2014.01.03 Friday
世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデル(Camille Claudel)について
先々週は所用でパリに行っていました。
以前少しだけ書いたルーヴル美術館でのプロジェクトミーティングが目的だったんだけど、3日間、朝から晩までずーーっとルーヴルに缶詰状態(苦笑)。管理部門(アドミニストレーション)は美術館とは大通りを挟んだ反対側にあるので美術鑑賞もあまり出来ず‥‥。そんなハードスケジュールの中、ミーティングが始まる前に美術館併設のカフェでとる朝食は最高だった。
元々宮殿だった場所を改装してカフェにしてあるんだけど、目の前にはガラスのピラミッドが聳え立ち、インテリアには非常に抑制されたデザインが施されていて、まさに「至福のひととき」を過ごす事が出来たんですね。
とは言ってもそれ以外ではあまり観光をしている暇も無く、最終日の帰りの飛行機までの3時間余りを使って何処かへ行こうと思い立ち、悩みに悩んだ挙げ句、向かったのがコチラです:
ロダン美術館。
近代彫刻の巨匠、ロダンの彫刻が「これでもか!」と並べられているこの美術館なのですが、僕がこの美術館に来た理由、それはこの美術館の主役であるロダンの彫刻を見る為ではなく、世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデルの作品を見る為なのです。
‥‥僕がヨーロッパ各地を訪れている時に一番楽しみにしていること、それは「予期せぬモノとの遭遇」です。予定調和的では無い出会いほど僕の心をときめかせる瞬間はありません。4年前、唐突に訪れたカミーユ・クローデルの彫刻との出逢いは僕にとって新鮮な驚きでした。
その当時はカミーユ・クローデルの事なんて全く知らなくて、ロダンの彫刻目当てに何気無くロダン美術館内を彷徨い歩いていたんだけど、入り口中央右寄りの一室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのが下の彫刻だったんですね。
作品名は「分別盛り(第二バージョン)(L`age mur(deuxieme version))。真ん中の老人が、背後にいる老婆(悪魔)に囁かれ、若い女性から身を引いていく瞬間が表現されています。主題としては「人生の3段階」などとして、あちらこちらで繰り返し用いられているテーマなんだけど、この彫刻が醸し出している質はちょっと凄い。
先ず見た瞬間に圧倒されるのがそのプロポーションの良さです。左上に展開している悪魔の羽のようなものから始まり、老人の手、女性の手を経て右下のつま先へと、流れるような3角形を形成しているのが見て取れるかと思います。
更に素晴らしいのが、この女性の表情と、「行かないでー!」と言っているかのような手の描写です:
この手と手の間の空間!「女性の手を力強く振りほどく」のではなく、まるで「女性の手からすり抜けていく」、正にその瞬間がスローモーションで伝わってくるかのような空間表現となっています。
そう!まるで中森明菜のデビュー曲「スローモーション」の一節を彷彿とさせるかの様に‥‥:
「出逢いはスローモーション、軽い目眩(めまい)誘う程に‥‥」
そしてココ:
悪魔が老人に何かを囁いています。この悪魔も「無理やり老人を引っ張っている」というよりは寧ろ、「老人を誘惑し、そそのかしている‥‥」、そんな表現になっているんですね。
何よりも悪魔の手がその事をより良く物語っていると思います。ほら、悪魔の手が老人の腕に触れるか触れないか、その一瞬を表現しているのが見て取れるかと思います。
さて、カミーユ・クローデルの彫刻から感じられるもの、それは生々しい程の「人間の内なる感情」では無いでしょうか?
