地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
<< 海産物のファースト・フード:La Paradeta | TOP | バルセロナの食べ歩き方:ハンバーガーが奇跡的に美味しいレストラン2回目:La BURG: Hamburgueseria >>
歩いても、歩いても(是枝裕和監督):伝統と革新、慣習と感情の間で:リアリズムを通して鑑賞者の眼が問われています
今バルセロナでは是枝裕和監督の話題作(と言っても一年前の作品ですが)「歩いても、歩いても」が、ベルディ映画館(Verdi Park)で上映されています。同監督作品の「誰も知らない(2005)」は、バルセロナで毎年開催されるアジア映画祭(2006年度版)のオープニング作品に選ばれ、大喝采を受けた作品だっただけに、是枝監督の新作を首を長―くして待っていたカタラン人ファンも多かったはず。

実は僕の周りにも既にこの映画を見た友達が沢山いて、「とっても良かったから是非行って、感想を聞かせて欲しい」と言われていたんですね。そんな事もあり、土曜日の夕方に早速出かけてきました。天気が良かったので、歩いて行こうと思い、張り切って歩いたのですが、途中から無茶苦茶暑くなってきて、もう死にそう。それこそ「歩いても、歩いても、着かない!」みたいな(苦笑)。それでも何とか映画館に着いたのですが、ココで今日2度目のビックリ。なんと入場料が7.5ユーロもするじゃないですか!「あれ、ベルディ映画館ってこんなに高かったけ?」って驚き桃の木。普段よく行くイカリア映画館(Yelmo Cineplex)は6.5ユーロ(確か)ですから。

でも、まあ、ここまで来て見ずに帰るのも馬鹿らしいので、ブツブツ言いながら見たのですが、コレがナカナカ良かった。日本芸術のお家芸である、「静のデザイン」が際立っていました。突破な事件を作り上げ、好きな人に対して「好きだ、好きだ」と強く押すのでは無く、ごくごく普通の日常を切り取りながらも、その風景を「差異化」する事で我々の記憶に残ろうとする。

僕はよくこのようなデザインの違いを「歌舞伎」と「能」の違いで説明するのですが、コノ映画は正に「能」型の映画だと思いますね。歌舞伎というのは毎回違う事をやって派手さで勝負する。逆に能というのは、毎回大筋は同じなんだけど、ホンの少し細部を変える事で勝負をする。だから能を楽しむ為にはその違いが分かる「鑑賞者の目」が大変重要な要素となってくるんですね。正に「違いの分かる男」(もう死語?(笑))が必要になってくる訳です。

そんな、一定のラインをクリアしている良質な映画だからこそ、ちょっと又、映画評を書いてみようかなーという気にもさせてくれます。と言う訳で、何時ものようにここからは僕の独断と偏見で勝手な映画解釈(笑)を書き始めます。こんな見方もあるというくらいに思ってもらえると嬉しいですし、逆に言うと、それ以上のものではありません。そして一応念の為に:

警告
ここからはネタバレになる危険性がありますので、まだ映画を見ていない人は読むのをストップしましょう。





さて、この映画は「評価する」のが大変に難しい映画だと思います。何故なら、コノ映画は「僕達が映画を評価する(良いとか悪いとか)」という、ごくごく普通の形式では創られてはいなくて、むしろ逆に「映画の方が僕たちを評価する」かのように創られているからです。この映画がしている事、それはただ単に現在の日本社会がどのように機能しているか?を淡々と描写する事、唯それだけなんですね。ココには右寄りだとか左寄りだとか、良いとか悪いとか、そんな主観は一切無く、ただただニュートラルに我々の日常を描写しています。

例えば日本の伝統として、親の仕事を継ぐ事が良い事だ、子供は社会の中においてこう振舞うべきだという、日本社会全体で共有されている(いた)描写はされていますが、それに対して特別批判するという操作は見られません。むしろこの映画がしている事は、そういう現実を突きつけた上で「あなたはいったいどう思う?」と我々の方に問いかけているのです。その返答如何によって、まるで我々の方が「映画に評価されている」気にさえさせられます。

この映画は横山家のとある一日を描く事で進行して行く訳なのですが、横山家の構成員たちは長男が亡くなったという事に起因する、それぞれに固有の問題を抱え、未だそれらの問題から各自が抜け出せていません。まるで(長男が亡くなった時点で)時間が止まってしまい、各々がグルグルと同じ所を回り続けているかのようです。そのような状況を暗示しているのが「おばあちゃんの家」なんですね。非常に遠く不便で行きにくい所にある、古くて何時まで経っても変わらないその家自体が、冒頭からこれら各々のシチュエーションを暗に指し示しています。

そして冒頭から頻繁に出てくる「料理」の占める位置が結構重要。おばあちゃんの家と同様に、料理は「家族が集まる場所」、もっと言っちゃうと「家族が集まる理由」を暗喩しています。一年の内でバラバラに住んでいる家族が集まるのはお盆くらいで、場所はおばあちゃんの家。そんなおばあちゃんの家で共通の話題、もしくは皆が一同に会す理由(現代社会において家族を微かに引き留めているもの)と言えば、もう食事くらいしか無いという事をこの映画は言いたいんですね。むむむ‥‥監督、良く見ているなー。

