2010.10.22 Friday
オープンハウス in バルセロナ(48 OPEN HOUSE BCN)その3:ホセ・ルイ・セルト(Josep Lluis Sert)のパリ万博スペイン共和国館
オープンハウス2日目の午後は1937年のパリ万博の為にホセ・ルイ・セルトがデザインしたスペイン共和国館に行ってきました。
この建物は、1936年から1939年にかけて行われていたスペイン市民戦争中にパリに移り住んでいたセルトによってデザインされたのですが、この建築が建てられた経緯やコンセプト、そしてその実現過程を追っていくと、今までは全く知られていなかったホセ・ルイ・セルトと言う建築家の別の側面が見えてくる様で興味が尽き無いんですね。
セルトはこの建物のデザインや展示物を通して「あるメッセージ」を国際社会に投げかけたかったと言う事は良く知られているのですが、岡部明子さんは彼女が最近出版した著書、「バルセロナ:地中海都市の歴史と文化」の中で、その経緯をこんな風に説明されています:
「スペインは、市民戦争の只中にありながら、スペイン共和国館を出して万博に参加した。万博は、共和国政府がなぜ戦っているのか、その正当性を主張し、国際社会の支持と支援を集める絶好の機会であった。」岡部明子、バルセロナ:地中海都市の歴史と文化
本来万国博覧会って言うのは、その国の最高の技術や製品を自国のパビリオンに集めて競い合うと言う「広告」がその基本的な機能なんだけど、最新技術や夢が詰まっていたが故に、1960年代くらいまでは、万博こそが未来都市の様相を示していました。
「‥‥博覧会がヨーロッパの帝国主義のプロパガンダ装置として誕生し、産業のディスプレイとして発達しつつも、19世紀におけるその成立当初より消費社会と大衆娯楽とを推進するための広告機構としての性格を有していたことに大きく起因する。博覧会は、その時代の国家と産業と大衆との関係性を、巨大なスペクタルのかたちで空間化し続けてきたのである。」森川嘉一郎、日本万国博覧会:前衛の退却
しかしですね、パリ万博が開かれた当時、国内が戦争中だったスペインでは、他国に自慢出来る様な生産物は全く無く、逆にそんなものを展示してしまえば、自国の後進性を示す事になってしまうという危険性をも孕んでいたんですね。
そんな状況の中、悩みに悩んだ末、セルトが考え出したのが、「芸術を用いて自国の先進性と共和国政府への国際支援を募る」と言う戦略でした。その戦略を思い付いた裏には、当時パリに住み、既に世界的な名声を手にしていたピカソとミロの存在があったんですね。つまりセルトはスペイン出身のピカソやミロに、自国で行われている戦争の悲惨さを題材に絵画を描いてもらえば、それがそのままスペイン館の目玉になり且つ、国際的にも反フランコと言うメッセージを広める事が出来ると考えた訳です。更に、もしピカソやミロが、このようなコンセプトに納得してくれるならば、「絵画を描いて貰う事に対する支払い料も少なくて済むかもしれない」という計算があったのかも知れません。何故なら当時のスペイン国内の状況(戦争中)を考慮すれば、このスペイン館の為に、それ程潤沢な予算が下りていたとは思えないからです。
しかしですね、ここには一つ難問がありました。
実はピカソと言う画家は、自分の芸術と政治的な問題を混同する事を敬遠する芸術家として知られていたんですね。つまり、ピカソは反フランコ派だったのですが、彼が共和国政府支援の為に力を貸してくれるかどうか?は不透明だったと言う訳です。しかしながら、ここがセルトの凄い所だと思うんだけど、交渉を通じて、最終的にピカソに「うん」と言わせる訳ですよ!その結果、この時ピカソが描いた大作が、現在は世界的に知られる所となった彼の代表作の一つ、ゲルニカだと言う訳なんです。
セルトのこのようなプロジェクトを実現すると言う「トータル・コーディネーター」としての能力は注目に値すると思います。この点は彼がその生涯で成して来た様々な事をバラバラに見ていてはナカナカ見えてこないのですが、それらを一つのリストにしてみると、彼の別の側面が浮かび上がってくる様で大変興味深い。
先ず第一に、セルトはコルビュジエをバルセロナに呼び、当時のカタルーニャ州政府大統領と引き合わせ、マシア計画なる都市計画をコルビュジエと恊働提案する事に成功しています。
更に1947年にはCIAMの会長にセルトが就任している。これが第二の点。そして第三の点は、アメリカ亡命後、ハーバード大学のデザイン学部長と建築学科長に就任している事が挙げられます。探せばもっとあるんだろうけど、セルトと言う人物は実は、このような政治的な動きや、それらを実現する能力に大変長けていた人物なんじゃないのか?と思う訳ですよ。
実はこのような今までは全く語られてこなかった新しい視点と新しいセルト像を世界で最初に提示したのは、バルセロナの大先輩であり、僕がとっても尊敬している岡部明子さんだと思います(地中海ブログ: とっても素敵な出会いがありました:岡部明子さんとグラシア地区を歩く)。上にも引用した岡部さんが最近出版された著書、「バルセロナ:地中海都市の歴史と文化」にその辺の事が詳しく書かれているんだけど、岡部さん、さすがだなー。言う事が違うし、目を付ける所が鋭すぎる!
