地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
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映画:Mishima: A Life In Four Chapters(ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ):三島由紀夫にとって芸術とは何か?
現在バルセロナ、グラシア地区にあるVerdi映画館で、幻の作品とされている日本未公開映画、Mishimaが公開されています。1985年に日米合併で製作されたこの作品は、カンヌ映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞しながらも、諸事情により日本では公開されなかったそうなんですね。更にDVDやビデオ発売も見送られた事から、日本では見るすべが無く、幻の作品と呼ばれるに至っているという訳です。

そんな一昔前の作品が何故今頃になってバルセロナで公開されているかというと、どうやらリメイクされたという事らしいのですが、元の映画を見て無いし、ネットで情報を探しても出てこないので真相は不明。「まあ良いや」とか思いながら見に行ったのですが、コレが非常に良かった。こんな良い映画が見られない日本の皆さんが可哀想になるくらい良かった。

という訳で、何時ものようにココに勝手に映画評を書いてみようと思います。そして一応念のために:

警告
ネタバレになる危険があるので、未だ映画を見ていない人はココで読むのをストップしましょう。




さて、先ずはこの映画の主題なのですが、ズバリ「三島由紀夫にとって芸術とは何か?芸術家とは何か?」でしょうね。

この映画は三島由紀夫の生い立ちから自殺までを扱っているのですが、決して彼の生涯を時間軸に沿って(クロノロジカルに)描いているだけなのではありません。彼の生涯を描く事を通して、彼の人生における核心的思想、「彼にとっての芸術」を描いている所こそ、この映画の核心なのです。

先ず特筆すべきなのは、何と言ってもこの映画の構造です。

全ての章(全部で4章)は監督の解釈の下、フィルターにかけられ、フィクションとして創られ、(先ずは「全てがフィクションである」という点が非常に重要です)、そのフィクションの下に、三島の人生のリアルに近い部分(身体的、意識的な部分)と、彼の精神構造を明らにしていく為に創られた「シンボル的フィクション」の部分(夢的、無意識的な部分)とが各章を構成しています。更に前者の「リアリズム的世界」はドキュメンタル調で描かれる白黒映画として、後者のシンボル的なフィクションの世界は演劇的なカラー世界として分かり易く区別されているんですね。

それぞれの章には「美」、「芸術」、「アクション」、「筆と剣のハーモニー」というテーマが与えられ、三島の幼少時代、青年時代、成熟時代における彼の思想がリアル世界での出来事と、精神世界におけるフィクションを交えて明らかにされていく事となります。

それを図式的にするとこんな感じ:



まあ、簡単に言うと、「リアルな世界」は普通の映画のごとく彼の人生を白黒映画で説明するに留まっているのに対して、「シンボル的なフィクションの世界」は、彼の文学作品を題材としながら、「演劇」という形式を採る事によって彼の人生の核心を抽出しつつ、説明しているという事です。

ここまで分かった上で各章を見ていくと、1章、2章、3章は読んで字のごとく区別も明確だと思うのですが、「アレ」って思うのは最後の第4章なんですね。

最後の第4章も例のごとく、三島のリアル世界とシンボル的フィクションの世界の2つから成っていて、それぞれ白黒とカラー部分で構成されているのですが、第4章は映画の帰結部分だけあって、それまでの3章全体の総合部分となり、映画の中でもかなり特異な章として扱われています。具体的に言うと、ココの章だけは、人生のリアル部分とシンボル的フィクション部分が入り交じっている構成になっています。さっきの図式で言うとこんな感じ:



白黒部分とカラー部分が混在し、白黒で描かれるべき部分がカラーになっていたりします。

さて、このような構造が分かった上で、もう一度映画を見てみると大変面白い事に気が付くと思います。

この映画はどのように始まったか覚えていますか?

この映画は三島が割腹自殺をする日の朝、自宅を出る所から始まります。そしてその描写はカラー映像です。つまり上の図式で言うと、この場面は、第4章の右側、「演劇的」手法&「シンボル的フィクションの世界」のカテゴリーに当てはまる訳です。しかしながら、この場面(映画の帰結部分)は、(見れば一目瞭然だけど)彼のリアル世界を普通の映画的描写で説明している・・・。

何が言いたいか?