更にもう一つ。映画の終盤において、良多と父親(おじいちゃん)が海岸で会話する場面が出てきます。映画の中で彼らが面と向かって話す事はさほど無く、二人の会話が一番長く、印象的なのがこの場面なのですが、その話題が何と野球なんですね。思えば映画の最中に二人が話していた事と言えば、「仕事はどうなんだ?」とか、「ちゃんと生活出来ているのか?」とか、若者が一人立ちしたての頃に交わされると思われる話題ばかりでした。「野球」というのは、それらを代表する話題。つまり彼らの時間は、良多が若かった頃、未だ、野球などに興味があった頃(長男が亡くなったと推定される時)から全く進んでいないという事が言いたい訳なんですね。

さて横山家の人達は、このような「歩いても、歩いても」終わる事の無いメビウスの輪の中に居る訳なのですが、これら登場人物はその役割から2つのグループに分ける事が出来ます。一つ目のグループは良多とその息子あつし。2つ目のグループはそれ以外の人々で構成されます。これら2つのグループがそれぞれどんな役割を持っているかというと、前者が「変わっていこう」とするタイプであり、後者が「変わらない」とするタイプ。

特に良多とあつしは違う社会(家族と学校)の中において、同じ役割を与えられている所などは注目すべきです。

どんな役割か?それはずばり「革新」です。

良多は同じ事を繰り返す家族の中において、「父親と同じ職業にはならない」、「家を継がずに出て行った」、「普通のお嫁さんではなく、バツイチの子持ちをお嫁さんにもらった」など、古い伝統から見ると、到底受け入れられない様な「変わった」立ち位置をし、何時までも変わらない家族の中において、一人だけ変わっていこうという姿勢が見られます。彼が変われないのは、変わっていこうとする彼に対して、家族が「変わるな」と同じ場所へと何時も呼び戻すからです。

一方のあつしの方はというと、冒頭のファミレスでの良多との会話からその立ち位置が伺えます:

良多:「ママから聞いたんだけど、どうしてウサギが死んだ時笑ったの?」
あつし:「だって、友達が、死んだウサギに手紙を書こうって言ったんだ。誰も読まないのに‥‥それが可笑しくって‥‥」


あつしのこの「変わった死生観」が、亡くなった息子に対するおばあちゃんの強い思いなどに触れる内に成長を遂げたと見る事も出来、この映画の主題は「子供の心の成長」と考える事も出来なくは無いのですが、それではちょっと射程が狭すぎる気がしますね。もっと言っちゃうと、あつしは映画の中で特別成長はしていないように僕には思われます。彼は普通の子供と違い、かなり早い時期に父親の死に直面しました。だから、彼は同年代の子に比べてかなり早熟なんですね。多分彼は何度も天国にいる父親に手紙を書いたのでしょう。しかし一度も返事は来なかった。そんな事が分かっているからこそ、「死んだウサギに手紙を書く」という行為が可笑しかったのだと理解出来ます。

あつしというのは、この映画におけるキーパーソンであって、節目節目で大事な事をちらほらと言っています。例えば冒頭、母から「今日だけは良多の事をパパと呼んで」と頼まれるのに対して、はっきりと「嫌だ」と言っていた割には、従兄弟の子供達の前ではちゃんと「パパ」と言っていたり、おじいちゃんに「将来何になりたいんだ?」と聞かれて「ピアノの調教師」と答え、「何でだ?」と聞かれ、「音楽の先生が美人だから」と答える辺りなど、あつしは日本社会の中において、子供というのは「こう振る舞うべきだ」という古い因習を「あえて演じる」役割を担わされています。つまり彼は、自分の「感情」を殺して「慣習」に従わされている象徴として存在している訳なんですね。そしてそれが日本社会の現実であると。

冒頭に書いたように、この映画は我々にこのような現状を突き付けるに留まっています。しかしながら、その裏で暗に、我々にこう問いかけている訳です:

「こんな小さな子供が本当の事を言えない社会、こんな小さな子供にまで嘘をつかせる社会って果たして健全なのか?」と。

さて、映画の中盤辺りから、モンシロチョウが登場します。途中と最後に「何故モンシロチョウは黄色いのか?」という説明が2度も出てくる事、更に映画の終わり近くになって、おばあちゃんがモンシロチョウを息子の生まれ変わりだと思い込んで、狂った様に追いかける事などから、「あ、何か深い意味でもあるのかな?」とか思ってしまいますよね。控えめな表現で埋め尽くされているこの映画にしては珍しく、くどいくらいの「押しの表現」になっています。

先ず、モンシロチョウが亡くなった長男を暗喩しているのは容易に分かる事と思います。「モンシロチョウは最初は白かったんだけど、冬を乗り越えて生き残ると、黄色くなる」という説明のごとく、死(=冬)を通り越した長男が被ったその受難が故に、彼は黄色い(受難を表す色)モンシロチョウに生まれ変わったと言う解釈ですね。(おばあちゃん曰く)

