所用の為に、スペイン北部(バスク地方)のビルバオに行ってきました。
「ビルバオ」と聞いて多くの日本人の皆さんが思い浮かべるのは、奇抜な形態で世界的に有名なグッゲンハイム美術館ではないかと思います。建築家フランク・ゲーリーがデザインしたあの独特な形態と、鈍く光るチタニウムに包まれた外観、そんな摩訶不思議な建築が、重工業で廃れた街を蘇らせたというシンデレラストーリー。
ビルバオの都市再生については(バルセロナの都市再生の事例と共に)、当ブログでは何度も扱ってきたので再度ここで詳しく取り上げることはしません(地中海ブログ:何故バルセロナオリンピックは成功したのか?:まとめ)。ただ一点だけ強調しておくと、ビルバオはグッゲンハイム美術館だけで蘇ったシンデレラ都市ではありません。そうではなく、バスク州政府やビルバオ市役所などが何年も練ってきた都市戦略と都市再生計画、それらの上に細心の注意を払いながら乗せられたもの、それがゲーリーによるグッゲンハイム美術館であり、ビルバオ都市再生の骨子でもあるんですね。
極端な話、ゲーリーによるグッゲンハイム美術館が無かったとしても、僕はビルバオの都市再生は成功していたと思います。そしてこの点にこそ僕は「都市に対する建築の可能性」を感じてしまう瞬間はありません。 ←どういうことか?
上述したようにビルバオは決してゲーリーのグッゲンハイム美術館だけで再生したシンデレラ都市ではありません。←ここ、本当に大事です!←テストに出ます(笑)。
しかしですね、いまではビルバオに住んでいる誰もがグッゲンハイム美術館のことを知っていて、(ビルバオに実際に行けば直ぐに分かることなのですが)この地では子供からお年寄りまで、誰もがグッゲンハイム美術館のことを嬉しそうに語るんですね。街中で道を尋ねようものなら、「あなた観光客?グッゲンハイム美術館ならあの角を曲がってちょっと行ったところよ、、、」といった感じで、その口調は「この美術館のことを心から誇りに思っている」、そんな感じを受けてしまいます。
いわばグッゲンハイム美術館という建築は、「都市再生の効果を何十倍にも増幅することに成功した」と、そういうことが出来るのでは無いでしょうか?そしてこれこそ建築本来の姿なのでは、、、と思う訳ですよ。何故なら:
「建築とは、その地域に住んでいる人達が心の中で思い描いていながらも、なかなか形に出来なかったもの、それを一撃のもとに表す行為である」(槇文彦)
だからです。
そんなグッゲンハイム美術館なのですが、その都市的コンテクストについては今まで数々の言説が出ているにも関わらず、その内部空間、ひいては展示物との関係性についてはそれほど語られていない状況だと思います。そしてこの美術館を訪れた時に見るべきなのは、「内部空間の連なり」と、「その展示物との類稀なる関係性である」ということを今日は書いてみようと思います。
グッゲンハイム美術館は工業都市ビルバオの旧市街からはこんな風に見えます:
これだけで背筋がゾクゾクしますね。この辺りは旧重工業地帯のど真ん中で、それらの工場が廃れていくと共に、売春婦や麻薬中毒者、貧困層などが多く住み着くエリアとなってしまったそうです。
失業率は50%を超え、誰もが希望を失う、そんな悲しい街となっていったんですね。その時の名残、、、とでもいうのか、この細い路地の両側には車両が立ち並び、少し薄暗い路地を通してグッゲンハイムを見ることが出来るのです。そしてこの路地を抜けると出逢うのがこの風景:
圧巻の風景です。右手に見えるのはコピーと言う名前で呼ばれている巨大猫(笑)。この猫、表面が植栽されていて、季節によっては色とりどりのパンジーなどが植えられ、色鮮やかな猫に生まれ変わるそうです。
そこを通り過ぎて、もう少し近づいてみます:
どーん。先ずは向かって右手方向に大きく傾斜している壁、、、というか「アルミの塊」が非常に印象的です。これがものすごい圧迫感で迫ってきます。そして(雑誌に掲載されている写真ではナカナカ伝わらないと思うのですが)この建築へのアプローチはここから階段で1フロア降りていった所からになっているんですね:
うーん、、、このアプローチは非常に良く考えられてるなー。と言うのも、このアプローチは先程見た巨大猫との関係性から逆算されてデザインされているものだからです。多分、大多数の来館者の方々が先ず訪れるのは先程の巨大猫だと思うのですが、そこから一直線に美術館に向かってアプローチして行ってみます:
先程見た塊(右側の壁)が「これでもか!」と言わんばかりに迫り出してきます。そして下階へと向かう階段が、「左周りに螺旋を描きながら」下降していっているんですね。それはこちら側から見ると良―く分かります:
ほらね。もしもゲーリーが感覚に任せて、まるで「紙を丸めてグチャグチャと形態を決めているだけ」なら、決して出てこない形だと思います。言うまでもないことですが、このようなアプローチ空間における螺旋の構造は、コルビジェが非常に得意としたところでもあります(地中海ブログ:パリ旅行その6:大小2つの螺旋状空間が展開する見事な住宅建築:サヴォワ邸(Villa Savoye, Le Corbusier)その1:全体の空間構成について)。アルド・ヴァン・アイクとかもやってました(地中海ブログ:アルド・ファン・アイク(Aldo Van Eyck)の建築その1:母の家:サヴォア邸に勝るとも劣らない螺旋運動の空間が展開する建築)。
そしてエントランスを潜ったところで出会うのがこの空間:
非常に気持ちの良いエントランス空間の登場〜。壁が飛び出てきたり、反対に引っ込んだりと、非常に不思議な感覚を醸し出しています:
見上げれば色んな形態が複雑に絡み合いながら空を切り取っています。
ここから外へ出て行ってみます。川沿いに芸術作品が並び、観光客と共に地元の人達のお散歩コースになっているようでした。
ルイーズ・ブルジョワの巨大蜘蛛(Maman)もちゃんといました。
ちなみにここから10分程歩いた所にはカラトラバの橋が掛かり、街中にはノーマン・フォスターがデザインした地下鉄の入り口が口を開けています。
街の中心、Moyua駅構内にはノーマン・フォスターが残していったサインが大切に保存されていました。スペインという社会文化の中で、建築家という職業がどの様に扱われているのか、社会的にどの様な地位が与えられているのかが良〜く分かる象徴的な取り組みだと思います。
さて、グッゲンハイム美術館の内部空間に話を戻します。
先程外へ出た所から左手方向に歩いていくと、この美術館最大の展示室へと導かれます。そしてこの展示室にはリチャード・セラの超大作(The matter of time (1994-2005))が「これでもか!」と、所狭しと並べられているんですね。
(注意) グッゲンハイム美術館の内部は、美術作品以外は基本的に写真撮影可能となっています。そして写真撮影不可の美術作品が展示されている入口には「撮影禁止」という表示が掲げられています。しかしですね、リチャード・セラの展示室の入口には撮影不可の表示はありませんでした。また、他の来館者の行動を観察していると、みんなパシャパシャ写真を撮っているし、その姿を見ていた学芸員も注意等はしていなかったので写真撮影可と判断しました。
と言う訳で、いよいよリチャード・セラの作品を体験してみます。良く知られている様に、リチャード・セラは巨大な鉄板を弓形に曲げて、あたかも空間の歪みを作り出しているかの様な、そんな作風で知られています:
こちらは分厚い一枚をグルグルっと巻いて作った空間です。少しづつ中へと入って行ってみます:
入ってみると分かるのですが、この鉄の曲がり方が少し手前へ倒れていたり、あちら側に反れていたりと、一見同じに見える形態でも、それらの間にチョットした変化があるんですね:
そして見上げてみればこの風景:
歩くことによって刻々と変わっていくカーブが空を切り取っています。更に進むと、先程の倒れ掛かってくる壁の角度が変わることから、僕を包み込む空間も激変するんですね:
そしてまた空を見上げてみます:
先程とはちょっと角度が異なっていることにより、これまた空間が激変します。 、、、こんな時、僕が何時も思い出すのは、学生時代に目にした新建築住宅コンペ金賞案に書かれていた次の記述です:
「四角形を多角形の中に挿入する。それをどんどん変化させていく。ある所は部屋になり、ある所は廊下になる。わずかな差であるが、空間は激変する」
(もう15年近く前だから裏覚え。でもこんな感じだったと思う)
