地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
スペインの大学ランキング:総合ランキングではなく、学部間で競い合うというシステム
最近連続して同じ様な質問を受けたので、一度まとめて書いておくのも悪くないかなーと思ったので、今日はスペインの大学事情について少し書いてみようかなと思います。


(ポンペウファブラ大学図書館)
以前少しだけ書いたのですが、スペインでは大学間に日本のような明確なプラミッド型の構造が存在しません。つまり誰が見てもNo1大学(東大、京大)が存在するというような強い構造が無いんですね。もしかしたらただ単に僕が知らないだけなのかもしれないけど、確かな事は、殆どのスペイン人がそんな事は気にしていないと言う事です。例えば、その辺に居る学生やサラリーマンを捕まえて、「スペインでNo1、もしくは有名だと思う大学は何処だと思いますか?」と聞いても、帰ってくる答えはまちまちだと思います。何故ならそんなもの存在しないし、興味も無いからです。



スペインで重要な事は「何処の大学を卒業したか」ではなくて、「大学を卒業した事」と「どの学部を終了したか(タイトルを持っているか)」の2点です。

我々建築家にとってはこの後者が曲者で、というのも日本では建築学科は工学部に属しているので(美大系は別)、建築学科を卒業した日本人建築家が保持しているタイトルは「工学(Engineering)」なんですね。一方、スペインを含むヨーロッパの教育システムには列記とした建築学部が存在します。だから大学を卒業した建築家は全員、建築家のタイトル(Architect)を持っている訳です。


政府の授業料引き上げに反対する学生デモ:ポンペウファブラ大学中庭にて)
すると日本人建築家が建築家としてスペインで働こうとした場合、日常的に起こり得る笑えない状況はこんな感じ:

日本人建築家:「こんにちはー。大学を卒業し、3年程度の実務経験がある建築家です。ちなみに一級建築士も持ってます。働きたいんですけど・・・」

秘書:「ハイ、ハイ、毎晩、女体盛りを食べてる日本人ね(菊地凛子さん主演、Mapa de los sonidos de Tokioでカタラン人映画監督のイザベル・コシェット(Isabel Coixet)が全く奇妙な映画を作ってくれたので、夏以降はこんな変なイメージが纏わり付くものと思われます)・・・あれ、あなた建築家だって言ったわよね?でもあなたのタイトル、工学(Engineering)じゃない。ウソ付いちゃ駄目よ。ハハハ」。

日本人建築家:「あのー、日本の生んだスーパースターArata Isozakiも、スペイン人にとっては今や建築の神様的存在、Toyo Itoも保持しているタイトルは「工学」なんですが???ちなみにスペイン人が「禅の精神が見事に表されているー!」とかいう訳の分からない説明をする、コンクリートの神様Tadao Andoは工学のタイトルすら持っていませんが???」

秘書:「そんな事知らないわよ(怒)!一級って何???そんなの大学の建築家のタイトルが無きゃ、何にもならないじゃない!!!それに彼らは彼ら、あなたはあなた。あ、バルサの試合が始まった。さよならー」

みたいな事になるのがオチです。じゃあ、スペインで建築家は働けないか?というと、何の問題も無く働けます(笑)。ここからは話が長くなるので、又別の機会にという事で。


(カタルーニャ工科大学スーパーコンピューティングセンター)
さて、スペインの現行の教育システム(2009年現在)では、高校の最終年度に希望大学と学部を10個くらい書いて、夏前に行われる全国共通のセンター試験(selectividad)みたいなのと最終年度の成績と合わせて、成績の良い人から順に希望の所へ入るというシステムを取っています。

で、我々日本人にとって興味深いのが、「どの大学を選ぶか?」という評価軸なのですが、コレがかなり面白い。どの大学へ進学するかを決める彼らにとっての最重要事項、それはずばり、「家から近い所」です。


(ポンペウファブラ大学図書館上階部)
例えばバルセロナ在住でスペイン文学が専攻したい高校生が、サンティアゴ・コンポステーラ大学やサラマンカ大学が有名(古いから)だからって、わざわざガリシアやアンダルシアの大学に行く事は滅多にありません。家から近いバルセロナ大学、もしくはバルセロナ自治大学やポンペウ・ファブラ大学へ行くものだと思われます。

もっと言っちゃうと、多分みんなポンペウ・ファブラ大学を選びますね。何故ならメトロから一番近いから(笑)。バルセロナ自治大学(バルセロナ市外)なんて最後の選択肢ですね。って、こういう事を真顔で言うから、面白いんだよな、カタラン人!

彼らにとって、大学の名前よりも重要な事。それは家族や友達と過ごす時間なんですね。だから3年前から受験勉強もしないし、浪人も一般的ではありません。中にはどうしても行きたい学部があって、途中で変更するという人は居るようなのですが、あまりメジャーではないようです。

もう一つの決定的な違いは、大学の評価が学部単位になっている事ですね。日本のように何でもかんでも東大(京大)が一番という事はありません。


(バルセロナ大学)
例えば、カタルーニャ工科大学(Universidad Politecnica de Catalunya)には交通分野の世界的権威であるJaume Barceloが居ますし、ポンペウ・ファブラ大学(Universidad Pompeu Fabra)にはヨーロッパの歴史学の重鎮、Josep Fontanaが居ます。だから前者の交通工学部や後者の歴史学部は世界的に知られていますが、その他の学部は誰も知らないと言う事が普通に起こってきます。IESEやESADEと言った、バルセロナを拠点とする世界的に有名なビジネススクールも同じ事で、というのも、IESEやESADEは純粋な大学ではなくて、Navarra大学の一学部(IESEの場合)という扱いになっていますから。

