地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
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それでも恋するバルセロナ:ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その2:都市のイメージ
前回のエントリ、ヴィッキー・クリスティーナ・バルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)その1:何故我々は真の愛に辿り着けないか?/何故人は人を愛する事が出来ないのか?の続きです。
前回はこの映画の主題を論じた訳なんですが、今回は「この映画にとってのバルセロナの意味」、「バルセロナにとってのこの映画の意味」について考えてみたいと思います。

僕が面白いなーと思ったのは以下の2点。1点目は映画の題名です。2人の女性主人公の名前と並列に「バルセロナ」が使われています。内容から言って、ビッキーとクリスティーナの次に重要なのは明らかに彼女達と三角関係になるアントニオであり、その後、四角関係になるペネロペ扮するマリア・エレーナのはず。それらを押し退けて「バルセロナ」が躍り出ている事にこそ注目すべきはずです。つまりココではビッキー、クリスティーナというパーソナリティと同格に「バルセロナ」という「都市」が扱われている。どのように?「地中海都市バルセロナ=ブランド」と言う人格を与えられた都市としてと言えると思います。

コレは結構面白くて、バルセロナという都市はしばしば一個の個人として扱われる事が多い都市なんですね。コレは世界的に見ても極めて稀です。例えば1999年、国立英国建築家協会(RIBA)はその年のゴールドメダルを、始めて個人以外の「バルセロナという都市」に授与しました。そんな事は1960年以来、ずーっと続いてきた長い歴史の中においても唯一の例外です。

さて、都市間競争時代における都市のイメージ創り=ブランド化に関しては当ブログでは散々論じてきた所なのですが、この映画では面白い程そのブランド創りの過程を見る事が出来ます。カサ・ミラ(Casa Mila)などのガウディ(Gaudi)関連、ピカソ(Picasso)やミロ(Miro)そして個人ギャラリーや展覧会と言ったアート関連、地中海都市=中世都市というイメージを喚起する旧市街石畳の細い路地などが「これでもか」というほど強調されています。

こういう都市のブランド化は、無理矢理何でもかんでもブランドにしようとする事から、何処かに必ず綻びが現れます。それを探すのがちょっとした楽しみだったりする。



例えば上の写真はバルセロナ旧市街ゴシック地区(Barri Gotic)に位置するカタルーニャ州政府(Generalitat de Catalunya)の2つの建物を結ぶ渡り廊下(El puente en el Palau de la Generalitat)で、観光客が必ずと言って良い程パシャパシャと写真を撮る、云わば中世のシンボルのような存在。地球の歩き方にはこんな風に紹介されています:

「ふたつの館を結ぶ渡り廊下の優雅な彫刻を眺めていると、ふと時間を忘れ、中世へと導かれる思いがする。」p62、地球の歩き方、バルセロナ05-06

だけど、この橋って中世に作られたんじゃなくて、実は1929年のバルセロナ世界博の為にココに付け加えられた紛れも無いフェイクなんですね。ちなみに設計者はイグナシ・デ・ソラ・モラレス(Ignasi de Sola Morales)のおじいさんにあたる、Joan Rubio i Bellverで1928年の事です。20世紀に付け加えられた装飾を見て、うっとりと中世へ導かれる人達って一体・・・。

同じ様な事で、映画の中でちょっと気になったのは、アントニオの設定です。彼はアーティストでバルセロナで個展とかも開いていて、話の流れから明らかにカタランアーティストかと思っていたら、彼の実家って実はオビエド(Oviedo)。アストゥリアス(Asturias)出身の芸術家です。カタランじゃないじゃん!!!

