういうことらしいです。ポルト市内のツーリスト・インフォメーションに行って「シザの教会に行きたいんだー」みたいな事を伝えると、色々と情報を教えてくれます。運が良ければ電話してくれるかもしれません。運が良ければね。

さて、鍵を開けてもらってイヨイヨ中へと入っていきます。



横一直線に切り取られた細長い窓と、その空間に行儀良く並ぶ400席はあるという木製の椅子達が大変印象的だなー。その風景に惹き寄せられるかの様に進んで行くと現れてくるのがコチラ:



で、出ました!思わず息を呑む様な美しい空間の登場です。うん、全てがビシッと決まっている・・・。外観も真っ白なら内観も真っ白。でも、よく見ると全てが真っ白という訳ではなくて、クリーム色をしたタイルだとか、濃い目の木を用いた床、はたまた淡い白色をした大理石といったような、様々な色が取り入れられているんだけど、それら全てが絶妙なハーモニーを醸し出し、この教会の白色を普通の白色よりも、もっと白色にしている気がするんですね。正に「白い教会」と呼ぶに相応しい、そんな気品を兼ね備えていると思います。

それにも増して、この教会の空間を特別なものにしているのが、内部に押し迫ってきている壁だと思うんだけど、何より驚きなのがコチラです:



内側に思い切り倒れこむかの様に膨らんでいる左手方向の壁!床と接する所を起点として、天井と接する部分では、3メートルは壁が内側に倒れてきているんですね。この壁が(良い意味での)圧迫感を伴い、この空間に、ある種の緊張感の様なものを創り出しています。今まで沢山の建築を見てきたけど、こんな形態は初めて見た気がする・・・。



その上方に空けられた3つの深−い窓からは、時に強く、時に優しい光が空間を満たしているのが分かります。更に不思議な光を醸し出しているのが、祭壇中央に開いている長方形の2つの穴です:



あの穴の光。淡い光。不思議な、本当に不思議な光です。振り返ると、必要以上に誇張されたかの様な高さを持つ木製の扉が目に飛び込んできます。



最初見た時は、「この空間にはちょっと大き過ぎるよな」とか思ったんだけど、時間が経つにつれ、この空間にピッタリと馴染んでくるから不思議です。その真横には、この静まり返っている空間に「チョロチョロ」と水の音を響かせている洗礼堂の為の空間があるんだけど、この空間を見上げてみると、そこにはタイルが張られ、あたかも上方からの光の粒子を可視化しているかの様なんですね。



これはまるでロンシャンの教会でコルビジェが見せた、スタッコのザラザラ仕上げによって、上方からの光の粒子を可視化している手法と似ていますね(地中海ブログ:プロヴァンス旅行その5:ル・トロネ修道院(Abbaye du Thoronet)の回廊に見る光について)。

素晴らしい、本当に素晴らしい空間だと思います。今まで古今東西、様々な教会を見てきたけど、これ程美しい教会はそれ程無かった気がします。

さて、この教会に関してもう一つ僕がここで強調しておきたい事があるんだけど、それはですね、この教会はシザの代表作のように言われる事が多くて、それには(それ程)異論は無いんだけど、でも、彼の作品の系譜で見たら、実はこの教会はメインストリームというよりは、むしろ、異端な位置を占めていると思うんですね。

理由は2つあります。

一つは僕が何度も強調してきた遠近法的空間手法について。シザ建築の特徴は遠近法的空間にあるという事は間違い無いと思うんだけど、この教会では、その遠近法が少し違った形で展開しています。



上の写真はサンティアゴ・デ・コンポステーラにあるもう一つのシザ作品、サンティアゴ大学情報科学学部棟のアプローチ空間なんだけど、シザ建築の典型的な展開の仕方というのはこの空間に見られる様に、何本もの直線を用いて、それらの線によって遠近法的空間を創り出すというものでした。しかしですね、この教会では遠近法的空間が創られている事は創られているんだけど、それが直線によって創られているのではなくて、曲線によって創られているという大変大きな違いが存在するんですね。



つまりこの空間では、祭壇両脇にある曲線が、祭壇中央部へと流れ込んで行くかの様な視線の流れが実現されていて、それらの曲線が創り出す消失点が祭壇に開けられた2つの長方形の穴だという訳なんです。

これが第一点目。そして2つ目の違いはですね、天井操作に関わる事柄です。

遠近法的空間と同様に、シザのもう一つの十八番として天井操作がある事は、今まで散々書いてきた通りなんだけど、この教会では驚くほど、シザは天井に関して無関心を貫いています。