健全だと思います。そんな事情があるから、毎年発表されるスペイン大学の総合ランキングがどれ程有効か?にはかなり疑問がありますし、発行元によってかなりばらつきが見られます。例えば先々週あたりに新聞に載っていたランキングでは確かUniversidad de Navarraが1位だったように記憶していますし、別のランキングではUniversidad de Barcelonaが首位を保持していたりします。下記に載せるのはスペインの新聞社El mundo発行の2008/2009年度版のランキングです。どれだけ信憑性があるのか?はかなり怪しいですが、ちょっとした話のネタにはなるかなー、くらいに考えておいてください。

1. Universidad Compultense de Madrid
2. Universidad Politecnica de Madrid
3. Universidad Autonoma de Barcelona
4. Universidad Autonoma de Madrid
5. Universidad Politecnica de Catalunya
6. Universidad Carlos III de Madrid
7. Universidad de Barcelona
8. Universidad de Navarra
9. Universidad Pompeu Fabra
10. Universidad de Valencia
11. Universidad Politecnica de Valencia
12. Universidad de Granada
13. Universidad de Sevilla
14. Universidad de Alicante
15. Universidad Ramon Llull
16. Universidad del Pais Vasco
17. Universidad de La Coruna
18. Universidad de Salamanca
19. Universidad de Santiago de Compostela
20. Universidad de Alcala de Henares

追記:

最近非常に気になっている事の一つに、バルセロナにボコボコとタケノコの様に出来つつある、私的機関(その多くが何処かの大学とのコラボという形になっている)による「マスターコース」と名を打った教育コースの存在があります。マスターとは直訳すると「修士」となり、日本人の我々にはアメリカや日本でいう「修士かな?」と勘違いしてしまうのですが、スペインでいう「マスタ―コース」はアメリカや日本の高等教育機関で提供されている修士コースとは全く関係がありません。(スペイン文部省に認可された正式な学位(修士に相当)を授与しているコースには「マスター・オフィシャル」と言う様に、「オフィシャル」という言葉が付いています。これはこの記事で取り上げている「マスターコース」とは全く違うのでご注意を)。又、それら「マスターコース」のプログラムは非常にいい加減なモノが多く、その辺の事情を何も知らない外国人をターゲット=食い物にしたものと言っても過言ではないと思います(勿論、全てがそうとは限らない)。特にそれらに共通する特徴として:

1:英語で授業を行う事を宣伝文句にしている。何故なら外国人をターゲットにしているので。又、意味も無く海外からビックネームのスターを呼んできて、その名前で釣る事が非常に多い。

2:授業料が極めて高い。スペインの大学の授業料はどんなに高くても年間1000ユーロ以下が普通。

3:マスターコースを修了した暁に出る学位が、スペインで認められている正式な学位ではないので、ハッキリ言って何の役にも立たない。つまり1、2年かけてがんばってコースを修了しても、それはスペインは勿論、日本の外務省や教育省でも認可されていない教育機関によるものなので、修士という学位に振り返る事が出来ない。

その辺の事情についてはコチラで書きました(地中海ブログ:
バルセロナに出来た新しい建築学校その2:バルセロナ建築スクールの諸問題もしマスターコースに興味がある方は、事前にその辺の事(学位は正式な物なのか?学費は?単位はどうなるのか?)などを、書面(メール)で、そのコースを提供している機関にご確認される事を御薦めします。

追記その2:
今日の記事(2015年8月30日、la Vangurdia紙)によると、今年度のスペインの大学(学部)の授業料の平均額は1516euro/年(日本円で20万くらい)で、国内で一番高いのはカタルーニャ州で2370euro/年(32万円)だという事です。

| バルセロナ歴史 | 21:55 | comments(27) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ハプスブルグ家(Habsburg)のお膝元、ウィーン(Vienna)で過ごす2008年9月11日
今週の水曜日から仕事&観光でオーストリアはウィーン(Vienna)に来ています。昨日は本当ならバルセロナに居てカタルーニャの文化を決定付けた出来事、1714年のスペイン継承戦争の記念行事の事を当ブログでお伝えしなければならなかったのですが、仕事だったのでしょうがないですね。2年前に書いたエントリ、もう一つの9月11日:カタルーニャの場合で我慢してください。

ココで詳しくは書きませんが、このスペイン継承戦争が良い意味でも悪い意味でもその後のカタルーニャの文化的特長を決定付けたという視点は古くはビセンス・ビベス(Vicens Vives)からジョセップ・フォンターナ(Josep Fontana)、最近ではアルベルト・ガルシエ・エスプッチェ(Albert Garcia Espuche)まで一貫しています。

それにしても2008年の9月11日をカタルーニャの宿敵であったハプスブルグ家(Habsburg)のお膝元、ウィーンで過ごすとは思いもよりませんでした。あー、忙しい。