これはジャック・ヘルツォークが審査員を務めた年の金賞案だったんだけど、説明文はこれだけで、あとはその四角形の中で多角形が少しづつ変化していく図が100個ぐらい書いてあるだけ。。。 ←キョーレツな印象を僕の心に残してくれました。
、、、と、そんなことを思いながら、今度は隣にある彫刻を見に行ってみます。こちらには何枚もの鉄板が立っています。その隙間から入って行ってみます:
壁がこちら側に押し寄せてきたり、あっち側へ行ったり、、、:
うーん、これはちょっと面白いぞー、、、と思い始めたら最後、気が済むまで体験するのが僕の可愛いところ(笑):
この巨大な空間に散らばるリチャード・セラの彫刻を一つずつ、端から端まで行ったり来たりしてみました:
特に数えてた訳じゃないけど、20往復はしたと思います(笑)。時間にして約6時間、、、 ←ひ、暇だな、オイ(笑)。 ←挙句の果てに、彫刻の前に座っていた警備員が、「あのー、だいぶ熱心に見られてるようですが、専門の方ですか?」とか話し掛けてくる始末(笑)。 ←「ええ、来館者調査のエキスパートですよ。MITの研究員とルーヴル美術館のリサーチ・パートナーやっています」って答えたら、なんか奥から学芸員という人が出て来て、、、と、今日の記事とは関係ないので、この続きは別の機会にでも。
そんなこんなで、6時間くらい歩き回った時のこと、「あ、あれ、この壁の傾き方はちょっと面白いかも、、、」と思ったのがこちら:
そう、この壁の傾き方は、シザの教会の壁の膨らみに似てるかも、、、と一瞬そう思ってしまったんですね。そしてここで僕はあることに気が付きました:
「も、もしかして、リチャード・セラという彫刻家は、こんな風に壁を迫り出したり、押し込めたり、はたまた湾曲させてみたりして、その空間を歩き回る我々がその空間でどう感じるかという実験を行なっているんじゃないのか、、、???」
そーなんです!リチャード・セラがこの広大な空間で実験していること、それは一枚の大きな壁を使って様々なパターンを作り出し、我々がそういう空間に身を置いたらどう感じるか、、、という壮大な空間実験をしているのです!
これは凄い!というか面白い!何故ならこれは非常に建築的な提案でありながらも、単体の建築には真似出来ないことだからです。 ←上に述べたシザの教会の壁や(地中海ブログ:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下空間:真っ白な空間と真っ黒な空間)、エンリック・ミラージェスのお墓で傾いていた壁など(地中海ブログ:イグアラーダ(Igualada)にあるエンリック・ミラージェスの建築:イグアラーダの墓地)、局所的に一つか二つくらいの空間体験を作り出すことは可能かもしれないけど、空間体験の色んな可能性をここまで用意するのはコストの面から言っても非常に難しいかなー、という気がします。
僕がこの壮大な実験のことに気が付いたのは、この展示室に入ってからかなり時間が経った頃のことだったんだけど、何故そんなに時間が掛かってしまったかというと、それは僕の頭の中では「彫刻=一瞬の凍結」いう方程式が先入観としてあったからなんですね。彫刻と建築の違いを僕は以前のエントリでこんな風に書いています:
「‥‥彫刻の素晴らしさ、それは一瞬を凍結する事だと思います。何らかの物語の一コマ、その一コマをあたかもカメラで「パシャ」っと撮ったかのように凍結させる事、それが出来るのが彫刻です。建築家の言葉で言うと、「忘れられないワンシーン」を創り出す事ですね。
では何故、彫刻にこんな事が可能なのか?それはズバリ、彫刻は動かないからです。「そんなの当たり前だろ、ボケ!」という声が聞こえてきそうですが(笑)、これが結構重要だと思うんですよね。彫刻は時間と空間において動きません。だから僕達の方が彫刻の周りを回って作品を鑑賞しなければならないんですね。そしてもっと当たり前且つ重要な事に、彫刻は一度彫られた表情を変えないという特徴があります。だからこそ、彫刻の最大の目標は「動く事」にあると思うんですね。
‥‥中略‥‥
建築家である僕は(一応建築家です(笑))、ココである事に気が付きます。「これって建築、もしくは都市を創造するプロセスとは全く逆じゃん」という事です。どういう事か?