さて、前置きがちょっと長くなっちゃったんだけど、今回僕が訪れてきた建築は、セルトが1937年にパリに設計し、その後、万国博の終了と共に取り壊されてしまったスペイン共和国館のレプリカです。レプリカとは言っても内部にエレベーターが付け加えられた事を除いては、内外共に当時と全く同じ姿が再現されているんですね。
ちなみにこのスペイン共和国館の前には、 クレス・オルデンバーグ(Claes Oldenburg)による巨大なマッチ棒の彫刻が設置されてるんだけど、これは1980年代からバルセロナが取り組んでいる都市活性化モデルの一つ、「郊外をモニュメント化しよう」という号令の下に開発された郊外活性化の道具の一つです。つまり、海外の著名な彫刻家に独特な彫刻を創ってもらう事によって、見放された郊外に何とかアイデンティティを与えようとしたんですね。これはこれでナカナカ上手い戦略だと思います(地中海ブログ: イグナシ・デ・ソラ・モラレス( Ignasi de Sola-Morales)とテラン・ヴァーグ(terrain vague))。この作品は80年代にアメリカで流行った、日常品を巨大化するというアートシーンの潮流上に載ってる作品なんだけど、確かにこれだけ巨大なマッチ棒があると、ちょっとギョとするかな。
さて、イヨイヨお目当てのスペイン館に入って行く訳なんだけど、先ず最初に気が付くのは、建物本体に対する階段の扱い方の妙ですね。
2つの異なった階段が正面に付いてるんだけど、一つは建物本体に直角に付いてる階段で、もう一つは3段程度の低く幅の広い階段が、それとは少し角度を振って設置されています。
更にこの建物に対して直角に付いてる階段と、その後ろに聳え立ってる旗との関係性の良い事と言ったらありません。ロシアアバンギャルドのメルニコフにも言える事だと思うんだけど、この垂直方向の旗が無かったら、これらの建築の印象は全く違ったものになっていたでしょうね(地中海ブログ: エンリック・ミラージェス(Enric Miralles)の建築その3:バラニャ市民会館(Centro Civico de Hostalets de Balenya)に見る建築の質:実際に建築を訪れる事の大切さ)。こんな、垂直水平線のモダニズムの王道をいく様な正面ファサードなのですが、後方へと回ってみると、こちらにはコルビジェを彷彿させる様な不定形のスロープが建物本体にくっ付いていました。
「表と裏で扱いが違う点はなかなか面白い点だなー」と思っていたそんな時、案内役の女の子達がやってきて、内部訪問を心待ちにしている僕達に、衝撃の事実を伝えてきました:
「セキュリティ上の関係から、今日の一般公開は外部空間のみに限られます」
「えー、そうなの!!」って、誰も声には出さなかったけど、その場に居た全員が心の中でそう思った事だと思います。何でもこの建物は、現在はバルセロナ大学に属する市民戦争関連の資料室になっているらしく、その中には貴重な資料もあるという理由から、今回の公開は見送りになったという事らしいです。ちょっとガッカリしたけど、外部空間も普段は公開されて無いし、スロープで2階部分にもアプローチする事が出来るし、「そんなに悪く無いか」と言う事で、気を取り直して訪問GO!