追記:
ウィーンでのネットの状況が芳しく無く、メールを頂いた方への返信が滞っています。BCNに帰り次第返信致しますのでご了承ください。すみません。
| バルセロナ歴史 | 19:47 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
サン・ジョルディ(Sant Jordi)とカタルーニャ(Catalunya)その2
昨日のエントリで書いたように、今日(4月23日)はカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)の祭日で、ランブラス通りをはじめ至る所がカタルーニャの国旗と本とバラを売る屋台で埋め尽くされました。







街全体がお祭り気分に包まれるこんな日は、誰も仕事に集中する気無し。ミーティングをしてても、「今晩は誰と食事をしようか」とか、「誰にプレゼントをあげようか」とか、そんな事ばかりが話題になります。そんな調子だから今日は仕事を2時で切り上げて解散。え、終わりなの?とか思っちゃうんですが、終わりなんです。うちなんて、政府機関なんで祝日でも何でも無い平日の午後にはオフィスに誰か居ないと絶対に困ると思うんだけど、それでも事が回ってしまう所がすごい。市民も「今日はサン・ジョルディだからしょうがないか」、という暗黙のコンセンサスがあるんですね。社会にこれくらいの余裕があるのはそんなに悪い事ではないかなと最近思い始めました。

さて、今日はお祭りなのでそれに伴って様々な催しものが街全体で企画されています。その一つがカタルーニャ州政府の中枢機関である州政府庁舎(Palau de la Generalitat)の一般公開です。普段は関係者以外立ち入り禁止のこの建物を時間限定で市民に見てもらうという好企画。僕は仕事で何回か入った事があるのですが、今日は何時も会議中とかで見れなかった所や鍵がかかっていて入れなかった所なども開いている様子だったので期待大で行ってきました。目的は建物中に散らばっている守護神、サン・ジョルディの写真を撮る事です。

で、ありました、ありました、しかも山程。先ずはコレ。



アントニ・サドゥルニ(Antoni Sadurni)によってデザインされた「サン・ジョルディ・タピストリー(Sant Jordi Tapestry(1450-1451))」です。注目すべきはドラゴンの姿です。



ドラゴンは勿論太っちょのヨーロッパ型。どちらかというとトカゲを大きくしたような感じかな。昨日書いたスクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ(Scuola Dálmata San Giorgio degli Schiavoni)教会のVittore Carpaccioによる、「San Giorgio che uccide il drago」内のドラゴンと比べるとその違いは一目瞭然。



先ずカタルーニャのドラゴンには羽が無い。と言う事は飛ばないんですね。そして手足が短くてワニにように這って歩いています。どう見ても二本足で立つようには思えない。あと、首が細いから火を吹きそうにもありません。

反対にイタリアのドラゴンは羽があるので飛びます。4本足なんだけど、上半身が起きているのでワニというよりは馬タイプかな。そして顔つきからして明らかに火を吹きそう。





上記の写真はカタルーニャ州政府にある他の彫刻なのですが、このドラゴンにも羽がありません。こいつにいたってはロバのような耳がある。





上記はカタルーニャのもう一つの行政機関であるDiputacio de Barcelona内にあるサン・ジョルディの彫刻なのですが、このドラゴンにも羽が無い。

ここまでで分かった事:
カタルーニャのドラゴンは飛ばないのが多いみたいですね。ドラゴンっていうのはてっきり飛ぶものだとばかり思っていたんですが、刷り込みだったようです。これは当然といえば当然なのかな。何故ならヨーロッパにおいてドラゴンってトカゲの延長上っぽいので。でもそう考えると蛇の延長である日本タイプのドラゴンが空を飛ぶのはおかしくないですかね?

あ、そうか。日本においてドラゴンは神様の使いだからいいのか!ヨーロッパのドラゴンはどう見ても悪役っぽい。

もう一つ全てのドラゴンに共通しているのは、ドラゴンの殺し方ですね。どのサン・ジョルディも槍で頭を貫いている。多分コレはドラゴンと戦うのに接近戦じゃあ怖いのでとりあえず槍を選んだっぽい。あと、ヨーロッパの武器ってソードなんですけど、ソードって日本刀と違って引いて切るんじゃなくて、叩き潰すんですね。だからドラゴンを倒すのに人間の力で叩いて倒すのはあまり現実的じゃない。とすると、槍で貫くという選択しかないわけです。そして何処を突くかという問題なんですが、心臓は何処にあるか分からないっぽいので確実な頭になったんでしょうね。

そんな風に思考したかどうか分かりませんが、その点が各地で共通しているという所は興味深い所です。
| バルセロナ歴史 | 05:11 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
サン・ジョルディ(Sant Jordi)とカタルーニャ(Catalunya)
4月23日はカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)の祭日です。この日は愛し合う二人がバラと本を互いに贈り合うという、何ともロマンチックなイベントが行われる為、バルセロナ中の街路や公共空間が本とバラを売る屋台で埋め尽くされます。その光景は圧巻。バルセロナの目抜き通り、ランブラス通りなんて観光客と買い物客で元旦の熱田神宮なみ。しかも今年は同じ日にバルサ(Barça)対マンチェスター(Manchester)というサッカーの好カードが組まれている事から警察官を総動員しての非常警戒態勢を敷く模様です。

さて、このサン・ジョルディの日に「本とバラを送る」という習慣はカタルーニャから始まりました。このカタルーニャから始まったという印象があまりに強かった為、サン・ジョルディって、てっきりカタルーニャに固有の聖人かと思っていたら実は違うらしいんですね。その事に気が付いたのが先月のベネチア旅行でした。その際訪れたスクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ(Scuola Dálmata San Giorgio degli Schiavoni)教会にVittore Carpaccioによる、その名も「San Giorgio che uccide il drago」という絵画があったからです。



