地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
<< グーグルマップ上ではカタルーニャが遂にマドリッドを制圧したらしい(半分冗談) | TOP | ローマ法王のコンドーム容認発言とか、今年のカタルーニャ州議会選挙ビデオは殆どポルノビデオと同じレベルだとか >>
映画:Tamara Drewe:実はこの映画の主人公はTamaraではないと言う驚きの構図!
今日は朝からお天気も良くポカポカ日和だったので、「午後から美術館にでも行こうかな」と思いきや、昼頃に急な野暮用が入ってしまい美術鑑賞は断念(悲)。しかもその野暮用が結構長引いてしまい、気付いて見ればもう午後7時!でも折角の金曜の夜だし、カタラン人達が思いっきり楽しんでるこの時にこのまま何もしないのも悔しいので、「映画でも見に行こう」と(半ば無理矢理)近所の映画館に行ってきました。良く考えたら最近見た映画と言えば、先々週テレビで放送していた「フェリッペ王子とレティシア王妃がどうやって出逢って結婚にまで至ったか?」って言う王室ゴシップものだけだった様な気がする‥‥。ゴシップ大好きな僕にとっては、このテレビ映画(そもそも映画って言うのかどうかも疑問だけど)はハチャメチャに面白くて、「早くDVD出ないかな?」とか密かに思ってる一人です(笑)。

まあ、冗談はこれくらいにして、今回僕が見に行って来たのは今年のカンヌ国際映画祭で上映されたコチラの映画:

ジェマ・アータートン主演のTamara Dreweと言うイギリス映画だったんですね。田園風景が広がるイギリスの片田舎に数年振りに里帰りしてきた女の子が物凄い美人に変身してて、その彼女を巡って繰り広げられるラブコメディって言うコテコテの内容なんだけど、これが意外に面白かった!少なくとも週末の貴重な時間をこの映画のレビューを書く為に割いても良いかなと僕に思わせるくらいの質は持っていたと思います。

と言う訳で、何時もの様に僕の独断と偏見を最大限に発揮して無茶苦茶な映画レビューを書きたいと思っているのですが、そんな「cruasanの独りよがりな映画の感想なんて聞きたく無い」と思ってる人(地獄に落ちてください(笑))や、「この映画は楽しみにとってあるので、内容とか知りたく無い!」と言うあなたの為に一応警告:

ネタバレになる危険があるので、未だ映画を見ていない人はここで読むのを止めましょう:



さて、先ず初めに大変ショッキングな事実をお伝えします。そしてこれがこの映画の殆ど全てだと言っても良いのかもしれないのですが、実はこの映画の主人公は、タイトルにもなっているTamara Dwereではありません。この映画の隠れた主人公、それはジェシカ・バーデン演じる、悪戯女子高生ジョディーなんですね。

ジョディーは人気ロックドラマーのベン(ドミニク・クーパー)の熱狂的な大ファンで、こんなクソ田舎からは早く出て行き、将来は大都会で大きな仕事に就きたいと夢見る、昔のTamaraそっくりの女子高生。しかしですね、ひょんな事から憧れのベンが自分の村にやってきて、更に村内では悪名高いTamaraと恋人関係にあると言う事でTamaraの事を逆恨みし、何とか彼らの仲を切り裂こうと考えているんですね。

一見脇役にしか見えないこの小さな少女が、この映画における最重要人物であると思うその理由はズバリ、「この映画の本質的な物語りは彼女が創り出している」と言う事が出来ると思うからです。この映画を注意深く見てみると分かると思うのですが、映画の中で何か物語に進展がある時や事件が起こる時には必ずと言って良い程彼女が発端となっています。そういう意味で彼女はこの映画における「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキナ (Deus ex machina))に他なりません。「機会仕掛けの神」とは何かと言うと:

”もとはギリシア語のἀπό μηχανῆς θεός (apo mekhanes theos) からのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。アテナイでは紀元前5世紀半ばから用いられた。特にエウリピデスが好んだ手法としても知られる(Wikipediaより)”

とまあ、この概念自体はギリシャ喜劇からの引用なのですが、そもそもこの映画にギリシャ喜劇の演出が導入されているのも偶然ではありません。何故ならこの映画の主題、それはギリシャ喜劇で繰り返し上演されてきた「運命」なのですから。

そのような運命に翻弄されているのが、この映画の舞台になっている片田舎に集まってきている有名小説家の人達なんだけど、映画の構成や構造と言う観点から見た場合、「何故に小説家がこの映画に登場するのか?」と言うその理由も非常に緻密に出来ています。

例えばベストセラー作家として登場するニコラス(ロジャー・アラム)は、映画内で自分が書いている小説が、実は彼自身の人生を綴りそして暗示していると言うメタ小説的な扱いになっていて、それは物語の最後部分で、「次の小説はどのようなモノになるのでしょうか?」とインタビュアーに質問された際:

「私は小説を書くのはちょっと疲れたので今度からは全く別の事をやりたいと思っています。だから現在登場している主人公はもうすぐ殺す事にします」

と言った発言をした事にも現れています。と言うのも、その直ぐ後で、彼は牛に踏みつぶされて命を落とす事になるからです。

小説家が集まる片田舎が舞台と言う事もあって、小説関係のメタファーは他にも色々と散りばめられているのですが、その中でも最も重要且つ、「よく考えられてるなー」と思わされたのが、上述した「この映画全体を神の視点から綴っている小説家は一体誰か?」と言う設定でした。

何度も言う様に、この映画はメタ小説やら何やらを駆使しつつ、ドン・キホーテの様に何重もの入れ子状の構造を取っているのですが、その一番てっぺんでこの映画の物語を動かしている人物こそ、「機会仕掛けの神」こと、悪戯女子高生ジョディーに他ならない訳ですよ!一見バカで表面的な事しかしていないジョディーが、この映画を神の視点から下記綴っている「真のベストセラー作家」であると言う驚きの構図!そしてその事が強調したいが為に設定された舞台と登場させられたベストセラー作家達!!これには唸らされました!

又最も面白く、最も分かり易かったメタファーは、主人公Tamaraの鼻のメタファーかな。

Tamaraは昔住んでた田舎で「鼻がデカイ、ブスな女」として知られ、有名になる事を目指してロンドンへと移り住んでいったのですが、そこで彼女は鼻の整形手術をしジャーナリストとして華麗な人生を歩む事に成功します。そんな「成功者」が田舎へと戻ってくるんだけど、そこで再会する昔の彼氏や、有名ロックドラマーのベン、はたまた昔憧れた有名ベストセラー作家のニコラスとの浮気などを通して最終的に辿り着くのが、昔愛していた彼氏だったんですね。

そして今までの「飾り立てた、まがい物の愛」ではなく、本物の愛に気が付くって言う、まあ、言ってみれば何時ものお決まりパターンなんだけど、その変化を表象しているのが、物語の終盤で折られる彼女の鼻と言う訳なんです。つまり、整形して一見美女になったかに見えた彼女の容姿と同じく、飾り立てた人生はまがい物であり、そんな鼻を自慢している内は、「決して本当の薆には辿り着けないよ」と、まあ、こう言いたいんだと思います。 

うーん、確かに映画の構造は悪く無いし、様々な場面に出てくるメタファーも面白い。しかし、その一方で、「分かり易すぎる事による深みの無さ」がちょっと気になったかな。そして決定的な事に、この映画のテーマである「運命」ってのがイマイチ描き切れて無い気がする。まあ、それでも一定の線は確実に超えてると思うし、適当に選んだ映画にしてはなかなか良かったとは思います。

星2つですー!!
| 映画批評 | 18:22 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
コメント
コメントする