個人的になかなか嬉しかったのは、当時の雰囲気を少しでも感じてもらおうという配慮からか、当時と全く同じ場所にピカソ作のゲルニカのレプリカが置かれていた事ですね。
今はマドリッドの国立ソフィア王妃芸術センターにあるんだけど、こうやって建物と一緒に見ると、全然感じが違うなー(地中海ブログ: マドリッド旅行その2:ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel)の建築:国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia))。で、実はココにはちょっとした逸話が残ってて、この建物の構造からいくと、ゲルニカの目の前には柱が一本立ってるはずなんだけど、それを知ったピカソが、「絵の邪魔になる!」って事で、柱を取り払ったらしい。
確かに絵の前に柱があったら邪魔なんだけど、それを言えてしまうピカソ、そしてそれを受け止めたセルトの許容力はさすがだなと思います。
万国博覧会当時は、さっき見た大階段がこの建物の正面になっていたので、来館者は先ず始めにこのゲルニカを目にする事になるんだけど、それこそセルトが意図した事でもあったんですね。そしてそんなゲルニカに衝撃を受けた来館者は中庭へと導かれます。
天井にレールが吊ってあって、日差しが強い時や雨の時などは屋根代わりになるって言う仕掛けなんだけど、このような発想は明らかに地中海のものだと思われます。明日も晴れ、明後日も晴れ、ずーっと晴れ!って言う地中海性気候が支配するバルセロナでは、中庭空間で食事を楽しんだり、ワインを片手に談笑したりするのがこの上なく気持ちが良い為、このような空間を良く見かけるんですね。更にもう一つ面白かったのは、この先にしつらえてある舞台です。
この舞台、背後のカベが直角かと思ったら、内側に少し曲がっているじゃないですか!
これにはちょっと驚きました。こうする事で、建物本体とこの舞台に挟まれた空間に、より一層包み込まれた感じ、つまり抱擁感を演出したものだと思われます。この辺に、ヒューマニズムを追求したセルトのこだわりみたいなものを見る事が出来る気がするなー。
そして最後にスロープを昇って上からこの建築を見たのですが、ここで驚くべき事を発見してしまいました。それがコレ:
不整形を描きながら昇っていくスロープなんだけど、その形を上から見ると、こんな感じに見えるんですね。何処かで見た形だなー?と思った人はかなり勘が良い。
そう、これはコルビジェが良く使う形態で、マルセイユのユニテの屋上なんかに設置されている彫刻の形態なんですね。セルトはここで、師であるコルビジェを引用している訳です。この建築については、その端正な佇まいなんかを書籍などで結構見てるつもりだったんだけど、これは知らなかった。と言うか分からなかった。やっぱり、こういう、現場へ来ないと分からない事があり、ここでしか感じる事が出来ない空間が有る事、それが建築の魅力なんだと思います。この日も大満足な一日でした。
この建物は、1936年から1939年にかけて行われていたスペイン市民戦争中にパリに移り住んでいたセルトによってデザインされたのですが、この建築が建てられた経緯やコンセプト、そしてその実現過程を追っていくと、今までは全く知られていなかったホセ・ルイ・セルトと言う建築家の別の側面が見えてくる様で興味が尽き無いんですね。
セルトはこの建物のデザインや展示物を通して「あるメッセージ」を国際社会に投げかけたかったと言う事は良く知られているのですが、岡部明子さんは彼女が最近出版した著書、「バルセロナ:地中海都市の歴史と文化」の中で、その経緯をこんな風に説明されています:
「スペインは、市民戦争の只中にありながら、スペイン共和国館を出して万博に参加した。万博は、共和国政府がなぜ戦っているのか、その正当性を主張し、国際社会の支持と支援を集める絶好の機会であった。」岡部明子、バルセロナ:地中海都市の歴史と文化
本来万国博覧会って言うのは、その国の最高の技術や製品を自国のパビリオンに集めて競い合うと言う「広告」がその基本的な機能なんだけど、最新技術や夢が詰まっていたが故に、1960年代くらいまでは、万博こそが未来都市の様相を示していました。
「‥‥博覧会がヨーロッパの帝国主義のプロパガンダ装置として誕生し、産業のディスプレイとして発達しつつも、19世紀におけるその成立当初より消費社会と大衆娯楽とを推進するための広告機構としての性格を有していたことに大きく起因する。博覧会は、その時代の国家と産業と大衆との関係性を、巨大なスペクタルのかたちで空間化し続けてきたのである。」森川嘉一郎、日本万国博覧会:前衛の退却