更に、アッカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)で行われていたティツィアーノ・ヴェチュッリオ(Tiziano Vecellio)の好企画展、L’ultimo Tiziano e la sensualità della pitturaの展示品の中にもドラゴンに関するもの(Tiziano Vecellio, Santa Margherita e il drago)があったりして、記憶に残っていたんですね。



そこでちょっと調べてみたら、どうやらサン・ジョルディとは4世紀にパレスチナで殉教したとされているオリエントの聖人、ゲオルギウス(Georguis)の事であり、英国、ギリシャやポルトガルなどが守護聖人としているらしいという事が分かってきました。

で、この人、何をしたかというとその昔、村を襲っていた人食いドラゴンからお姫様を救ったらしい。人食いドラゴンって言ってもヨーロッパのドラゴンとアジアのドラゴンって少し違っていて、ドランボールの神龍みたいな長いのはアジア型。それに対して、ドラクエに出てきそうなのやピッコロ大魔王が生みそうな太っちょタイプがヨーロッパ型。

アジア型はどうがんばっても人間じゃ勝てそうにないけど、ヨーロッパ型なら何とかなりそうな気がする。しかもかわいいお姫様の為だったら何とかするでしょ、という事で納得。

そんなサン・ジョルディが竜をやっつけた伝説、「竜の奇跡」として知られる物語はこんな感じ:

カッパドキアのセルビオス(Selbios)王の首府ラシア(Lasia)付近に、毒気は振りまく、人には咬み付く、という巨大な悪竜がいた。人々は、毎日2匹ずつの羊を生け贄にすることで、何とかその災厄から逃れることとなったのだが、それが通用するのはそんなに長い時間のことではなかった。羊を全て捧げてしまった人々は、とうとう、人間を生け贄として差し出すこととなった。そのくじに当たったのは、偶然にも王様の娘であった。王は城中の宝石を差し出すことで逃れようとしたが、もちろんそんなもので誤魔化せるはずはなかった、かわりに8日間の猶予を得た。
そこにゲオルギウスが通りかかった。彼は毒竜の話を聞き「よし、私が助けてあげましょう」と出掛けていった。
ゲオルギウスは生贄の行列の先にたち、竜に対峙した。竜は毒の息を吐いてゲオルギウスを殺そうとしたが開いた口に槍を刺されて倒れた。ゲオルギウスは姫の帯を借り、それを竜の首に付けて犬か馬のように村まで連れてきてしまった。大騒ぎになったところで、ゲオルギウスは言い放った。
「キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう」
こうして、異教の村はキリスト教の教えを受け入れた。(Wikipedia より)


この物語は国を超え様々に伝えられ、又様々な人達がその場面を描いています。上述したVittore Carpaccioを初め、僕の大好きなラファエロ・サンティ(Raffaello Sanzio)も。

僕にとって大変に興味深いのは、このような一つの物語が地方の文化を吸収しながら形を変え伝承されていった事です。その一つが我らがカタルーニャ地方に伝わる伝説です。そしてカタルーニャ地方においては、この伝説が生み出された当初から政治的な意味を含んでいたと見なす事が出来ます。

時は国土回復運動の最中、南へと退却していくイスラム教徒が、逃げ去る際にカタルーニャ地方に放った竜がキリスト教徒の乙女を食い尽くすという伝説。どんな腕自慢が戦っても勝ち目すらなかった状況下に現れたのが、白馬に乗った超美形のサン・ジョルディ。見事槍で一突きして乙女を救ったそうです。この時流した竜の赤い血が赤いバラに変わったという逸話まであるからすごい。

これが何故政治的な意味を含んでいるかというと、当時イスラム教徒の侵攻を受けていたカタルーニャにとって、イスラムを追い払ってくれた騎士は正に独立のシンボルと見なされていたからなんですね。

こんな風に、各国・地域で同じ伝説がディテールを変えて何百年も伝わっている。それこそ現在のヨーロッパを支える「多様性」の面白い所!!!

(ちょっと話が違うかもしれませんが、日本の歴史において登場する悪者の代表といえば鬼。鬼伝説は各地で残っているんですが、その伝説が生まれたのは当時の重要機密だった「鉄」を製造していた所だったという事を読んだ記憶があります。つまりそこに寄せ付けない為にそのような都市伝説を創造したんですね。ヨーロッパにおいてドラゴンという悪者が創り出された背景には何かあるのでしょうか?興味深い所です。)

さて、こんなサン・ジョルディ伝説はカタルーニャにおいては大変特別な意味を持っていると言いましたが、それが確立されたのがフランコ政権下のカタルーニャにおいてでした。フランコの独裁政権がドラゴンでカタルーニャがお姫様。つまり中央政府に言語や文化の抑圧を通して痛い目に遭わされているお姫様を助け出してくれる守護神と見なされているから、皆この伝説が大好き。

更に2つの偶然がこの祭日をカタルーニャにとって特別なものとしました。一つ目は、この日がユネスコ(UNESCO)により「世界本の日(World Book Days)」に制定されたという偶然です。それはこの日が偶然にもセルバンテス(Miquel de Cervantes)シェイクスピア(William Shakespeare)という歴史的巨人の命日だからなんですね。そんな偶然がサン・ジョルディの伝説と重なってバラと本を贈り合うという習慣へと姿を変えました。

