地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
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I.M.Pei (アイ・エム・ペイ)について
日本から持ってきたI.M.Pei −次世代におくるメッセージ (I.M.Pei- Words for the Future)を読みました。今の若い人達の人気路線(キレイ、軽い系)とは全く方向が異なるし、最近はあまり作品も発表していないので学生諸君には馴染みが無いかもしれないけど、I.M.ペイは個人的に大好きな建築家の一人です。何故か?何故なら彼の建築には空間があり感動があるからなんですね。僕はやはり建築とは、その空間が醸し出す雰囲気によって感動出来るモノであるべきだと思います。幾ら表層がキレイに創ってあっても、幾らプログラム操作が面白くても、その空間に感動出来なければ建築じゃ無いとすら思っています。

写真には写らない何かしらの質があるからこそ、人は時間とお金をかけて建築を見に行く訳ですよね。そうじゃなかったら写真で良い訳だし。I.M.ペイの建築というのはその建築空間に心底感動出来る、今となっては数少ない建築だと思います。

思えば2年前の冬にベルリン(Berlin)へ行ったのも、その大きな理由はペイによるドイツ歴史博物館(Extension of the German Historical Museum, Berlin, 2002)を見る為でした。



建築雑誌にはあまり取り上げられ無かったけど、一目写真を見た時から忘れられなかった建築の一つだったんですね。



2年前、ベルリンで現物を見た直後に書いたエントリ、Berlin その1:I.M. Pei について、にその魅力の描写があるので引用します。

・・・マッシブな大理石の塊である本体にガラスの螺旋階段がくっ付いているのですがこれが大変魅力的で異様な力を放っているように見えたからです。ペイの建築はワシントンD.C.に行った時にナショナルギャラリーを見ましたが今回の地になっているのはそれと同じくマッシブな大理石の塊。これが取り合えずは強烈に「力」を放っています。今回の美術館の特徴はコレに対比するかのようにくっ付いているガラスの螺旋階段。コレがやりたかったんでしょうね。で、この一つのアイデアを際立たせる為に全てがそこに収束するように設計されている。

それにしてもこの螺旋階段はホントに不思議な形をしています。円錐に螺旋階段をくっ付けただけなのですが三層構造の最下部が裾広がりになっている。滑らかに上層へと続く曲線とそれに対比する垂直な直線。黒いスチールとノペっとしたガラスの材質がとてもマッチしている。ガラスの上下部を黒のスチールで縁取りしていてその帯だけが上まで続いているデザインによって軽やかさがより強調されている。何よりこの軽やかな螺旋階段と重たい大理石の対比が鮮やか。


で、その後に続く文で僕はこんな風に問うています:

そもそも何故彼はこんな形を良いと思ってしまえるのか。普通こんな形、綺麗だとは思いませんよね。シザもそうなのですが、彼らの建築の魅力はダサイ形とキレイな形の不思議な均衡にあると思う。ちょっと間違えるとダサイ形になる一歩手前にとどまる事によって異様な魅力を獲得しているというような。こういうのって最近流行の一筆書きのミニマルな建築をデザインするのとは次元の違う造詣感覚が必要だと思うんですね。やはり彼は他の人とはちょっと違う造詣感覚を持ち、形に対する感覚がかなり鋭いのかも知れない。

この最後部に出てくる「形に対する感覚」=「センス」ってのが結構重要で、こればっかりはどんなに優秀な先生でも教えられないと思うんですね。例えばディテールだとか納め方なんかは比較的簡単に教授する事が出来ると思います。しかし、ある特定の空間にどんなディテールが合っていて、どんな組み合わせにするのか?などという、何がカッコ良くって何がカッコ悪いか、つまり、何を良いと思い何に対して心が触れるのか?という問題は長い時間を掛けて自分の中で積み上げていくしか無いわけです。