しかしですね、パリ万博が開かれた当時、国内が戦争中だったスペインでは、他国に自慢出来る様な生産物は全く無く、逆にそんなものを展示してしまえば、自国の後進性を示す事になってしまうという危険性をも孕んでいたんですね。
そんな状況の中、悩みに悩んだ末、セルトが考え出したのが、「芸術を用いて自国の先進性と共和国政府への国際支援を募る」と言う戦略でした。その戦略を思い付いた裏には、当時パリに住み、既に世界的な名声を手にしていたピカソとミロの存在があったんですね。つまりセルトはスペイン出身のピカソやミロに、自国で行われている戦争の悲惨さを題材に絵画を描いてもらえば、それがそのままスペイン館の目玉になり且つ、国際的にも反フランコと言うメッセージを広める事が出来ると考えた訳です。更に、もしピカソやミロが、このようなコンセプトに納得してくれるならば、「絵画を描いて貰う事に対する支払い料も少なくて済むかもしれない」という計算があったのかも知れません。何故なら当時のスペイン国内の状況(戦争中)を考慮すれば、このスペイン館の為に、それ程潤沢な予算が下りていたとは思えないからです。
しかしですね、ここには一つ難問がありました。
実はピカソと言う画家は、自分の芸術と政治的な問題を混同する事を敬遠する芸術家として知られていたんですね。つまり、ピカソは反フランコ派だったのですが、彼が共和国政府支援の為に力を貸してくれるかどうか?は不透明だったと言う訳です。しかしながら、ここがセルトの凄い所だと思うんだけど、交渉を通じて、最終的にピカソに「うん」と言わせる訳ですよ!その結果、この時ピカソが描いた大作が、現在は世界的に知られる所となった彼の代表作の一つ、ゲルニカだと言う訳なんです。
セルトのこのようなプロジェクトを実現すると言う「トータル・コーディネーター」としての能力は注目に値すると思います。この点は彼がその生涯で成して来た様々な事をバラバラに見ていてはナカナカ見えてこないのですが、それらを一つのリストにしてみると、彼の別の側面が浮かび上がってくる様で大変興味深い。
先ず第一に、セルトはコルビュジエをバルセロナに呼び、当時のカタルーニャ州政府大統領と引き合わせ、マシア計画なる都市計画をコルビュジエと恊働提案する事に成功しています。
更に1947年にはCIAMの会長にセルトが就任している。これが第二の点。そして第三の点は、アメリカ亡命後、ハーバード大学のデザイン学部長と建築学科長に就任している事が挙げられます。探せばもっとあるんだろうけど、セルトと言う人物は実は、このような政治的な動きや、それらを実現する能力に大変長けていた人物なんじゃないのか?と思う訳ですよ。
実はこのような今までは全く語られてこなかった新しい視点と新しいセルト像を世界で最初に提示したのは、バルセロナの大先輩であり、僕がとっても尊敬している岡部明子さんだと思います(地中海ブログ: とっても素敵な出会いがありました:岡部明子さんとグラシア地区を歩く)。上にも引用した岡部さんが最近出版された著書、「バルセロナ:地中海都市の歴史と文化」にその辺の事が詳しく書かれているんだけど、岡部さん、さすがだなー。言う事が違うし、目を付ける所が鋭すぎる!
さて、前置きがちょっと長くなっちゃったんだけど、今回僕が訪れてきた建築は、セルトが1937年にパリに設計し、その後、万国博の終了と共に取り壊されてしまったスペイン共和国館のレプリカです。レプリカとは言っても内部にエレベーターが付け加えられた事を除いては、内外共に当時と全く同じ姿が再現されているんですね。
ちなみにこのスペイン共和国館の前には、 クレス・オルデンバーグ(Claes Oldenburg)による巨大なマッチ棒の彫刻が設置されてるんだけど、これは1980年代からバルセロナが取り組んでいる都市活性化モデルの一つ、「郊外をモニュメント化しよう」という号令の下に開発された郊外活性化の道具の一つです。つまり、海外の著名な彫刻家に独特な彫刻を創ってもらう事によって、見放された郊外に何とかアイデンティティを与えようとしたんですね。これはこれでナカナカ上手い戦略だと思います(地中海ブログ: イグナシ・デ・ソラ・モラレス( Ignasi de Sola-Morales)とテラン・ヴァーグ(terrain vague))。この作品は80年代にアメリカで流行った、日常品を巨大化するというアートシーンの潮流上に載ってる作品なんだけど、確かにこれだけ巨大なマッチ棒があると、ちょっとギョとするかな。
さて、イヨイヨお目当てのスペイン館に入って行く訳なんだけど、先ず最初に気が付くのは、建物本体に対する階段の扱い方の妙ですね。