ガリシア美術センターでは展示室にテーブルを逆さにした様な造詣がなされていたり、シザ初期の銀行などでは、大きくカーブを描いた様な天井の切り取り方をしているという様に、シザは空間を創る際、必ず天井操作を伴った構成をしてきました(地中海ブログ:マドリッドの都市戦略その2:アルヴァロ・シザ(Alvaro Siza)について)。しかしですね、この教会では、その様な天井操作は一切見られません。その代わりに行われているのは、今までの作品では見られなかった壁への執着なんですね。つまり天井操作が一切無い代わりに、壁がカーブを描き、緊張感を伴いながら迫ってきているという事が挙げられるという事です。

これらから言える事、それはこの教会は明らかにシザの一連の作品の系譜からは外れた作品であり、そういう意味において、シザのメインストリームに位置付けられる作品ではないと言う事実なんですね。

・・・この教会の内部空間には「凛」とした空気が張り詰め、この場所にしか存在し得ない、そんな荘厳な空気が流れています。そしてこの空気は、シザの建築に関して繰り返し書いてきた様に、写真では絶対に捉える事が出来ないものであり、正に、「今、ここ」にしか存在し得ないものだと思います。

 「ここに地果て、海始まる」

ルイス・デ・カモンイスがそう詠んだ国、ヨーロッパの端の端にへばりついているポルトガルという国の更に内陸部へ数時間行った所にあるという、大変辺鄙で行きにくい所なのは確かなのですが、そこまでの手間と時間をかけてココにこの教会を見に来る価値は絶対にあると思います。そう思わせてくれる様な質を持った教会です。是非一人でも多くの人に、この感動を味わって頂きたいと、そう思わずにはいられません!
| 旅行記:建築 | 03:20 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ガリシア旅行その8:アルヴァロ・シザの建築:セラルヴェス現代美術館(Museu de Arte Contemporanes, Fundacao de Serralves):人間の想像力/創造力とは
人間という生き物は、その人生の中において体験した事を、記憶として蓄積し、それらに基づいて日常を生きている動物です。だから人生における体験が未だ少ない子供というのは、日常生活の中で遭遇する些細な事にさえも驚嘆し、そして感動する訳なのですが、大人になるにつれ、それらの体験が記憶として蓄積されてくると、多少の事ではナカナカ感動しなくなるのが人間という生き物なんですね。



我々が何らかの体験を通して感動する時、それは今まで自分が5感を通して見てきたもの、感じてきてモノとは全く違った事柄に遭遇した時であり、自分の想像を超えるものに不意に出くわした時だと思います。そんな時、我々は心の底から驚き、発見し、そして魂が震える瞬間に遭遇するんだと思います。

アルヴァロ・シザが設計したセラルヴェス現代美術館との出会いは、僕にとって新鮮な驚きそのものでした。「人間にこんな事を創造するのが果たして可能なのか!」と、そう思わせてくれる程の驚きと、喜びを与えてくれたんですね。



緑溢れる公園の中に佇むこの美術館は非常にゆったりと創られていて、先ずはその美術館の顔とも言える独特な形をした「門」が我々を出迎えてくれます:



少し斜に構えたその出で立ちが、あたかも次のアプローチ空間へと我々の動きを促進しているかの様です。非常に不思議な形をしたこの門なんだけど、デザイン的に見て、何かしら、「忘れられない風景」を抱かせると同時に、向こう側に展開するであろう中庭風景を遮り、この立ち位置からはそれらをチラチラ見せるに留まるという、機能的にも重要な役割を担っている事が分かります。因みにこの造詣を後ろ側から見たのがコチラ:



文句無くカッコイイ空の切り取り方ですね。この門が如何に美術館に対して斜に構えているかが分かるかと思います。そしてこの高い天井を持つ門から、一段カクンと下に折れ、背筋が伸びるくらい真っ直ぐに伸びているアプローチ空間がこちら:



左手奥側には、非常にゆったりとカーブを描いたスカイラインを持つ四角形が横たわり、その比較的大きなボリュームと、真っ直ぐに伸びたアプローチ空間の間には、何やら小さな箱みたいなのがくっついてるんだけど、ここが凄いんです!見てください:



あの小さな箱の向こう側。仄かに光り輝き、まるで我々を「おいで、おいで」と導いてるかの様じゃないですか!!そこまでは比較的暗い空間が続いていたのに、あそこだけ、まるで天空から光が差し込み、天国への入り口であるかの様ですらあります。素晴らしい光の操り方だと思いませんか?というか、「人間にこんな事を考え付くのが可能なのか?」と、心底そう思ってしまうくらい、うっとりとする空間がここには展開しているんですね。

何故こんな魔術の様な光のデザインが可能になったのか?そのトリックの答えがコチラです:



そう、先程見た、カーブしたスカイラインを持つ比較的大きなボリュームの側面に太陽光が当たり、その光が反射して、反対側のアプローチ空間の天井を照らしているんですよ!