しかしですね、このモンシロチョウは何も長男だけを指しているのではなく、実は横山家の全員を表していると言う所にも注目すべきです。おばあちゃんは必要に、「死という受難」を被った長男を「可哀想」といたわっていますが、長男の死で一番苦しんでいるのは実はその家族なんですね。長男が亡くなってから何十年もの間、出口の無い旅を強いられる事になった彼らこそ、長―い冬を越し、色が変わってしまったモンシロチョウのごとく、心を黄色く濁らせてしまった存在な訳です。

何時まで経っても息子の死を忘れられず、毎年のように義男(長男が助けた子供)を呼び付ける母、跡継ぎを失い解決策が無いまま、完全に定年も出来ない父、長男の抜けた穴を埋めようとするけど、両親に拒絶される妹(不動産問題はそのシンボル化)。そんな堂々巡りの「歩いても、歩いても」一行に出口の見えない旅を続けている内に、彼らの心は黄色くなってしまったと言う訳です。

そんな中において、唯一の例外が良多です。何故なら良太だけが、この家族の中において「もう一度やり直そう」という姿勢が見られるからです。家族から離れる為に家を飛び出し、お嫁さんをもらい独立してやっていこうとする彼の背中を引っ張るもの、それこそ何時までも同じ所をぐるぐると回り続けている家族。彼らに事ある毎に呼び出され、昔話をされる度に、「変わっていこうとする力」が「変わらないとする力」に浸食され、結局何も変わらずに終わっているんですね。

その事をよーく表している逸話が「トウモロコシ泥棒」の思い出話です。隣家から盗んできたトウモロコシを調理していた時、お隣さんがやって来てバツが悪かったと。すると、すかさず良多が「市場で買ったトウモロコシ、お得だったね」みたなフォローを入れ、「そういう所だけは昔から頭が良く回る」と、両親が褒めます。しかし、実際にそのフォローを入れたのは実は長男の方だったんですね。

ココでは何が言いたいのか?つまり、両親は長男の代わりを無意識的に何時も次男に求めていたという暗喩になっている訳です。

しかしそんな良多も映画終盤で両親が亡くなった事で、過去を吹っ切れる事が出来た様です。彼が長い間悩んでいた事、それは両親の長男の代わりになって欲しいという重苦しい思いであり、独立したいのに、事ある毎に実家に呼び戻され、事ある毎に昔を思い出させられる重苦しい空気でした。それらから解放された彼は、今正に生まれ変わったように自由になりました。

それを暗示しているのが、新しく生まれた長女(新しい生まれ変わりみたいな)と、今まで決して買う事の無かった車です(母親は車を買えとくどいくらいに言っていた)。これら二つは、良太が黄色いモンシロチョウから生まれ変わり、白いモンシロチョウになったシンボルだと見る事が出来ます。

さて、ここまでで僕が語った事柄が一撃の下に表されているのが、実は「歩いても、歩いても」のウェブページです:



モンシロチョウが飛んでいます。そして言語を選択すると現れるのがこのページ:



もうお分かりだと思うのですが、これら2枚の絵は一枚目が「苦悩、苦痛、忍耐」などを、二枚目が「革新、変化、希望」などを表しているんですね。一見、「チョウチョが飛んでてキレイ」とか思ってしまいますが、大変意味深な皮肉になっている訳です。そしてこれら2枚の絵が、この映画全体の主題と構想を現しているかと思うと、その絶妙な技に舌を巻かずにはいられません。

良多とあつし。彼らは冒頭に書いたように、違う社会の中において同じ様な役割を担わされています。そして2人共別々の回答を見つけ出しました。しかしながら、そこには「伝統と変化」に対する二人の回答において、世代間の微妙な違いが「慣習と感情」の相違として現れています。

実はココにこの映画が我々に問いかけている(唯一主観的な)微妙な期待が見られるのではないのでしょうか。日本社会は大変閉ざされた社会である。しかしながら、日本社会の未来は我らの子供達(少しずつ開かれた心を持ちつつある)にあるとでも言わんばかりに。

冒頭に書いたように、この映画は唯単に現実を描写し、我々にそれらの問いを突き付けてきます。人間が千差万別な様に、一つの事象に対しての感じ方は人それぞれ。だから、コノ映画が問いかけてくる問題に対する決まった答え、正解などは決してありません。そうではなくて、この映画は我々にそれらの問いに対して「考える事」を促進させるのです。そしてそれらの思考を通して、正に今、この映画が「僕自身」、もしくは「あなた自身」を評価しようとしているのです。
| 映画批評 | 21:38 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
コメント
解釈が深くて読み応えのある映画評ですね。
是枝監督の映画は色々考えさせられますね。
「愛を読む人」の検索でたどりついたのですがこの映画は未見なのですが見たくなりました。
また映画評楽しみにしてます。
| parapanda | 2009/06/29 12:44 AM |
parapandaさん、コメントありがとうございます。
是枝監督作品は、社会的な問題を扱ったものが多いですね。それがヨーロッパで大人気な理由なのかも知れません。

| cruasan | 2009/06/29 6:01 AM |
コメントする