2つの異なった階段が正面に付いてるんだけど、一つは建物本体に直角に付いてる階段で、もう一つは3段程度の低く幅の広い階段が、それとは少し角度を振って設置されています。
更にこの建物に対して直角に付いてる階段と、その後ろに聳え立ってる旗との関係性の良い事と言ったらありません。ロシアアバンギャルドのメルニコフにも言える事だと思うんだけど、この垂直方向の旗が無かったら、これらの建築の印象は全く違ったものになっていたでしょうね(地中海ブログ: エンリック・ミラージェス(Enric Miralles)の建築その3:バラニャ市民会館(Centro Civico de Hostalets de Balenya)に見る建築の質:実際に建築を訪れる事の大切さ)。こんな、垂直水平線のモダニズムの王道をいく様な正面ファサードなのですが、後方へと回ってみると、こちらにはコルビジェを彷彿させる様な不定形のスロープが建物本体にくっ付いていました。
「表と裏で扱いが違う点はなかなか面白い点だなー」と思っていたそんな時、案内役の女の子達がやってきて、内部訪問を心待ちにしている僕達に、衝撃の事実を伝えてきました:
「セキュリティ上の関係から、今日の一般公開は外部空間のみに限られます」
「えー、そうなの!!」って、誰も声には出さなかったけど、その場に居た全員が心の中でそう思った事だと思います。何でもこの建物は、現在はバルセロナ大学に属する市民戦争関連の資料室になっているらしく、その中には貴重な資料もあるという理由から、今回の公開は見送りになったという事らしいです。ちょっとガッカリしたけど、外部空間も普段は公開されて無いし、スロープで2階部分にもアプローチする事が出来るし、「そんなに悪く無いか」と言う事で、気を取り直して訪問GO!
個人的になかなか嬉しかったのは、当時の雰囲気を少しでも感じてもらおうという配慮からか、当時と全く同じ場所にピカソ作のゲルニカのレプリカが置かれていた事ですね。
今はマドリッドの国立ソフィア王妃芸術センターにあるんだけど、こうやって建物と一緒に見ると、全然感じが違うなー(地中海ブログ: マドリッド旅行その2:ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel)の建築:国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia))。で、実はココにはちょっとした逸話が残ってて、この建物の構造からいくと、ゲルニカの目の前には柱が一本立ってるはずなんだけど、それを知ったピカソが、「絵の邪魔になる!」って事で、柱を取り払ったらしい。
確かに絵の前に柱があったら邪魔なんだけど、それを言えてしまうピカソ、そしてそれを受け止めたセルトの許容力はさすがだなと思います。
万国博覧会当時は、さっき見た大階段がこの建物の正面になっていたので、来館者は先ず始めにこのゲルニカを目にする事になるんだけど、それこそセルトが意図した事でもあったんですね。そしてそんなゲルニカに衝撃を受けた来館者は中庭へと導かれます。
天井にレールが吊ってあって、日差しが強い時や雨の時などは屋根代わりになるって言う仕掛けなんだけど、このような発想は明らかに地中海のものだと思われます。明日も晴れ、明後日も晴れ、ずーっと晴れ!って言う地中海性気候が支配するバルセロナでは、中庭空間で食事を楽しんだり、ワインを片手に談笑したりするのがこの上なく気持ちが良い為、このような空間を良く見かけるんですね。更にもう一つ面白かったのは、この先にしつらえてある舞台です。
この舞台、背後のカベが直角かと思ったら、内側に少し曲がっているじゃないですか!
これにはちょっと驚きました。こうする事で、建物本体とこの舞台に挟まれた空間に、より一層包み込まれた感じ、つまり抱擁感を演出したものだと思われます。この辺に、ヒューマニズムを追求したセルトのこだわりみたいなものを見る事が出来る気がするなー。
そして最後にスロープを昇って上からこの建築を見たのですが、ここで驚くべき事を発見してしまいました。それがコレ:
不整形を描きながら昇っていくスロープなんだけど、その形を上から見ると、こんな感じに見えるんですね。何処かで見た形だなー?と思った人はかなり勘が良い。
そう、これはコルビジェが良く使う形態で、マルセイユのユニテの屋上なんかに設置されている彫刻の形態なんですね。セルトはここで、師であるコルビジェを引用している訳です。この建築については、その端正な佇まいなんかを書籍などで結構見てるつもりだったんだけど、これは知らなかった。と言うか分からなかった。やっぱり、こういう、現場へ来ないと分からない事があり、ここでしか感じる事が出来ない空間が有る事、それが建築の魅力なんだと思います。この日も大満足な一日でした。