つまり、彼の人生の最後期では、彼の人生はもうほとんど「演劇的」であり、「何処からがリアルで何処からがフィクションなのか分からない」という事が言いたい訳なんですよね。コレは巧い!絶妙な演出であり、大変に説得力があります。

さて、これだけ見ただけでもこの映画が普通とはちょっと違うという事が分かってもらえたと思うのですが、それだけじゃ無い所がこの映画のすごい所。という訳で、各章をもう少し詳しく見ていく事とします。

第一章のテーマは「美」です。ココでは三島の幼少期と「三島にとって美とは何か?」が彼の文学作品「金閣寺」に沿って描写されています。

先ずは「三島の価値観がどのように形成されたのか?」がリアル世界の出来事に沿って説明されているのですが、それによると、三島は祖母の加護の下、下界(汚いもの)との接触を許されず、無菌室状態で育てられたみたいですね(何処から何処までが真実かは不明)。

そんな外界の毒に触れる事も許されない環境と経験が創り上げた彼の精神状態を見事に説明しているのが、「演劇的」に上演されるフィクションの世界「金閣寺」です。ここでは金閣寺が「絶対的な美の象徴」、決して手に届かない「究極の美」として存在しています。

そこに登場するのが、佐藤浩一演ずる足が不自由な男と、坂東八十助演ずるどもりを持つ学生。主人公は声がどもると言う事から、自らの体にコンプレックスを持ち、絶対的な美に近つこうとしますが叶いません。幾多の努力の末、他の美(美しい女と寝る事)を通して絶対的な美を最終的に手に入れるのですが、その後に彼に訪れたのは虚無でした。つまり今まで目指していたものを達成してしまった瞬間、目指すべきものがなくなり、する事が無くなってしまったんですね。結局彼が採った決断は、美の象徴であった金閣寺を燃やし、一緒に死ぬという選択でした。

つまり「美の達成」=「死」という構図です。

第二章のテーマは「芸術」。この章では三島の青年期が「鏡子の家」に沿って説明され、「三島にとって芸術とは何か?」が追求されています。

先ずリアル世界では、三島が文学によってある程度の成功を収め始める所までが描写されているのですが、文学的成功によって、内面的な芸術に近つく事を達成した彼は、外面的にも芸術を体現したいと考えるようになります。

そのような思考の下、彼が最初に試みたのは演劇でした。何故なら演劇こそ「新の芸術」を体現する表現行為だと信じたからなのですが、そこに真の芸術が無い事が直ぐに明らかになります。(そしてココからフィクションの世界に切り替わっていきます)

次に彼が目指したのは肉体美でした。人間の肉体こそ新の芸術=美が宿ると考えるようになり、ジムなどに通い体を鍛え始めます。そしてこの過程で決定的に重要なポイントが訪れる事になります。それが沢田研二演ずる主人公が、屋台で飲みながら芸術家っぽい男達と論争を展開する場面:

芸術家っぽい男:「お前何か芸術をやってるのか?」
沢田研二   :「ハイ、舞台を少し」
芸術家っぽい男:「そうか、彫刻家じゃないだけマシだな。彫刻家って言うのは滑稽な職業だ。特に人間の像なんか彫ってるヤツは最悪だ。目の前に人間の生身の体という、絶対に超えられない究極の美があるのに、それを石で彫ろうとしやがる。確かに石は永遠に残るが、絶頂期の生身の人間の美に勝てる彫刻は存在しない」


言い回しなどは少し違ったかもしれませんが、内容的にはこんな感じでした。
ココで主人公は絶対の美とは生身の体に宿る、ある特定の瞬間だという事に気が付くんですね。この点が重要。

その後、彼はサゾちっくな女性と知り合い、自慢の体を傷付けられながらも、魅力を感じてくれる様を見るにつけて、「芸術とは(内面的な)僕自身なんだ!」と自覚するに至りますが、ココはイマイチ説明不足です。彼がどのように心境を変化させていったのか?彼女がどのように彼の思考に影響を与えたのか?など、本を読んでないと到底理解は出来ない場面だと思います。

第2章の結論:
芸術は内面的なものであり、外面にあるものではないという事に気が付いた彼が起こした行動は、その最高の状態を永遠に保持するという事でした。つまり「死」です。

そして第三章です。この章の主題は「アクション」であり、「何かしら行動を起こす事が重要だ」という彼の考え方を表しているのですが、この章はちょっと複雑です。というのも、第四章と密接な関連の元に創られているからです。

先ずリアル世界では三島が民兵組織(楯の会)を編成し、弱体化した日本を立て直そうとする場面が説明されます。フィクションの世界では青年剣士の勲が、日本を駄目にしている実業家の暗殺を画策する場面が演じられるのですが、それは次のフレーズがこの章の核心を表していると思います:

「筆では不十分だ。世界を変えるには剣が必要だ。」

この章の一番大事なポイントは、三島が「剣」の重要性に気が付き、日本を変えるためにはアクションが必要不可欠であるという「アイデア」に至ったという点ですね。

さて、これら3つの章が一つとなり、統合されているのが第4章なのですが、その統合を暗示する場面が存在します。それが、フィクションの世界において三島が飛行機に乗って大空を飛ぶシーンです。

このシーンでは、飛行機から見える絶景=「美」、芸術家=三島由紀夫というフィルターを通して見える風景=「芸術」、そして軍用飛行機を持ち出すという事実=「アクション」と、今まで語ってきた全ての章のテーマが、飛行中の三島が酸素不足で気を失った瞬間=無意識下=「死の瀬戸際」において実現される事となります。そしてそれらの統合こそが「真の芸術である」と三島が気が付いた瞬間でもあった訳です。

更に各章の主人公達がそれぞれのシナリオの最後で辿った、いや、辿らなければならなかった運命は「死」でした。つまり死ぬ事によってしか、各々の目的を成就出来なかったんですね。何故か?何故ならそれこそが、己を「永遠という存在」、「究極の美」に至らしめる唯一の方法だったからです。

そして第4章の最後の最後、自衛隊にクーデターを促すシーンにおいては(上述したように)何がリアルで何がフィクションなのかが、もう混ぜこぜで分からなくなっています。そんな中、三島が切腹によって最後の時を迎えるという所でこの映画は幕を閉じるわけです。

このようにして、三島由紀夫はその生涯を通して「芸術とは何か?」を模索し続け、文学作品のみならず、自身の人生をも、いや、自身の人生こそを最大の芸術作品に仕立て上げ、彼の作品と人生は永遠に語られる芸術となった・・・という解釈なのですが、「なるほどなー」と思うのが、この永遠という事象を映画の構造すらも使って表している所です。



上述したように、この映画は三島の最後の日から始まりました。先のダイアグラムで説明すると、この映画は第4章から始まっているんですね。そして当然の事ながら第4章で終わる。つまり最後から始まって最後部分で終わるというように、この映画の構造は円環になっている訳です。

何が言いたいか?

この映画には終わりが無い、そしてこの映画が表している三島の人生、はたまた彼が創り出した2つの芸術、文学作品と人生自体は永遠に不滅だという事を暗示している訳なんですね。

巧い!!!

絶妙な巧さに加え、抽象的な舞台セットの美しさ(金閣寺と牢屋の抽象化)、そして考えられないような豪華なキャスト陣など、見所満載です。

上述したように、この映画は日本では見る事が出来ません。在バルセロナの皆さん、現在バルセロナに滞在している観光客の皆さん、これは行かないと絶対損です。お薦め度ナンバーワン。
| 映画批評 | 23:37 | comments(3) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
コメント
こんにちは。ご無沙汰してます。
1ヶ月ほど日本に居りまして、先週帰って来ました。

この映画は帰国前に観ました。実は私は三島の大ファンでして、ほぼ全ての文章を呼んだと思うのですが、この映画を観ることができていなかったので、バルセロナに居てラッキー!と久々に思いました。(笑)

私にとって「美の探究者」あるいは、批評家としての三島の存在は群を抜くものでありますが、やはり多くの人が思っているようにあるひとつの疑念が私の中にもあります。それは「何故、彼はあのように死ななければならなかったのか?」ということです。

この映画はそのことに対するポール・シュレーダーという外国人の目を通したひとつの回答であったと思っています。日本人の私には見えなかった三島の評価というものもあったんだなーというのが率直な感想。もちろん反論もあるのですが、話せば、長くなるので感想はまたの機会に。(笑)

(余談ですが、芸術家のような男は横尾忠則氏が演じてましたね。)
| AITO | 2009/08/27 9:29 PM |
素晴らしい解説ありがとうございます。この映画の構造が非常によく理解できました。
監督の深く鋭い解釈には驚かされます。全学連との討論シーンなど、実際あった出来事の再現度の高さにもビックリします。
MISHIMAの本編はYouTubeなどにアップロードされてますので、未見の方はぜひ。
| れん | 2011/05/24 4:17 AM |
れんさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

この映画、本当に傑作ですよね。
見れば見るほど、「よく考えられているなー」と思わずには居られません。残念ながら日本では公開禁止となっていたようなのですが、今ではYoutubeで見られるのですね。ありがたい事です。
是非、一人でも多くの人に、この傑作を見て欲しいです!
| cruasan | 2011/05/25 6:00 AM |
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