例えば上の彫刻には「行かないでー!」という彼女の思いと、そのことによる「寂しさ」が彫刻全体に充満しているかの様ですらあります。そしてそれらの感情が喜びであれ憎しみであれ、痛々しいほど彫刻全体に溢れている‥‥。コレなんてすごい:
作品名クロト(Clotbo)。クロトというのはローマ神話に出てくる生と死、そして運命を司る3女神の一人なんだけど、頭の上から湧き出ている髪の毛みたいなものに、内臓をえぐり返すような「ドロドロとした恐怖」が充満しています。率直に言ってこの彫刻は「怖い」。陸奥九十九が言う「怖い」と本質は一緒(笑)。
何故カミーユ・クローデルはこのような彫刻を創ったのか?何故彼女の彫刻からは人間の生々しい感情が感じられるのか?
それを説明する為には、少しばかり彼女の経歴を知る必要があるかと思われます。
カミーユ・クローデルは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランス人女性彫刻家であり、20世紀最大の彫刻家として知られるロダンの弟子、助手兼モデルそして愛人だったそうです。彼女がロダンと出会ったのが18歳の時で、ロダンは彼女の天才的な才能とその美貌にコロッとやられ、内縁の妻(ローズ)がありながらも彼女と関係を持ったと言う事らしいんですね。若い時の写真が残されているんだけど、それがコレ:
確かに美人です。そして彼女はロダンの下でメキメキとその頭角を現していくのですが、最初は順風満帆だった彼女の人生にも次第に陰りが見え始めます。彼女はその生まれ持った才能とは裏腹に、世間では全く評価されず、「ロダンのコピーだ!」と言われ続け、私生活ではロダンの子を妊娠するも流産。そして内縁の妻ローズとカミーユの間で揺れていたロダンも最終的にはローズの元へと去って行ってしまいました。
仕事もうまくいかず、私生活も最悪‥‥。挙句の果てに彼女は精神に異常をきたし、30年間の精神病院への強制収容の後、誰にも看取られること無く亡くなったそうです。
天才彫刻家のその悲惨な運命は、後に数々の小説になったり映画になったりして、今では広く人々に知られる所となり、近年においては彼女の作品に再評価の光が指しているようです。
ちなみにZガンダムの主人公、カミーユ・ビダンの名前と設定はこのカミーユ・クローデルに由来しています。もう1つちなみに、森口博子が歌うZのオープニングに出てくる360度フルスクリーンのコクピットは今見てもかなりセンスが良いなー。
さて、ここまで書けばもうお気付きかもしれませんが、実は上の彫刻「分別盛り」の主題は、彼女の人生そのものであり、真ん中の老人がロダン、悪魔がローズ、そして右下の懇願している女性がカミーユ本人という訳なんですね。この「行かないでー!」という表現に彼女が当時感じていた悲痛な思いが詰まっているからこそ、見るものをその内側に引きずり込んでしまうのかもしれません。その反面、幸せの絶頂期にはこんなものも創っていました:
その名も「心からの信頼(L`abandon)」。二人が寄り添い、互いに支え合うその姿は、僕の心を本当に和やかにしてくれます。そしてこの顔:
この作品が創られたのは、カミーユとロダンがラブラブだった頃と言いますから、カミーユは本当に幸せだったのでしょうね。彫刻から愛が溢れているかの様ですらあります。
上の作品(ワルツ(La Valse))からは、二人が楽しげに踊っている、正にその瞬間の雰囲気がありありと漂ってきます。そしてコレもすごい:
「束を背負った若い娘(La jeune fille a la grebe)」。見てください、この口元と目:
こんな事が彫刻に可能なのか!