ダメ押しはクリスティーナの役柄設定。彼女はマスター論文をカタラン人のアイデンティティをテーマに書いていて、今回それを調べる為に1ヶ月バルセロナに滞在しているという設定です。それだけで、「なんだそりゃ!!」とか、思わず噴出してしまいそうな設定なのですが、そんな事が1ヶ月そこらの滞在で分かるなら苦労しない(笑)とひそかに思ってしまった。でもそこは問題じゃなくて、そんな事がまかり通ってしまうほどに、既にバルセロナやカタランがブランド化しているという事だと思うんですね。

今更言うまでも無い事ですが、映画は「想像の共同体」を創り出す為の強力な道具です(興味のある人はコチラ:想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson, Imagined Communities, 1983))。つまり映画というメディアは常にプロパガンダやイメージコントロールを含んでいるという事なんですね。それが分かっているからバルセロナのような、都市のイメージコントロールに大変敏感な都市は映画をどうにかして見方に付けようと必死なわけです。この辺りの事は以前のエントリ、スカーレット・ヨハンソン in バルセロナ with ウディ アレン(地中海ブログ)で書いた通りです。当時バルセロナ市はウディ・アレン監督(Woody Allen)にこの映画を撮ってもらう為に交通規制や建物開放など全面協力を申し出て、更に映画制作費の10%にあたる150万ユーロ(約2億円)を融資したとか。そこまでしても、それ以上に計り知れない影響がある事が分かっているからこそ、喜んで先行投資したんですね。

もう一点気になったのは、バルセロナという都市が醸し出しているもう一つのイメージ、バルセロナ=地中海都市=ビーチ=開放的、みたいな。しかも大抵の場合、その開放的にはセクシー系のイメージが纏わり付いています。例えば、以前紹介したまいっちんぐ・マチコ先生のオープニングに出てくるフラメンコ姿のマチコ先生とか。



今回の映画では、人生の岐路に立っている女性が一夏の恋をするのに夏の開放的な都市の雰囲気が手伝ったとでも言わんばかりの演出がされていました。映画中でヴィッキーがオビエドでアントニオとのゆきずりの一晩を過ごした後、彼女の婚約者がバルセロナを訪れてベットで寛いでいるシーンがあるのですが、婚約者はヴィキーにこう言います:
「今日の君、とっても良かったよ。まるで別人だ。この街の雰囲気がそうさせるのかな?」

これは前回論じたように、理性の塊だったヴィッキーがアントニオにその理性を乱され、少し感情側に針が触れた事による結果、彼女がベットで情熱的になったと考えられると思います。しかし注目すべきは何も知らない婚約者がその理由に「バルセロナという街の雰囲気が彼女にそうさせた」と言わせている所だと思うんですね。そしてそれがヨーロッパで一般に流通しているこの街のイメージです。

バルセロナ在住者としてはそれが真実かどうか?という所は大変微妙なのですが、外から見たバルセロナがそのように見られている事は明らかだと思います。ヨーロッパの大学にはエラスモス(Erasmos)という交換留学制度があって、沢山の学生が毎年バルセロナに留学しに来るのですが、彼らの求めているイメージは正に「終わり無きパーティー生活」。この間、バルセロナ大学(Universidad de Barcelona)に行ったらこんなポスターが貼ってありました。

「エラスモス学生歓迎フィエスタ:ダブリン神学校看護学科との国際コラボレーションパーティー。夜12時から朝7時まで」。

こういう事に関してはものすごくがんばるカタラン人達。仕事はさほど熱心じゃないのに、土曜日にどのレストランに行って、その後何処のバーに行くか、という計画に対しては異常な執念を燃やして火曜日辺りから予約や人集めの為に電話を掛けまくるカタラン人。誰とは言わないけど、僕の席の前のGちゃん、金曜、土曜、日曜とフィエスタに行って、風引いたとか言いながら、実は二日酔いだみたいな事、フェイスブック(Facebook)に書いちゃダメですよ、ばれるって、みんな見てるんだから。

望む、望まずに関わらず、このような都市のイメージが出来上がっている事は確かです。そしてそれがこの都市を他の都市と差別化している。グローバリゼーションが進み、どんどんジェネリックシティが出来てくる中、今、バルセロナが注目されている理由の一つは、このイメージ操作による所が大きいと思います。そんな中、今回のような映画が出てきた事は正に必然だったといえるかもしれませんね。
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