地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
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ボン・ジェズス・ド・モンテ聖堂(Bom Jesus do Monte)に見るキリスト教の大変秀逸なマーケティング手法
ポルトガルにおいては良く、「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの町である」って言われるんだけど、そんな「祈りの町」のシンボルとも言える存在、それがブラガ市内からバスで郊外に向けて15分程行った山の上に建っているボン・ジェズス・ド・モンテ聖堂(Bom Jesusu)なんですね。



1811年に完成したこの教会を設計したのはブラガ出身の建築家、カルロス・アマランテ(Carlos Amalante)。教会自体はネオ・クラシック様式なんだけど、この教会、何が凄いかと言うとですね、教会自体というよりも、その教会の前に展開しているバロック風の大階段が大変見事なんですね。



一度見たら忘れられない様な、そんな眺望を提供しているこの装飾階段は、標高400メートルの丘の上に立つ教会と山の麓を数百段という段によって結ぶ役割をしています。僕なんか、この階段を下から見ただけで「ヒェー」って思っちゃったんだけど、巡礼者の人達は、この大階段を祈りながら、更に「膝を使って」登っていくっていうんだから驚きです。勿論、「こんな階段登ってられるかー!」って人達の為にケーブルカーが用意されてるんだけど(片道1ユーロ)、この階段は自分の足で登らないとその意味が分からないと思うので、是非自力で登ってみる事をお勧めします。

僕はと言うとですね、実は今回泊まっていたホテルがこの教会の真横にあったので、毎朝街へ繰り出す時と帰って来る時、毎日2往復づつしてたのですが、初日は登るだけで「ゼーゼー」言ってたのに、2日目の夕方くらいから段々と慣れてきて、最終的にはそれ程苦も無く登れる様になっていたのにはちょっと驚きました。人間の適応能力って言うのは凄い!カリン塔を登って修行してたゴクウの気持ちがちょっと分かった気がした(笑)。



この教会への行き方なのですが、市内から2番の「Bom Jesus行き」のバスに乗ってると、勝手に教会の正門らしき所に僕らを運んでくれます(所要時間約15分)。その門がコチラ:



巡礼の出発点に相応しい、何とも歴史が感じられる厳かな門ですね。まるであちら側に展開している深―い森の中に我々を「おいで、おいで」と誘い込んでいるかの様ですらあります。



巡礼はここから始まる事になるんだけど、緑濃い木々が覆い茂る中、真っ直ぐに続く階段を登っていくと、何やらその先に小屋の様なもの発見。



この小屋、中が覗ける様になっていて、みんなが覗いてるので僕も恐る恐る覗いてみると、中には何やら強大なフィギアが何体か集まって何か形造ってる・・・こ、これはー!:



最後の晩餐です。イエス・キリストを取り囲む様にしてみんなで食事をしている、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画などで非常に良く知られた場面ですね(地中海ブログ:モナリザの起源が遂に判明か?レオナルド・ダ・ヴィンチって実はカタラン人だったらしい)。



それを横目に見つつ、さっき来た道とは反対側に折り返しになっている階段を登っていくと、その先にはさっきと同じ様な小屋があって、これまたさっきと同様、中が覗ける様になってる:



今度はイエス・キリストが兵隊に捕まって連れ去られていく場面が再現されています・・・。そ、そうなんです!実はこの階段のあちこちに点在している小屋の中には、イエス・キリストの受難の物語がフィギアで再現され、巡礼者達はそれらを見ながら、というか、それらを思い出しながら、又は教えられながら、この階段を登って行く事になるんですね。で、どうやらこの何百段とある階段は、イエス・キリストが受けた苦しみを表していて、「ぜー、ぜー」言いながら一段一段登って行く事によって、イエス・キリストが受けた苦しみを皆で理解しようと、そういう事らしいです。僕もかなり「ぜー、ぜー」言いながら、ようやく辿り着いたのが一つ目の節目:



市内が見渡せる空中テラスです。「もうこんなに上まで来たのか?」って感じかな。で、振り返ればこの風景:



交互に織り成す階段が大変見事な風景を創り出しています。で、ここからはこの美しい装飾階段を登っていく事になるんだけど、この大階段、どうやら2部構成になっていて、下部は「五感の階段」と呼ばれ、上部は「三徳の階段」と呼ばれているのだとか。更に途中には泉が湧き出ていて、その装飾がちょっと面白かった。



先ず最初の泉は、目から水が出ています。



2番目は耳から。



3番目は鼻から。



4番目は口から。ここまでくれば、この泉が我々の五感を表しているって事は分かると思うんだけど、でも、次は触覚・・・。どうくるのかなと思いきや、こんな表象の仕方をしていました:



壺から水が出てる・・・。壺は特別何かのメタファーと言う訳では無さそうなので、ネタ切れって事かな(笑)。まあ、何はともあれ、階段の間からチラチラと見え隠れする教会の姿、そして刻々と移り変わっていく風景が非常に印象的です:



あんなに小さく見えた教会が、段々と大きくなっていく、この距離感の移り変わりはちょっと感動的ですらありますね。「あー、ここまで来たんだー」みたいな(笑)。この辺まで来ると、下から続いていたフィギアの物語もイエス・キリストが十字架に架けられる場面を現してたりして、いよいよクライマックスって感じですね。



各階段には聖人の彫像が林立していて、それらが創り出す風景も圧巻そのもの:



この様な風景は以前にも見た事があって、ミラノ大聖堂の聖人像が創り出しているランドスケープは大変印象的でした(地中海ブログ:ミラノ(Milano)旅行その2:ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano):文化の多様性をゴシック建築の多様性に見る)。そして最後の階段を登った先にあるのがコチラです:



大変見事なネオ・クラシック様式の教会です。そして振り返るとこの風景:



ブラガ市が一望の下に見渡せるこの上なく気持ちが良い風景が展開しています。「あー、ここまで来て良かった」みたいな。ここまで来ると、疲れというよりも、「登ったぞー!」って言う達成感の方が強くって、ここから見える風景は、正にそんな感情を増幅させてくれているかの様なんですね。

さて、実はここからが今日の主題なんだけど(笑)、と言うか、下記に書く事はあくまでも僕が思った事なので、「あー、こんな風に解釈する事も可能かなー」くらいに思ってもらえればありがたいです。

さっきも言った様に、僕はこの階段を4日間くらい行ったり来たりしてた訳なのですが、毎日の様に上り下りを繰り返していると、ある一つの疑問が僕の頭の中に浮かんできました:

「この教会は一体我々に何を語りかけているのか?」もっと言えば、「この教会は何故我々に、こんな何段もある階段を登らせる様な事を強いるのか?」

と。
 一つには上述した様に、「天国に行くためにはイエス・キリストの様に受難を体験しなければいけない」って言う教義があると思うんだけど、実はその裏には、もっと奥深い、「キリスト教の戦略みたいなものが隠されているんじゃないの?」とか思っちゃったんですね。

先に答えを言っちゃうと、実はこの教会と大階段というのは、「キリスト教における一つの広告として機能しているのではないのか?」と、そんな事を思った訳ですよ。つまり建築を利用して、人々に「キリスト教とは一体何か?」という事を身を持って学ばせる為の「体験型エンターテイメント装置」として機能しているのでは?って事なんですけど・・・。まあ、建築の主機能って言うのは僕に言わせれば「広告」であるって事は明らかで、しかもそれが宗教施設ともなれば尚更だと思うんだけど、この建築と大階段が秀逸だなと思うのは、その裏に隠された大変緻密な計算とデザインだと思うんですね。



その巧妙な手口を一つづつ明らかにしていくとですね、先ずは何百段とある大階段を永遠と登らせる事によって、人々を身体的、精神的に疲れさせると言う事が挙げられます。つまり思考停止状態に陥れさせると言う事。



そしてその節々でフィギアを使う事により、キリスト教の物語を来訪者の頭の中に擦り込ませる様に出来ています。しかも文字を読ませるのではなく、映像として直感的に分かる様にフィギアを使っている。



更に、それらの物語を階段の途中に散在させる事によって、ある種のスタンプラリーの様な、エンターテイメント性を持たし、苦労しながらも、又、楽しみながらキリスト教の歴史が学べる様になっています。



そんな事も知らずに、ただただ頂点を目指し、「えっこら、えっこら」と登っていくと、苦難を乗り越えた先には、美しい教会と、コレマタ大変美しい風景が広がっていると言う訳ですよ!長い道のりを歩いてきた人々はこの風景を、ある種の達成感を持って見ているはず。そして、そんな感情と、ココに展開する風景が何時の間にかキリスト教と結び付き、「ここまで辿り着けたのは神のご加護のおかげだ!」とか勝手に思い始め(笑)、最終的には「キリスト教ありがとう」とか言う感情と結び付いていると言う訳なんですね。

上手い、これは大変上手い感情コントロールだと思います。何故ならそれらが来訪者の無意識下に作用する様になっているという事、環境全体が一種のシミュレーション装置となっているという事、そして何より、この施設がエンターテイメントとなっているという事が挙げられます。つまり楽しみながらキリスト教が学べちゃうって言う訳。しかも最後にはキリスト教が好きになる様に出来てますしね。それがこの教会と大階段に隠された真の意味かなーとか、この階段を何往復もする内に、そんな事を思ってしまいました。
| 旅行記:建築 | 04:06 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
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