カミーユ・クローデルの彫刻の魅力、それはその彫刻が全体で醸し出す「内なる人間の感情=痛々しい程の感情」なのだと僕は思います。
ベルニーニの作品を見て以来、彫刻の本質とは「物語の一瞬を捉える事」、そしてその凍結された一コマから、連続する前後の情景を鑑賞者の心の中に浮かび上がらせる事だと思ってきました(詳しくはコチラ:地中海ブログ:ベルニーニ(Bernini)の彫刻その2:ボルゲーゼ美術館(Museo e Galleria Borghese)にあるアポロとダフネ(Apollo e Dafne)の彫刻)。それはロダンの作品にも言える事で、彼なんかは明らかに一瞬の凍結の中に「動きを見出す事」を目指しているような感じを受けます。これなんてドンピシャ:
故にそれらの彫刻は3次元的であり、周りをグルグル回ったり、はたまた上述した様な、前後の時間の中を彷徨ったりする中にこそ、その彫刻の本質が現れるのだと思うんですね。
しかしですね、カミーユの彫刻はこれらとは本質的にちょっと違う様な気がします。敢えて言うならば、2次元に近いんじゃないのかな‥‥?何故なら彼女の作品には(絵画のように)明らかに見るべき視点が存在するからです(例外っぽいのはワルツですね)。更に前者の彫刻が基本的に「モニュメント」になろうとしているのに対して、カミーユのそれは謙虚な姿勢を基本にしている感じすら受けます。
多分これらのポイントが、彼女の彫刻の大きな特徴であり魅力であり、彫刻界の巨匠ロダンにすら開けなかった彼女だけの道なのでは?と僕は思います。
カミーユの実弟であり詩人でもあったポール・クローデル(Paul Claudel)は姉の作品について幾つかの著作を残しているのですが、彼のこの言葉はカミーユ・クローデルの彫刻の的をついているような気がしました:
「分別盛り!この運命の蓄積されたかたち!」
そう、彼女の作品群は彼女の人生そのものなのです。
非常に豊かな彫刻体験でした。
(この記事は以前書いた文章に加筆修正を施したものです。以前の記事には小さな写真を使っていた為に、「もう少し大きめの写真はありませんか?」という問い合わせが非常に多く、いつか書き直そうと思っていた所、丁度良い機会だったので文章にも少し手を加え新たに掲載する運びとなりました。基本的に当ブログでは同じ記事を2度、違うエントリとして公開する事は無いのですが、前回の記事が比較的まとまっていた事、年末に掛けて記事を書いている時間が取れない事などを考慮した結果、この様な形で公開する運びとなりました)
以前少しだけ書いたルーヴル美術館でのプロジェクトミーティングが目的だったんだけど、3日間、朝から晩までずーーっとルーヴルに缶詰状態(苦笑)。管理部門(アドミニストレーション)は美術館とは大通りを挟んだ反対側にあるので美術鑑賞もあまり出来ず‥‥。そんなハードスケジュールの中、ミーティングが始まる前に美術館併設のカフェでとる朝食は最高だった。
元々宮殿だった場所を改装してカフェにしてあるんだけど、目の前にはガラスのピラミッドが聳え立ち、インテリアには非常に抑制されたデザインが施されていて、まさに「至福のひととき」を過ごす事が出来たんですね。
とは言ってもそれ以外ではあまり観光をしている暇も無く、最終日の帰りの飛行機までの3時間余りを使って何処かへ行こうと思い立ち、悩みに悩んだ挙げ句、向かったのがコチラです:
ロダン美術館。
近代彫刻の巨匠、ロダンの彫刻が「これでもか!」と並べられているこの美術館なのですが、僕がこの美術館に来た理由、それはこの美術館の主役であるロダンの彫刻を見る為ではなく、世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデルの作品を見る為なのです。
‥‥僕がヨーロッパ各地を訪れている時に一番楽しみにしていること、それは「予期せぬモノとの遭遇」です。予定調和的では無い出会いほど僕の心をときめかせる瞬間はありません。4年前、唐突に訪れたカミーユ・クローデルの彫刻との出逢いは僕にとって新鮮な驚きでした。