もう一つの偶然は第一回目の「本の日記念日宣言」が出されたのが1931年だったという事です。この年はカタルーニャにとっては大変特別な年で、カタルーニャ共和国宣言が出された年でした(4月14日でした)。

この「独立のシンボルとしてのサン・ジョルディ」、「本の日(言語)」そして「カタルーニャ共和国宣言」という3つの偶然が重なった結果、当初は「スペイン語の本の日」として始まった記念日が何時の間にかナショナリズムと共に盛り上がって、「カタルーニャ語の本」とすり替えられたんですね。勿論そこには、「想像の共同体」を可能にする飛び道具の一つ、言語の促進という意味合いが多分に含まれています。

異国に暮らしていると、言語の選択というのは政治的選択だという事を思い知らされます。それは何も州議会とかそういう大きな話ではなくて、日常生活の中でもそうなんですね。逆に日常生活の中に根付いているからこそ、すごいと思う訳です。何故ならそれは人々の意識下にまで影響が及んでいる事を示しているからです。

これは日本のように日本語しか話さない、正に「パラダイス鎖国」化された環境に居ては気が付かない・身に付かない感覚だと思います。小さい頃から多言語が当たり前な環境で育ったヨーロッパ人は、言語が政治だという事をごく自然に受け入れています。そしてそれが彼らの強さなのかもしれないと思う事もあります。何故ならそんな環境が彼らの多様性の感覚を養い、そんな幅広い選択肢の中から己の進む道を選ばせるからです。これは一つの世界しか知らず、受動的に選択させられるのとは大違いです。

海外に暮らし始めて早5年。最近ようやく学生の頃読んだ、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の言う「想像の共同体(Imagined Communities)」という意味が少し分かってきたような気がします。
| バルセロナ歴史 | 04:14 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
エンサンチェ(Ensanche:新市街地)セルダブロック中庭開放計画その1: Jaridins de Montserrat Roig
サグラダ・ファミリアから東へ5ブロック程行った所、Rossello通りとCartagena通りの交差点に位置するセルダブロックの中庭は、向かいにあるダムビール醸造所(Cervesa Damm)の工場に占められていました。





その工場が中庭から撤退したのは1992年の事。その後ずっと放置されていたのですが、近年のセルダブロック中庭開放計画の一環として素晴らしい中庭として甦りました。



この中庭にはモンセラット・ローチ(Jaridins de Montserrat Roig)という名前が付けられています。この名はカタルーニャで70年世代として名を馳せた文学者グループの一人であり、ジャーナリストととしても知られたMontserrat Roigにちなんでいます。彼女は数多くの影響力ある著書を著していますが、僕にとって何よりも興味深いのは彼女はエンサンチェに生まれ育ち、彼女の小説の中で大変豊富なエンサンチェの描写をしているという事です。



彼女の名が付けられたこの庭は、彼女の小説に登場するある一場面をモチーフに再生されたものです。ここの中庭は大きく2つのゾーンに分けられています。アスファルトが敷き詰める中にぽつんぽつんと置かれたベンチとビール醸造の名残であるタンクが置かれたゾーン。ここでは子供達が所狭しとボールを蹴り合っています。





もう一つのゾーンは打って変わって様々な種類の木が植えられた緑豊かなゾーン。ここでは大変に静かで豊かな時間が流れています。日差しが降り注ぐ中で読書をするにはもってこいの場所と思っていたら、やっぱり居ました、そういう人が。気持ちいいもんなー。

アクセスはRossello通りとProvenca通りの2方向から可能。小さく開いた洞窟がその入り口なのですが、あまりに小さいのでうっかりすると見落としてしまうかも。表通りとは全く様相を異にするこの楽園は正に秘密の花園といった感じ。

今まで数多くの中庭を見てきたけど、ここほど豊かな中庭は無かったのでは?と思ってしまうほど素晴らしかった。
| バルセロナ歴史 | 17:44 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
エンサンチェ(Ensanche:新市街地)セルダブロック中庭開放計画その1: Jardins de Maria Merce Marcal
現在バルセロナではエンサンチェ(Eixample:新市街地)の修復と再活性化プロジェクトが進行中です。その主役になるのが、セルダブロックの中庭開放計画です。以前のエントリで書いたように、セルダブロックは一辺約133メートルの正方形の角を三角に10メートル切り取った形をしています。


Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori

Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori

Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori

そこに現在では約8階建て20−25メートルの建物が四周にびっしりと建っている状態なんですね。

元々、セルダ( Cerda)が1859年に提案したモデルでは高さは最大4階建て16メートルまでと規制されていました。それが1890年には23メートルに拡張され、1933年には24.4メートルにまで拡張されてしまいました。現在のバルセロナが地中海都市として売りにしている高密度(Density)はセルダの理想郷が金の猛獣どもにズタズタに引き裂かれた結果もたらされた偶然の産物だったんですね。このような無法状態はスペイン民主化後まで続き、1976年には規制を強めて20.75メートルになりました。

