地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
<< ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Eurovision Song Contest)に見るヨーロッパの多様性と政治状況 | TOP | 国際博物館の日(International Museum Day)とピカソ美術館(Museo Pisacco)その2: >>
国際博物館の日(International Museum Day)とピカソ美術館(Museo Pisacco)その1:ピカソとバルセロナの都市戦略
ちょっと遅れましたが先週の日曜日(5月18日)は国際博物館の日(International Museum Day)という事でバルセロナのほとんどの美術館が土曜日の夜から日曜日にかけて入場無料でした。La Nit dels Museus(美術館の夜)と題されたその期間中、市内の各美術館・博物館ではコンサートやパフォーマンスなどが執り行われ深夜1時まで大いに盛り上がっていました。

僕もここぞとばかりに土曜日の夜はピカソ美術館(Museo Picasso)に行ってきました。バルセロナにあるピカソ美術館の創設はパリのそれよりも22年早く1963年。ピカソの生涯の親友でありパーソナル・セクレタリーを勤めたサバルテス(Jamie Sabartés)のコレクション574点を基に創設されたんですね。その後1968年にサバルテスが亡くなると、ピカソは親友への哀悼の意から「ラス・メニーナス(Las Meninas)」の連作58点をバルセロナ市へ寄贈しています。又1970年には母親の元に長い事預けられていて、彼女の死後は妹ローラの家に預けられていた初期の作品1700点がやはりピカソの意向で美術館に寄贈されています。

このような歴史的事実を見返してみた時に僕が思う事は2つ。

先ず一点目はピカソのバルセロナへの思い入れについてです。サバルテスは当初彼の所蔵する絵画を基に世界初となるピカソ美術館をピカソ生誕の地であるマラガ(Malaga)に創設する事を考えていたようです。しかしながらピカソ自身が、「美術館を創設するならバルセロナの方が適切だ」とサバルテスに示唆し現在の美術館が実現したそうです。

バルセロナを中心とするカタルーニャ地方はピカソの人格形成に大きな影響を与えた事は確かなようです。ピカソが初めてバルセロナの地を踏んだのは1895年9月の事で、マドリッドへと修行に赴く1897年までの2年間を過ごしています。この時期ピカソは父親の勤務先でもあったラ・リョッジャ美術アカデミー(la Escuela de Bellas Artes de La Lonja)に入学を許可されアカデミズム修行に専念しています。

後年ピカソは「音楽家に神童はいるが、画家にはありえない」と語っています。つまり幾ら才能があってもアカデミックな修練、つまり絵画の世界に存在する「お約束」を身に付けない事には画家にはなれないと、こう言っている訳です。そして彼曰く、「自分はそれを克服するのが非常に早かったと」。

そういう意味で言うと、ピカソ最初のバルセロナ滞在は美術学校を入り口として正に画家の第一歩を踏み出した時期と言えると思います。そしてその2年後にはこのアカデミック修行にきっちりと区切りをつけたと思われる作品を提出しています。それが現在バルセロナピカソ美術館に展示されている、ピカソ初期の重要作品:
初聖体拝領(1896)」と「科学と慈愛(1897)」です。

その後、マドリッド(Madrid)へと修行に出ますが病気の為半年足らずでバルセロナへと帰還します。その時に療養の為に訪れたのが友人マニュエル・パリャレス(Manuel Pallares)の故郷であるオルタ・ダ・サン・ジョアン(Horta de Sant Joan)でした。バルセロナから南西へ約200キロ入った所にあるトルトサ(Tortosa)から更に40キロ程の距離にあるこの小さな村には先ず観光客は行きませんね。カタラン人だって一体何人の人が知っているのか?というくらいマニアックな村です。しかしこの村がピカソの人格形成に果たした役割は決定的だったようです。

後年ピカソは「僕の知っていることはすべて、親友パリャレスの村で習ったものだ」と語っています。

その後この村での療養を終えバルセロナに戻ったのが1899年2月の事でした。この時から1904年までピカソのバルセロナ滞在第二期が始まります。

注目すべき事はピカソが過ごしたこの時期のバルセロナの社会文化状況です。以前にも何度か取り上げましたが、この時期のバルセロナはカタルーニャ・モデルニズモの全盛期でした。ヨーロッパ各国が植民地を拡大していたこの時期に、それとは対照的に最後の植民地を失ったマドリッドに対して「さらばスペイン」と言えるほどの経済文化的な繁栄を謳歌していたのがバルセロナの社会文化状況であり、その雰囲気を総合的に表象していたのがアントニ・ガウディやドメネク・イ・モンタネールなどのモデルニズモ建築郡だったんですね。よく比較される同時期にヨーロッパ中で起こったアールヌーボーとの違いはアールヌーボーが悲観的な表現を採っているのに対して、モデルニズモは概して明るいという事が挙げられます。

そしてそんな自由な雰囲気、何か新しいものを生み出そうという社会的な雰囲気の真っ只中に居たのが少年時代のピカソでした。そんな中から出てきたのが「青の時代」だったんですね。

それにしてもどうして青なんでしょうか?憂鬱という事で青なのかな?描かれた人物像を見ると何となくロマネスク(Romanesque)に登場する人物に似ているかな?とも思います。特にゆったりとした衣服とか裸足の所とか。有り得ない事では無いんですね。何故なら丁度この頃、ドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domènech i Montaner)によってロマネスク再評価の礎が置かれ、その後プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch)によって決定的な著書が書かれる時期なのですから。

さて、ピカソとバルセロナ市の関係の面白い点、第二点目は芸術家ピカソを中心に据えたバルセロナの都市戦略です。それはピカソが自身のコレクションの寄贈を申し出た時からバルセロナ市は既に今日に続く観光戦略をも視野に入れていたのでは無いのか?と思わされる節が見られる所が非常に興味深いんですね。美術館の礎ともなったサバルテスのコレクションはともかく、1968年に寄贈された「ラス・メニーナス」の連作はキュビズム時代の作品です。と言う事はこの時点で美術館の方向性をキュビズムに焦点を当てた方向に舵を切る事も出来たと思われるんですね。

しかしそれではキュビズムを膨大に所有するであろうと思われていたパリやゲルニカを擁していたマドリッドと差異化出来ない。そこで考え出したのがキュビズム以前のピカソ、つまり青の時代、バラ色の時代そして少年期の作品を軸にコレクションを収集し「ピカソ以前のピカソ」というコンセプトを打ち出すという戦略。更にピカソ縁の伝説のカフェ、「4匹の猫」を復活させる事で「ピカソをピカソにした街、バルセロナ」という印象をモデルニズモの周りに構築する事が出来る。この辺の戦略性と宣伝性の巧妙さには舌を巻きます。

もう一つはこの美術館が置かれた場所性も注目に値します。旧市街地であるこの辺りは昔から疲弊が酷く、バルセロナではS級に危険な地域として有名だったんですね。多分当時の市当局はこの美術館を通した活性化策の青写真を既に想定していたのではないのか?そう思わせる程の絶好のロケーションに美術館は位置しています。そしてその思惑通り、2008年現在のピカソ美術館周辺はバルセロナでも指折りのお洒落な地域に見事に変貌しました。

国際博物館の日(International Museum Day)とピカソ美術館(Museo Pisacco)その2:ピカソとベラスケスに続く。
| スペイン美術 | 04:48 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
コメント
コメントする