その当時はカミーユ・クローデルの事なんて全く知らなくて、ロダンの彫刻目当てに何気無くロダン美術館内を彷徨い歩いていたんだけど、入り口中央右寄りの一室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのが下の彫刻だったんですね。
作品名は「分別盛り(第二バージョン)(L`age mur(deuxieme version))。真ん中の老人が、背後にいる老婆(悪魔)に囁かれ、若い女性から身を引いていく瞬間が表現されています。主題としては「人生の3段階」などとして、あちらこちらで繰り返し用いられているテーマなんだけど、この彫刻が醸し出している質はちょっと凄い。
先ず見た瞬間に圧倒されるのがそのプロポーションの良さです。左上に展開している悪魔の羽のようなものから始まり、老人の手、女性の手を経て右下のつま先へと、流れるような3角形を形成しているのが見て取れるかと思います。
更に素晴らしいのが、この女性の表情と、「行かないでー!」と言っているかのような手の描写です:
この手と手の間の空間!「女性の手を力強く振りほどく」のではなく、まるで「女性の手からすり抜けていく」、正にその瞬間がスローモーションで伝わってくるかのような空間表現となっています。
そう!まるで中森明菜のデビュー曲「スローモーション」の一節を彷彿とさせるかの様に‥‥:
「出逢いはスローモーション、軽い目眩(めまい)誘う程に‥‥」
そしてココ:
悪魔が老人に何かを囁いています。この悪魔も「無理やり老人を引っ張っている」というよりは寧ろ、「老人を誘惑し、そそのかしている‥‥」、そんな表現になっているんですね。
何よりも悪魔の手がその事をより良く物語っていると思います。ほら、悪魔の手が老人の腕に触れるか触れないか、その一瞬を表現しているのが見て取れるかと思います。
さて、カミーユ・クローデルの彫刻から感じられるもの、それは生々しい程の「人間の内なる感情」では無いでしょうか?
例えば上の彫刻には「行かないでー!」という彼女の思いと、そのことによる「寂しさ」が彫刻全体に充満しているかの様ですらあります。そしてそれらの感情が喜びであれ憎しみであれ、痛々しいほど彫刻全体に溢れている‥‥。コレなんてすごい:
作品名クロト(Clotbo)。クロトというのはローマ神話に出てくる生と死、そして運命を司る3女神の一人なんだけど、頭の上から湧き出ている髪の毛みたいなものに、内臓をえぐり返すような「ドロドロとした恐怖」が充満しています。率直に言ってこの彫刻は「怖い」。陸奥九十九が言う「怖い」と本質は一緒(笑)。
何故カミーユ・クローデルはこのような彫刻を創ったのか?何故彼女の彫刻からは人間の生々しい感情が感じられるのか?
それを説明する為には、少しばかり彼女の経歴を知る必要があるかと思われます。
カミーユ・クローデルは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランス人女性彫刻家であり、20世紀最大の彫刻家として知られるロダンの弟子、助手兼モデルそして愛人だったそうです。彼女がロダンと出会ったのが18歳の時で、ロダンは彼女の天才的な才能とその美貌にコロッとやられ、内縁の妻(ローズ)がありながらも彼女と関係を持ったと言う事らしいんですね。若い時の写真が残されているんだけど、それがコレ:
確かに美人です。そして彼女はロダンの下でメキメキとその頭角を現していくのですが、最初は順風満帆だった彼女の人生にも次第に陰りが見え始めます。彼女はその生まれ持った才能とは裏腹に、世間では全く評価されず、「ロダンのコピーだ!」と言われ続け、私生活ではロダンの子を妊娠するも流産。そして内縁の妻ローズとカミーユの間で揺れていたロダンも最終的にはローズの元へと去って行ってしまいました。
仕事もうまくいかず、私生活も最悪‥‥。挙句の果てに彼女は精神に異常をきたし、30年間の精神病院への強制収容の後、誰にも看取られること無く亡くなったそうです。
天才彫刻家のその悲惨な運命は、後に数々の小説になったり映画になったりして、今では広く人々に知られる所となり、近年においては彼女の作品に再評価の光が指しているようです。