奥行きは約25−30メートルといった所でしょうか。その結果、正方形の中に一辺が60−70メートルの正方形をした中庭が出来る事になりました。


Magrinya,F., Tarrago,S.(1994):CERDA:Urbs i Territori
この中庭は道路側とは打って変わって静謐極まりない空間です。しかしながら多くのセルダブロックの中庭は駐車場に利用されていたり、モノ置き場になっていたりとその空間の特性を生かす事無く、死の空間と化していました。

そこに目を付けたのがバルセロナ市役所。中庭を有効活用する為に、図書館や公園といった公共空間に変換する事により市民に開放しようという計画を立ち上げたんですね。2010年までに50以上の中庭、85,290m2を開放する事を予定しているこの計画は、現在の所、約18ブロック、24157m2が修復を終えて市民に開放されています。



Provenca 通り93番地にあるセルダブロック中庭は以前はSopena出版社(Editorial Sopena)の建物で占められていたんですね。それを撤去し新しく幼稚園とスポーツ施設、公園といった公共空間に変え、Jardins de Maria merce Marcalとして新しく甦えらせました。





僕が訪れた時は公園で遊ぶ子供達で一杯でした。車が入ってこない中庭は安心して子供を遊ばせる事が出来るオアシスとして市民に愛されている様子でしたね。
| バルセロナ歴史 | 16:28 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
グスタボ・ジリ社( La Editorial Gustavo Gili)とFrancesc Munoz: UrBANALizacion: paisajes comunes, lugares globales
昨日は朝から一昨日の続きでEU-practiceに参加。一昨日の夕食も夜中まで付き合わされた上に、今日も遅くまで続くんだろうなーとか思ってたら昼前に終わった。ラッキー。昼食を長々と取った後、6月のEU委員会へのプレゼンで会おうと誓い合って皆とお別れ。てっきり夜まで、下手したら明日もとか思ってた僕にとっては、久しぶりに出来た自由時間。天気も良いし散歩でもしようと思いセルダブロックがあるエンサンチェをぶらつく。

セルダブロックで知られるエンサンチェ(新市街地)の一番左側に位置するエリアをぶらぶらしていると、ふとこの辺りにグスタボ・ジリ社(La Editorial Gustavo Gili)があった事を思い出す。この辺りかなと思って行ってみたらやっぱりあった。約130メートルある辺を隅から隅まで住宅がびっしりと並ぶ中にぽっかりと開いた穴。





この秘密の洞窟っぽい通路がグスタボ・ジリ社屋へのアクセス路です。壁には矢印とシンボルマークのGGがかっこよくデザインされている。



グスタボ・ジリ出版社屋はカタルーニャに残る最良のモダニズム建築の内の一つとされています。前にも書いたように、僕が知っているグスタボ・ジリは創業者グスタボ・ジリの息子です。「親子で同じ名前付けるなよ、ややこしいな」とか思ってしまいますが、こちらではそういうものらしい。現グスタボ・ジリ社を取り仕切っているのはお姉さんであるモニカ・ジリさん。

今でも忘れられないんですが、初めてモニカさんに会った時の事、最近の出版業界の低迷とグスタボ・ジリ社への影響などを話してくれました。その中でバルセロナにある出版業界の新興勢力であるA出版社の勢いと、その出版社に勤める日本人Tさんの事を「小さな巨人」と話されていました。1,2回しかお会いした事はありませんが、僕がスペインで唯一尊敬する日本人Tさん。何時か僕もああなりたいものです。



さて、息子のグスタボ・ジリはカタルーニャで注目の若手建築家としてがんばっています。GG社屋の前にあるアパートは彼の設計によるものだそうです。GG社屋の中は現在、本屋さんになっているので自由に入る事が出来ます。ただ撮影は禁止。というわけで中の写真はありません。(写真を撮ってはいけないという所では写真は撮らないというのが僕のポリシーなので)

中は優しい光が包み込む透明感溢れる空間に仕上がっています。本屋さんで何か無いかなと物色していたら旧友のFrancesc MuñozによるUrBANALizaciónが発売真近とあるじゃないですか!3年前から出版する、出版すると言っていた彼だったのですがとうとう出版にこぎつけたか!何故かというと、プロローグをサスキア・サッセンに頼んだのに全然返事をくれないとの事だったのですが、無事解決したのですね。おめでとー。

彼は何を隠そうあのイグナシ・デ・ソラ・モラレス(Ignasi de Sola Morales)の最後の弟子です。地理学者である彼は元々マニュエル・カステル( Manuel Castells)やサスキア・サッセン( Saskia Sassen)などのネットワーキングシティに関心を持っていました。アンダルシアから出てきた彼はその主題と論文を持って当時カタルーニャに帰郷したばかりのマニュエル・カステルに近付こうとしたんだろうと思います。その間に居たのがイグナシ。フランセスクの類まれな才能に気が付いたイグナシは彼の耳元でこうささやきました。

「これからはサステイナブルシティという名の下に、コンパクトシティのモデル都市としてバルセロナモデルが輸出される事になるだろう。一見正しく見えるこのモデルにも弱点がある。何故なら伝統的にコンパクトな集住を可能にしてきた地中海都市においてさえもアーバニゼーションの力に抵抗する事は出来ないからだ。現にバルセロナはこの10年間でコンパクトどころか、反対にどんどんと拡散が進んでいる。バルセロナがコンパクトに見えるのはエンサンチェの活気が与える幻想に過ぎない。もし将来バルセロナがコンパクトシティという地位を守りたいんだったら、逆にどれだけの都市化が進んだかという定量的なデータと共に批判的な立場からモデルを擁護する必要があるだろう。」