僕達が建築を計画する時、一体何を考えてデザインしていくかというと、空間の中を歩いていく、その中において「忘れられないワンシーン」を創り出していく事を考えると思います。何故か?何故なら建築とは空間の中を歩き回り、その中で空間を体験させる事が可能な表象行為だからです。だから建築や都市には幾つものシーン(場面)を登場させる事が出来ます。そう、幾つものシーンを登場させる事が出来るからこそ、我々は、忘れられない「ワンシーン」を創り出そうと試みる訳なんですね。
‥‥中略‥‥
このように彫刻と建築は、その作品の体験プロセスにおいて全く逆の過程を経ます。彫刻は「ある一瞬」から心の中に前後の物語を紡ぎ出す事を、建築は様々な場面から心に残る一場面を心に刻み付ける事を。しかしながら、それら、彫刻や建築を創り出す人が目指すべき地点は同じなんですね。それは「忘れられないワンシーン」を創り出す事です。」(地中海ブログ:彫刻と建築と:忘れられないワンシーンを巡る2つの表象行為:ベルニーニ(Bernini)の彫刻とローマという都市を見ていて)
しかしですね、このグッゲンハイム美術館で展開されているリチャード・セラの彫刻は、今まで僕が見てきたどんな彫刻とも全く違うものだったと思います(地中海ブログ:世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデル(Camille Claudel)について)。それは、何かしら忘れられないワンシーンを一瞬に凍結したものではなく、その中を歩くことによって我々に空間を体験させる、いわば、建築の様なものだったのです。
彫刻は動きません。だからこそ、いかにそこに動きを創り出すかが彫刻の究極の目的だと僕は思います。その一方、建築は空間を連続させることによって、来館者にその空間を体験させます。つまりは、その空間の中を動く来館者が、いかに「忘れられないワンシーン」を記憶に残すことができるか、それが建築の醍醐味なんですね。
しかしですね、今回見たリチャード・セラの彫刻は、あたかも「建築的に振舞っているかの様」なのです。しかも、建築には到底真似出来ない方法で、来館者に様々な建築的な体験をさせるというおまけ付き。
この様な建築的な彫刻が、ゲーリーのグッゲンハイム美術館の、その最も代表的な彫刻としてここにあることの意味、それを考えるのもまた面白いとは思うんだけど、それはまた、別の話。
動かないが故に、一瞬の中に動きのエッセンスを込めることによって、そこから動きを彷彿させることを信条とする彫刻。空間の中で動くことが出来るが故に、その動きの中から忘れられないワンシーンを永遠に動かないものとして止めることを目的とする建築。
非常に良いものを見させて頂きました! 星、3つですー!!!
追記: バスク地方はグルメの街としても非常に良く知られています。一応事前に調べて「タパスが美味しい」と評判のお店に行ったのですが、これがトンデモなく美味しかった。下記は僕が滞在中に食べたタパスの一例。どれも400円くらいの小皿なんだけど、全てのお皿がコース料理のメインをはれるくらいの質を持っていました。正直、このレベルの料理がこの値段で街の至る所に溢れているというのは、ちょっと驚愕レベルだと思います。
タコ煮。
ホセリート(イベリコ豚の最高級品)、チーズ、フォアグラ。
中はこんな風になっています。
こちらはホセリートの角煮っぽいやつ。
卵、フォアグラ、キノコ、ポテトなんかをフライパンに載せたもの。一体自分が何を食べているのか、正直良く分からなかったけど、今まで食べたことがないくらい美味しかったことだけは確かww
こちらは卵焼き(トルティーリャ)。在スペイン16年だけど、こんなに凝ったトルティーリャはいままで見たことがありません(笑)。