2010.04.22 Thursday
国際オリンピック委員会(IOC)前会長のフアン・アントニオ・サマランチ(Juan Antonio Samaranch)氏死去
昨日Twitterの速報でお伝えした様に、4月21日午後1時25分、国際オリンピック委員会前会長のサマランチ氏が心臓疾患の為死去されました。89歳でした。カタラン社会には衝撃と共に深い悲しみが都市を多い尽くしています。昨日まで雲ひとつ無かった地中海の空も、その悲しみを汲み取っているかの様に、今では泣き出しそうな曇り空に変わっています。
世界的に影響の大きかった人物の訃報だけに、昨日から各国の各種メディアは競ってこのニュースを伝えているのですが、それらの報道やネット上での議論などを見ていると、サマランチ氏に対するイメージが日本とスペインでは両極端に違う事に気が付かされます。一言で言うと、日本では「金や権力に汚れた政治家」というイメージが強いのに対して、カタルーニャもしくはスペインでは国民的英雄といった扱いを受けているんですね。
この点はちょっと驚くべき事で、特に独裁政権下でフランコ側の人間だったという点にカタラン人はもっと敏感に反応してもいいと思うんだけど、そうはなっていない。反対に「これでもか!」と強調されているのが、1992年のオリンピック誘致を通して彼が貢献したバルセロナの都市化についてです。
バルセロナが今の繁栄を誇っていられるのは明らかに1992年のバルセロナオリンピック誘致によるインフラ等の整備が大きなポイントとなっています。あの誘致無しではバルセロナはバルセロナ足り得なかったと言っても過言ではありません。
その事に関して、今日の新聞に民主化後初の市長となったナルシス・セラ(Narcis
Serra)氏の大変興味深い記事が載っていたのですが、彼によるとサマランチ氏がバルセロナにオリンピック誘致を持ちかけたのは1979年、スペインが民主化して間も無い頃だという事なんですね。
“ …no hacia ni seis meses que se habian producido las
primeras elecciones municipales cuando en verano de 1979 Juan Antonio Samaranch
me llamo para proponerme una conversación discreta entre los dos. Acordamos
vernos en la manana de un sabado, cuando la Casa Gran estaba mas tranquila. Era
embajador en Moscu y, sin rodeos, me planteo su idea: en caso de ser elegido
presidente del Comité Olimpico Internacional me proponia luchar para que
Barcelona obtuviera los Juegos Olimpicos del ano 1992…” (La Vanguardia, 22 de
Abril 2010, P61)
「1979年の夏、民主化後初めての選挙が終わって未だ6ヶ月も経っていない頃、サマランチ氏が「二人だけで話したい事がある」と電話をかけてきました。そこで市役所が静まり返る土曜日の朝に会う事にしたのです。その時彼は未だスペインの駐ソ連大使だったのですが、次期選挙で彼がIOCの会長に選出された際には、私に1992年のオリンピック候補地として名乗りを上げろと提案してきたのです。」
むむむ・・・この告白はオリンピックの歴史と絡めて読むと結構面白くて、というのも、サマランチ氏が導入した新しいシステムによってオリンピックが商業的に大成功したのが1984年のロサンゼルスオリンピックだと言われています。彼はこの大会でスポンサーシップなどを利用して、それまで大赤字を出し続けていたオリンピックを見事黒字に転換する事に成功したんですね。しかしですね、サマランチ氏がバルセロナに誘致を持ちかけたのは、それよりも5年も早い1979年の時点であるという事が上のインタビューでは明らかになっている訳ですよ。
何が言いたいか?
つまりもう既にこの時点で彼はオリンピックが都市にもたらすであろう莫大な利益や恩恵のシナリオ、そのポテンシャルに気が付いていた、世界広しと言えども数少ない識者の内の一人だったと言う訳です。
その後、ロサンゼルスオリンピックの大成功を目の当たりにした世界中の都市が次々と次期候補地として競って名乗りを挙げるようになるのですが、その遥か前から手を打っていたバルセロナから見れば「時既に遅し」という感じでしょうか。
彼のこの先見の明は注目に値するものがあると思います。
そしてそんな彼が残した数ある格言の中でも伝説となっているのが、1986年、ローザンヌで開かれた次期オリンピック開催都市発表に関する次の言葉です:
“ a la ville de….Barcelona!”
「次の開催都市は・・・・バルセロナです!」
バルセロナのカリスマ市長(1982−1997)だった若き日のパスクアル・マラガル(Pasqual
Magagall)氏も満面の笑みを浮かべ、その瞬間の喜びを表しています(地中海ブログ:パスクアル・マラガイ(Pasqual
Maragall)という政治家2)。若いなー、マラガルさん!そんな彼が、共にバルセロナを創ってきた戦友にこんな別れの文を書いています:
”…a mi me quedan dos imagines de Samaranch por encima de las
otras: la del 17 de octubre de 1986 cuando abrio el sobre y con satisfaccion
autocontenida, dijo: “a la ville de Barcelona”, y la del 9 de agosto de 1992
cuando, sin contenerse, clausuro los Juegos Olimpicos proclamandolos “ los
mejores Juegos de la historia”. Gracias, Juan Antonio.”
Pasqual Maragall
(La Vanguardia, 23 de Abril 2010, P59)
「私には彼(サマランチ)に関する2つのイメージがそれまでのどの場面よりも印象深く心に残っている:一つ目は1986年の10月17日、封筒を空け、溢れる様な逸る気持ちを抑えながら、「次の開催都市は・・・バルセロナです!」と言った時の場面。そしてもう一つは1992年の8月9日、目一杯の喜びと共に、「オリンピックの歴史の中で最高の幕開けです」とバルセロナオリンピックを宣言した時の場面。ありがとうフアン・アントニオ。」
オリンピック無しでは今のバルセロナの繁栄は無かったと言っても過言ではありません。そしてそのオリンピック誘致はサマランチ氏の尽力無しでは到底不可能だったと思います。様々な批判はあったけど、間違いなく言える事は、彼は彼の故郷であるバルセロナが大好きだったという事です。そしてそんなバルセロナが大好きな彼の事が、同じくバルセロナが大好きなカタラン人も大好きだった。それは紛れも無い事実です。
ご冥福をお祈り致します。
(La Vanguardia, 23 de Abril 2010, P59)