こんな事言ったかどうか知りませんが(多分言ってないかな(笑))、彼の主題はカタルーニャにおけるアーバニゼーションに決まりました。更に、そのような低密度居住が現代文化とどう関係しているかという視点を盛り込み、英語の「表層的な」という意味のBanalと合わせてUrBANALizacionとなったと言うわけです。この時彼の頭にあったのはSharon ZukinのLandscape of Powerだったと思いますね。彼はかなり早くからZukinに注目していたし。

ここには明らかにイグナシの影響が見られます。彼は「経済、社会、風景、この3つの要素は何時も一緒に変化していく」と言っています。逆に言えば、これら3要素を一緒に分析しなければどのような都市現象も正しく理解する事は出来ないと言っているんですね。

フォーディズムが到来した時、その核心にあったのは「労働者が自社の製品を買ってくれる消費者にも成り得る」という視点でした。だからフォードは当時としては法外な賃金を労働者に払ったわけです。こうして先ずは工場の周りに労働者の住居が出来ました。そこで豊かになった人達は自分達が生産した車を購入し、郊外へと引っ越していきました。こうして社会と共に経済、風景も変わっていったのです。

このような基本的な考えをベースにSharon Zukinの理論などを巧みに利用しながらカタルーニャにおける低密度地域の再生産のプロセスを解き明かしたのがUrBANALizacionです。3年前に行われた彼の博士論文公開審査にイグナシは来る事が出来ませんでしたが、彼のお兄さんであるマニュエル・デ・ソラ・モラレス(Manuel de Sola Morales)がジュリーとして出席し、最大の賛辞を送っていた事が、昨日の事のように思い出されます。
| バルセロナ歴史 | 15:19 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ダリ宝石美術館(Teatro-Museo Dalí: Dali Jewels)
今日は以前のエティエンヌ・カベ(Etienne Cabet)とモントゥリオル(Narcis Monturiol)のエントリで少しだけ触れたダリ宝石美術館の紹介です。

ダリが生まれたカタルーニャ北部にあるフィゲーラス( Figueras)という小さな村はダリ美術館(Dali Teatre and Museum)がある事によって、バルセロナから2時間30分という距離にも関らず、毎年多くの観光客を惹き付けています。展示内容は言うまでも無くぶっ飛んでいるのですが、建物の外観も常軌を逸しています。
こんな、ダリの作品が多く集められているメイン美術館の脇にひっそりとあるのがダリ宝石美術館です。

ダリのデザインした宝石は大変に人気が高く、これまで世界中を転々としてきました。一時は日本人資産家のコレクションとして鎌倉の美術館に展示されていた時期もあったようです。その後、1999年にガラ・ダリ財団の所有となり2001年にダリの生まれ故郷であるフィゲラスで公開という道程だったようです。

さて40点程の作品はどれも正に光り輝くばかりの質を持っています。

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これはルビーと真珠をふんだんに使った唇。その名もRuby Lips( 1949)。

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続いてダリの好んだ主題である目をあしらったThe Eye of Time(1949)。薄いブルーの時計に小振りの赤いルビーが大変に利いています。

そういえば、ダリが描いた一つ目の覆面男の絵がありますが、これは明らかに原作ナウシカに登場するドルク神聖皇帝の元ネタですね。

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そしてこれが絶対に見逃せない大傑作、心臓の鼓動。
これはすごい。見た時に「え、こんなのあり」と思ってしまいました。心臓をかたどった金と内部を表す赤ルビーというシンプルな組み合わせ。しかしこの赤ルビーが機械仕掛けによって動く仕組みになっているんですね。あたかも心臓が鼓動を打っているように。



人を驚かす事が芸術だとは思わないけれど、ある意味それを追求してきたダリの作品の中では最大級に評価してよい作品なのではないかと個人的には思います。
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ドメネク・イ・モンタネール( Lluis Domenech i Montaner)とカタルーニャ音楽堂
ちょっと前になりますが2月9日はドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domènech i Montaner)設計のカタルーニャ音楽堂(Palau de la Música Catalana)完成100年周年記念日でした。一般公開された8日は無料という事(普段は15ユーロ)と土曜日だったという事も手伝って、多くの人達が長蛇の列を作って公開を楽しみに待っていました。

このカタルーニャ音楽堂はモデルニズモ三銃士の一人、ドメネク・イ・モンタネールの傑作です。小さいながらもそこに凝縮されている空間のパワーにはすさまじいものがあり、空間に喜びが満ち溢れています。

ここに来ると、建築は表象文化であり「悲しみよりは喜びを表すのに適した芸術形式である」という言葉が思い出されます。逆かも知れない。忙しさの中で「建築とは何か」を考える喜びを忘れていく毎日の中において、僕はそれらを確認する為にここに来ているのかもしれません。