更に、その前に付いている小さな箱がアプローチ空間の幅を細め、進行方向に向かってパースを付ける様に配置されている事も、何かしら、あちら側に向かって空間が開かれている感覚を増長する一助になっているんですね。



こんなデザインが可能になった背景には、「真っ白い壁は光を反射する」という事を経験から知っている必要があるんだけど、シザはそのような実験を他の建築で何度か試みていました。その一つが、前々回のエントリで話題に取り上げたガリシア美術センターの展示室に取り付けられた大きな窓からの光の取り入れ方と、その反射効果だと思います(地中海ブログ:ガリシア旅行その6:アルヴァロ・シザの建築:ガリシア美術センター(Centro Gallego de Arte Contemporaneo):複雑な空間構成の中に隠された驚く程シンプルな原理)。

それにしてもこの光のデザインはちょっと普通じゃありません。

シザという建築家は、ものすごくヘンテコな事も沢山してて、この美術館でも、「そりゃ、無いだろ!」とか、「おいおい、これって、その辺の学生レベルのデザインだぞ!」とか、そんな所も一杯あるんだけど、その一方で、上述の様な、正に人間の想像力/創造力の限界に挑んだ空間をも創り上げているんですね。つまりその振幅の幅が非常に大きいという事なんだけど、これだけのものを見せられたら、後はどんなヘンテコな部分があろうと、もう何でも良い気がしてきます(笑)。それほど素晴らしい空間なんですよ!

「ココに何時までも居続けたい!」と、そう思わせてくれる様な見事な空間なのですが、まあ、そうも言ってられないので、もう少しこの美術館を歩いてみたいと思います。個人的に驚いたのは、先程の入り口部分、丁度、門の後ろ側に、10年前は無かったショップが追加されていた事ですね:



この部分の主機能は、美術館の後ろ側に広がる広大な森林空間へのアクセスをコントロールする為のものなんだけど、店の中にはシザやソウト・デ・モウラ関連グッズが所狭しと並べられていました:



これらの商品が暗示している事、それは、このポルトという地では彼らは既に「ブランドになっている」という事なんですね。つまり地元のヒーローって事。これって建築家としては、この上ない喜びだとは思いませんか?(この辺の話については以前のエントリで幾つか書きました:地中海ブログ:建築家という職能について:その2

そしてこの美術館のもう一つの見所がコチラです:



2階に位置しているレストラン兼カフェテリアなのですが、シザがデザインした木製の椅子やテーブル、そして床などが、この空間に独特の温もりを与えています。側面には大きな大きな特注サイズの横長の窓が目一杯に切り取られています:



真っ白な壁を背景に、あたかも自然の美しさをそのまま切り取り、建築空間内部に「芸術作品」として取り込んでしまったかの様なんですね:



刻一刻と移り変わっていく自然の美しさに息を呑まれます。こんな風景を見ていると、普段は全く気が付かなかった一本一本の木々が創り出す風景、そして同じ様に見える自然にも「幾つもの側面があり、様々な顔を持っているんだなー」と言う事に改めて気が付かされます。この大きな窓枠は僕達に、「自然と何か?」という僕らを取り巻く環境の多様性、ひいては、「我々とは一体何者なのか?」という事を考えさせる為の装置として機能しているかの様なんですね。



こんな偉大な自然を目の前にすると、我々人間というのは如何にちっぽけな存在で、そして地球の一部を間借りして「生かしてもらっている」という事を実感します。

このアルヴァロ・シザという建築家は、デザインとかディテールとか、そんなちっちゃな事じゃなくて、我々人間の「生」の背後に潜んでいる、もっと大きなもの、もっと偉大なものに挑んでいる気がする・・・。彼にとってデザインとは、それら自然の摂理みたいなものを我々に諭すため、もしくは可視化する為の単なる道具なんじゃないのかな?

ちょっと大げさかもしれないけれど、この素晴らしい美術館を見ていると、そんな事を思わずにはいられません。素晴らしい体験でした!
| 旅行記:建築 | 05:02 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加