ちなみにZガンダムの主人公、カミーユ・ビダンの名前と設定はこのカミーユ・クローデルに由来しています。もう1つちなみに、森口博子が歌うZのオープニングに出てくる360度フルスクリーンのコクピットは今見てもかなりセンスが良いなー。
さて、ここまで書けばもうお気付きかもしれませんが、実は上の彫刻「分別盛り」の主題は、彼女の人生そのものであり、真ん中の老人がロダン、悪魔がローズ、そして右下の懇願している女性がカミーユ本人という訳なんですね。この「行かないでー!」という表現に彼女が当時感じていた悲痛な思いが詰まっているからこそ、見るものをその内側に引きずり込んでしまうのかもしれません。その反面、幸せの絶頂期にはこんなものも創っていました:
その名も「心からの信頼(L`abandon)」。二人が寄り添い、互いに支え合うその姿は、僕の心を本当に和やかにしてくれます。そしてこの顔:
この作品が創られたのは、カミーユとロダンがラブラブだった頃と言いますから、カミーユは本当に幸せだったのでしょうね。彫刻から愛が溢れているかの様ですらあります。
上の作品(ワルツ(La Valse))からは、二人が楽しげに踊っている、正にその瞬間の雰囲気がありありと漂ってきます。そしてコレもすごい:
「束を背負った若い娘(La jeune fille a la grebe)」。見てください、この口元と目:
こんな事が彫刻に可能なのか!
カミーユ・クローデルの彫刻の魅力、それはその彫刻が全体で醸し出す「内なる人間の感情=痛々しい程の感情」なのだと僕は思います。
ベルニーニの作品を見て以来、彫刻の本質とは「物語の一瞬を捉える事」、そしてその凍結された一コマから、連続する前後の情景を鑑賞者の心の中に浮かび上がらせる事だと思ってきました(詳しくはコチラ:地中海ブログ:ベルニーニ(Bernini)の彫刻その2:ボルゲーゼ美術館(Museo e Galleria Borghese)にあるアポロとダフネ(Apollo e Dafne)の彫刻)。それはロダンの作品にも言える事で、彼なんかは明らかに一瞬の凍結の中に「動きを見出す事」を目指しているような感じを受けます。これなんてドンピシャ:
故にそれらの彫刻は3次元的であり、周りをグルグル回ったり、はたまた上述した様な、前後の時間の中を彷徨ったりする中にこそ、その彫刻の本質が現れるのだと思うんですね。
しかしですね、カミーユの彫刻はこれらとは本質的にちょっと違う様な気がします。敢えて言うならば、2次元に近いんじゃないのかな‥‥?何故なら彼女の作品には(絵画のように)明らかに見るべき視点が存在するからです(例外っぽいのはワルツですね)。更に前者の彫刻が基本的に「モニュメント」になろうとしているのに対して、カミーユのそれは謙虚な姿勢を基本にしている感じすら受けます。
多分これらのポイントが、彼女の彫刻の大きな特徴であり魅力であり、彫刻界の巨匠ロダンにすら開けなかった彼女だけの道なのでは?と僕は思います。
カミーユの実弟であり詩人でもあったポール・クローデル(Paul Claudel)は姉の作品について幾つかの著作を残しているのですが、彼のこの言葉はカミーユ・クローデルの彫刻の的をついているような気がしました:
「分別盛り!この運命の蓄積されたかたち!」
そう、彼女の作品群は彼女の人生そのものなのです。
非常に豊かな彫刻体験でした。
(この記事は以前書いた文章に加筆修正を施したものです。以前の記事には小さな写真を使っていた為に、「もう少し大きめの写真はありませんか?」という問い合わせが非常に多く、いつか書き直そうと思っていた所、丁度良い機会だったので文章にも少し手を加え新たに掲載する運びとなりました。基本的に当ブログでは同じ記事を2度、違うエントリとして公開する事は無いのですが、前回の記事が比較的まとまっていた事、年末に掛けて記事を書いている時間が取れない事などを考慮した結果、この様な形で公開する運びとなりました)
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