この「喜び」こそカタルーニャで華開いたモデルニスモ(Modernismo)を特徴付ける一つのキーワードだと思います。同じ頃ヨーロッパ各地で展開されたアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)との違いにおいては様々な事が言われていますが、(例えば、カタルーニャにおけるモデルニスモの始まりはガウディ( Antoni Gaudi)によるカサ・ビセンス(Casa Vicens)だと見なされていますが着工時期は1883年で完成したのが1888年。一方アール・ヌーヴォーの先駆けと見なされているブリュッセルのタッセル邸(Hôtel Tassel)の建設年代は1892年から1893年とカタルーニャの方が10年も早い事が明らかにされています。)アール・ヌーヴォーに見られるような世紀末の廃頽さがモデルニスモには一切見られ無いと言う事こそ注目すべきであり、正にその事がモデルニズモ運動の表象媒体として建築を選ばせ、今でも注目に値する芸術として成功している理由だと思うんですね。

それもそのはずで、その当時カタルーニャは「国創り」に励む、飛ぶ鳥をも落とす勢いがあった時期だったからです。歴史的中心地区を囲っていた城壁が1854年に破壊され、1859年にはセルダの都市拡張計画が承認されています。都市は今や発展と拡張への道のりへと乗り出すばかりの準備が整った所でした。さらにヨーロッパへの同化を計ったバルセロナは1888年に万国博覧会を開催、成功させます。

この頃には既に1898年に最後の植民地であるキューバを失ったマドリッドに対して「さようならスペイン」と言えるほど実力を蓄えていました。

そんな状況下において華開いたのがモデルニスモであり、19世紀後半に蓄積された資本の投資先として建築が選ばれた訳です。こう考えると現在におけるモデルニズモの評価の高さと人気の高さは、当時のポジティブな経済状況や社会的空気など建築の持つ魅力が最も発揮される土壌が整っていたが故に可能だったという視点も可能なのではと思ってしまいます。

槙さんが言われているように、「建築というのはその時代に生きた人々が潜在下で感じていながらもナカナカ形に出来なかったものを一撃の下に表す行為だ」というのはモデルニスモにこそ当てはまるのでは?と思ってしまうほど、その当時の空気を今の時代に伝えていると思います。
| バルセロナ歴史 | 22:32 | comments(0) | trackbacks(2) | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルセロナ守護聖人の日: サンタ・エウラリア (Santa Eularia)
2月12日はバルセロナの守護聖人の日という事でバルセロナ市議会の建物が一般公開されました。現在市長が仕事をしているこの建物は14世紀に建てられたものを改修して使っています。

このバルセロナ市議会というのは結構な歴史があって、カタルーニャが世界に誇るべきバルセロナ市会である「百人議会 ( Consell de Cent)」が開かれた会議場があった場所に位置しています。逆か。「百人議会」が開かれていた所で現在のバルセロナ市議会が開かれていると言った方がよいですね。

「百人会議」とは何か?という事を語るにはカタルーニャがイタリアやギリシャといった地中海全域を支配した大帝国だった時代、征服王ジャウマ1世 ( El rey Jaume I)の時代まで遡らなければなりません。ジャウマ1世はマヨルカ島をイスラム教徒から奪還したり(1229年)、バレンシア征服(1238年)といった軍事的活躍ばかりが目立ちますが、彼の功績はそれだけに留まらず、「都市の時代の到来」に対処する為に制定した各種制度も注目に値します。

ジャウマ王が生きた「都市の時代の始まり」とは、人口が都市に集中し、それに伴う商業の発達によって職人や商人が力を付けて来た時代でした。この頃にはもはや、王や貴族、僧侶が農民を支配するというモデルは崩れつつあり、王と市民の間には新たなる関係が築かれ始めていたんですね。

何故か?何故なら王が戦争をするためには莫大な金が必要であり、商人の力を頼らなければならなかったからです。逆に商人にとっては王は戦争で、商売をする土地を勝ち取ってきてくれるというメリットがありました。

こんな状況下で都市に勃興してきた新たなる問題、水の調達や海上での商業問題を解決する為に創設されたのが百人議会でした。1265年の事です。構成メンバーは軍人を除く全ての階層からの代表者達で100人から成っていました。ちなみにこの百人会議は最も初期の都市の建物規正法を定めたり国勢調査を行ったりもしています。

同じ時期にジャウマ王が創設したのが世界最古の身分制議会の一つ「カタルーニャ議会( Les Corts Catalanes)」です。この議会(コルテス)には貴族や僧侶に加えて、商人や職人の代表といった都市代表も参加していました。この制度は封建制度から民主主義への一歩を築いた制度でした。

スペインにおけるコルテス(議会)はよく知られているイギリスよりも1世紀早く12世紀に始められました。スペインの各地でばらばらに始められたコルテスでしたが、カタルーニャとバレンシアでは都市経済の強さを反映して都市代表の発言権が強かったという特徴があったんですね。

今では中世に起源を持つ世界に誇るべき2つの制度を核とした建物がカタルーニャ議会、バルセロナ市議会場として一つの広場を挟んで対峙しています。



さて、これが現在の「百人議会の間( Salon de Ciento)」です。ナカナカ荘厳な雰囲気。

この「百人議会の間」は1369年にPere Llobetによって建てられました。最初の議会は1373年8月17日に開かれています。







上座に位置するのはジャウマ王が座っていたと思われる椅子とその上に刻まれた彫刻。真ん中にバルセロナ市のシンボルを戴いた重厚な表現になっています。



バルセロナの守護神サン・ジョルディもいます。

ライトは竜のデザインにカタルーニャのシンボルである4本線が入った盾が付いています。石造に鉄ってデザイン的にナカナカ合いますよね。

| バルセロナ歴史 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(2) | このエントリーをはてなブックマークに追加