地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
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ウィーン旅行その8:グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)の「ベートーベン・フリーズ (Beethoven Frieze)」に見る絵画と音楽の関係
前回のエントリで書いたように、クリムトの「接吻」にあまりにも衝撃を受けたので、ウィーンで見る事が出来るクリムトの作品はとにかく全て回ろうと決意。で、早速訪れたのがウィーン分離派会館(セセッシオン(Secession))。



ココの地下にクリムト(Gustav Klimt)の傑作の一つに数えられている大型作品「ベートーベン・フリーズ (Beethoven Frieze)」が保存されているんですね。フリーズというのは早い話が壁のかなり上の方、天井に近い部分に部屋をぐるりと取り囲むように設置された横長の壁画の事です。



有名な所ではパルテノン神殿(Parthenon)に設置されているフリーズなどがあります。

クリムトはココにベートーベン(Ludwig van Beethoven)が手掛けた最後の交響曲、第九番(Symphony No.9)を絵画化した作品を残しました。つまり音楽を聴いてそれを視覚化するという絵画と音楽の対話に挑戦したわけです。

全く別の話になりますが、僕がまだ高校生だった頃、水戸芸術館の企画で、坂本龍一がピアノを弾いて、それをメディア・アーティストである岩井俊雄が映像にするという試みがありました。音楽が映像を奏で、映像が音楽を奏でるという、芸術の垣根を取り払った新しい試みに当時の僕は胸を躍らせていたのをよく覚えています。又、数年前の某テレビ局の企画で日本人の女性音楽家がマウリッツハウス美術館(Mauritshuis)にあるフェルメール(Johannes Vermeer)の「真珠の耳飾の少女(Girl with a Pearl Earring)」を見て、曲を書き始めるという音楽→絵画とは逆パターンの絵画→音楽も見た事があります。その時彼女が言っていた言葉が大変印象的で「この絵を見ていると音符が降ってくるようだ」と言っていました。

さて、クリムトはベートーベン・フリーズにおいて3つの場面を描いています。第一場面は「幸福への憧れ・弱き人間の苦悩・武装した強者に対する弱者の哀願」、第二場面は「敵対する勢力」、そして第三場面は「ポエジーに慰めを見出す憧れ(詩)・歓喜(天使たちの歓喜のコーラス)・接吻」がそれです。



それぞれの場面の詳細にはココでは立ち入らない事にします。(ネットで探したら結構詳しく書かれたページがあったので興味のある人はコチラをご覧ください)それよりも僕が大変興味を惹かれたのは、この長い壁画の中に視覚化されたリズム感(構成)なんですね。僕はよく建築の空間を読み解く際に「物語」という言葉を使いますが、その言葉で僕が掴み取りたいのはその建築に流れる一連の空間の強弱であり、空間の「起承転結」な訳です。そのような起承転結は様々な芸術に見出す事が出来ると思うのですが、この「ベートーベン・フリーズ」には、それが大変明確に読み取れます。

ここで注意しなければならないのは、空間のリズムを表す意味で用いている「物語」と絵画の主題としての「物語」とは別物であると言う事です。と言う訳で便宜的に空間のリズムを表す為に用いる「物語」には「物語(リズム)」と表す事にします。



物語(リズム)は部屋を入った瞬間から始まります。先ず、入り口正面の壁にゴリラを中心とした第二場面が強烈な印象で描かれているのが見えます。この場面が「ベートーベン・フリーズ」における一連の物語(リズム)のクライマックスだと思うのですが、それを先ずは遠くから「どばっ」と見せておく。ココでは「遠くから」というのがミソです。

この一連のフリーズは入り口入って左手の壁から始まるのですが、鑑賞者がそれを見る為には体を壁方向に向けなければならない。つまり敢えてココで鑑賞者を左に旋回させるんですね。そうする事によって壁と体が向かい合い、クライマックスであるゴリラを鑑賞者の目に入れない様にしています。このようにして物語(リズム)が始まっていきます。



先ずは最初の場面。白の下地に女の人が連なって飛んでいます。



しかもかなりの余白を残してほとんど線のように連なっています。とても静かな始まり方ですね。



流れる様に始まったその物語(リズム)の流れを受け止めて、次にその流れを受け渡す役割を担っているのがこの場面。





この場面の前後に「女の人が連なる場面」を連続させる事によって、流れを完璧に留めるのでは無く、受け止めつつも次へ渡すという印象を強くしている。つまり連続感を出している訳ですね。



そしてクライマックス。僕がココでクライマックスと言っているのは「物語」としてのクライマックスではなくて、あくまでも一連の構成(リズム)としてのクライマックスの事です。ゴリラを中心として大変官能的な女性達、そしてこの世の獣達が禍々しい表現で描かれています。

ここでのミソは、壁に沿って(物語りに沿って)歩いてくる事によって、かなり真近でクライマックスと対面する事です。入った瞬間に目にしたのは、かなり遠くからでした。その時の印象と近寄って見る印象とは、まるで違う絵画かのように思われます。そして先ほどまでの白の余白をベースとした構成と対照を成すかのように、ここでは画面一杯に様々な色を用いた精密画が展開されています。



質・量共に迫力満点の絵に満腹になった後は、その余韻を楽しむかのように白地ベースの女の人の連なりが配置されています。そしてそれが金色の楽器を弾く女性で少し流れがせき止められたかな?と思った次の瞬間:



空白。何も無い空白の空間が始まります。
この空白が来た後に物語(リズム)の余韻としての「歓喜の部分」が来るように構成されているんですね。



純粋に物語として見た場合、この場面はゴリラ(獣)から世界が救われた後の幸せが来るクライマックスという位置付けになっていますが、画面構成という物語(リズム)で見た場合にはこの場面は余韻になっています。



この一連のリズムの中で、最後の場面の前に配置された余白がかなり効いている様に思われます。かなり重たいゴリラの場面から女体の連なり場面に移行しながら少し頭を休めます。その流れがハーブを弾く女性によってせき止められたかな?と思ったら突然余白。この余白で「あれっ?」とか思わせつつ、次の瞬間にハッピーエンドを持ってくるという構成。これは巧い。

物語としてはハッピーエンドで完結させつつ、構成としてはあまり重たくならない程度の余韻を作り出している。普通に単体で見たらクライマックスになってもおかしくない程のボリュームですが、全体構成で見たらゴリラの超ボリュームに対して余韻として丁度良いボリュームを保っていますね。
| 旅行記:美術 | 21:59 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
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