ここに至るには多分、2つの重要なステップがあります。一つは建築や芸術界におけるお約束的な美の基準を学ぶ事。多分世の中には、ある一定以上のセンスを持った人の大半が共感するような「キレイな形や線、もしくは法則」というようなモノが存在すると思います。そしてそれは人間の深い部分に属するものだと思うんですね。だからこそ、我々は遠い昔のラファエロ(Raffaello Sanzio)の絵を見た時に「構図が巧いな」とか共感する部分が出て来るんだと思うんですよね。例えばラファエロの構図と色使いについては以前のエントリ, ミラノ旅行その6:ラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio):アテネの学童下書き(La Scuola di Atene- cartone preparatorio)でこう書きました:


羊を連れた聖家族(Sacra famiglia con l'agnello)。



先ずパッと見た瞬間に「構図が生み出すリズムが良いな」と言う事に気が付きますね。左手に居る赤ちゃんから「物語」が始まるわけだけれど、その赤ちゃんが一番低い所に位置している。そしてお母さん、お爺さんと順に立ち上がっていく構図。そのリズム感は各々の頭の位置を見るとよりはっきりします。円を描きながら上昇していますね。そして色使いも構図を巧く補完している。赤ちゃんが白基調なのに対して、中間のお母さんの左半分が青で右半分が赤。そこからお爺さんの黄色にバトンが渡されている。更にお母さんの足元にちょっとしたアクセントとして赤が置かれている。

このようなリズム感というのは建築を含めたデザイン分野では基本中の基本で、今でも良いデザインにおいてはそれらを見出す事が出来ます。こういう事を古典に発見する時、感覚という奥底においては「人間って変わらないんだなー」と言う事を感じますね。いや、変わって行こうとする力、変わらないとする力、その2つの力が鬩ぎ合っているのが人間という存在か。


こういうリズムみたいなのって、時代によって変わるというよりも、むしろある程度は普遍のような気がします。ちなみに以前ピカソについて書いたエントリ、国際博物館の日(International Museum Day)とピカソ美術館(Museo Pisacco)その1:ピカソとバルセロナの都市戦略にこんな事を書きました;

後年ピカソは「音楽家に神童はいるが、画家にはありえない」と語っています。つまり幾ら才能があってもアカデミックな修練、つまり絵画の世界に存在する「お約束」を身に付けない事には画家にはなれないと、こう言っている訳です。そして彼曰く、「自分はそれを克服するのが非常に早かったと」。

そしてその第一ステップを基盤とし、その上に個人個人の経験として蓄えられ形成されていく「感覚」。つまりある一定のセンスを持った人が、それを基準にして自己の研磨によって獲得していく世界観。この2つのステップによって建築家(芸術家)というのは独自の世界観を獲得していくのではないのかな?と思うわけです。

普遍的な美の基準の上に打ち立てられた個人的基準だからこそ、多くの人に共感されると同時に、それぞれ少しずつ違ったモノになる。それを我々は個性と呼び、だからこそ建築や芸術というのは多様なんですね。

さて、ペイはこのインタビュー集においてルーブル美術館(Louvre Museum)を設計した当時の事を回想し、僕にとって大変興味深い事を述べています。

「・・・フランス社会全体に、ルーブルは自分たちのもの、という意識があります。ルーブルは彼らに属し、彼らの宮殿であり、ルイ14世の宮殿ではない。コレクションは国民のものであり、ナポレオンのものではない。・・・」(I.M.Pei- Words for the Future, p37, 2008)

フランスのお宝にフランス人では無い東洋系米国人のペイが前衛的な介入をするに当たって、そこに立ちはだかる困難は容易に想像が付きます。コレは確かに困難だったのかもしれませんが、建築とは本来このような市民意識に支えられる所に存在すると思うんですね。そしてそのような彼らの意識を見事に可視化したモノだったからこそ、ルーブルはフランス市民に受け入れられたのではないのでしょうか?

やはりペイはこのような「市民が潜在下に意識していながらもナカナカ形に出来なかったモノを一撃の下に表す事」に大変長けた建築家だと思いますね。
| 建築 | 22:32 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
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