2009.04.13 Monday
映画:愛を読む人(The Reader):恥と罪悪感、感情と公平さについて
この所、バルセロナは連日の雨空。雨、雨、雨。ヨーロッパは現在イースターの真っ最中なので、晴れたらモンセラットやレウスに小旅行にでも行こうと思ってたのに何処にも行けない・・・。しょうが無いから久しぶりに映画館にでも行こうと思い、「何か面白そうな映画やってないかなー」と探していた所、目についたのが「愛を読む人(The Reader)」でした。そう言えば、色んな所で色んな人から「絶対に行った方が良い」と薦められていた事を思い出す。まあ、良い機会だしと思って行って来たのですが、これがナカナカ良かった。少なくとも、久しぶりに映画評を書いてみようかなー、と思わせる程の質は持っていたような気がしました。
と言う訳で何時ものように僕の独断と偏見(笑)で、「愛を読む人」の映画評を書いてみようと思います。
(注意)ここに書くのはあくまでも僕の観点から見た映画解釈なので何時ものようにかなり偏っています(笑)。こういう見方もあるというくらいに思っておいてください。あと、この評ではストーリー展開を詳細に追う訳では無いので、映画をまだ見ていない人が読んでもどうって事は無いと思いますが、まあ、それでも念の為一応:
警告:映画を未だ見ていない人はココで読むのをストップしましょう。
さて、僕が映画を見る時に興味があるのは「この映画では一体何が言いたかったのか?」という映画のテーマです。あらすじの裏に隠された主題ですね。この映画を見終わった時、僕の頭の中に浮かんだ一つの言葉がありました:
言葉は飛び去るが、書かれた文字はとどまる
Verba volant, scripta manet (Words fly away, the Written Remains)
この言葉がこの映画にとって何を意味するのか?は最後にとっておくとして、とりあえず、この映画の主題なのですが、それはずばり「恥と罪悪感」、「感情と正義」だと思いますね。これらの対は映画内で様々な場面で交錯し互いに関連付けられるのですが、この映画はそれらが交差する時空間内において物語が展開されていくという構成を取っています。そしてそれらの物語が語られるのは常にマイケルの口(言葉)からであり、マイケルの視点からだという事もココで付け加えておいても良いと思います。
さて、ここからこの映画を論ずる為に必要最低限のあらすじを導入したいと思います。以下のあらすじは「愛を読む人」の公式サイトからコピーしてきたものだという事をお断りしておきます:
1958 年ドイツ。15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は気分の悪くなったところを21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられたことから、二人はベッドを共にするようになる。
やがて、ハンナは本の朗読を頼むようになり、マイケルは会うたびに様々な本を読んで聞かせるのだった。
ゲーテ、チェーホフ、ヘミングウェイ・・・彼女に読んだ本の数々。二人で出かけた自転車旅行・・・初めての大人の恋にのめり込むマイケルだったが、ある日ハンナは彼の前から突然姿を消してしまう。
時は流れて、ハンナとの出会いから20年後。
結婚と離婚を経験したマイケル(レイフ・ファインズ)は、様々な想いを胸に、ハンナの最後の“朗読者”になることを決心し、彼女の服役する刑務所に朗読を吹き込んだテープを送り始める・・・。
この映画の主人公、ハンナは読み書きが出来ないという設定になっていて、その事が一つのキーワードになって物語が展開していきます。ここがこの映画の非常に巧い所であり、絶妙な所なのですが、「読み書きの出来ないハンナ」という設定がこの映画に決定的な影響力を与えていると言っても過言では無いと思います。
ハンナはマイケルと出会う前、ナチで大量虐殺に関わっていた人間でした。そして人を殺したという事に罪悪感を持っていなかった。正確に言うと罪悪感を持つ事を「(最初は)意識的に、後に無意識的に避けていた」んですね。
どうやってか?
身近な人間に本を朗読させる事によって、その人(現実世界)を通してファンタジーの世界(本の物語世界)へと入り込む事によって、現実世界を直視する事を避けていました。
しかしココで問題が一つ発生します。本を朗読する人と一定期間時間を共にすると、そこに感情が生まれ、その感情が彼女を現実世界へと引きずり込むという問題が発生してきました。それを回避する為に彼女が選んだ方法は、一定期間毎に朗読者を取り替える事でした。これが彼女が収容所で次々に女性を取り替えた(死刑台に送った)理由でもあった訳です。
彼女が読み書きが出来ない理由は映画内では明らかにされてはいません。しかし「読み書きが出来ない事」が現実世界からの逃避、すなわち、罪悪感からの逃避を暗示している事は明らかだと思います。そしてこの「逃避」が二つ目の重要な要素、「恥」と交差する場面が映画中盤のハンナの裁判の場面です。
ハンナは「読み書きが出来ない」という事を死ぬほど恥じる価値観を持った女性でした。どれくらいかというと、人を何百人も殺したという罪悪感を上回るよりも、ずーっと重い価値観をそこに置いていたんですね。
価値観というのは人によって千差万別で、ある人にとっては些細な事でも、別の人にとっては凄く重要な事だったりします。何故なら僕達の社会は多様性に満ち、多様な価値観を享受する社会だからです。だから彼女の価値観をあーだ、こーだというつもりは毛頭ありません。そしてこの映画において彼女の価値観がどうのこうのと言う事はあまり重要では無いし、映画の本質には何の関わりも無いように思います。重要な事は以下の問いです。
彼女は本当に読み書きが出来ないという事を恥じていたのか?
彼女は実はそれを恥じていたのでは無いのです。彼女が本当に恥じていたのは「沢山の人を殺めた」という事実だったのです。しかし彼女はその重圧に耐えられず現実を直視出来ないが故に、「読み書きが出来ない」という事を自分の最も恥じている事に「仕立て上げ」、自分が本当に恥じている事の上に置く事によって、本当の恥を隠そうとしたのです。だから、実は彼女が恥じる事は「読み書きが出来ない」事であったって、「髪の毛が金髪である」事であったって、「シワが多い事」であったって、何だって良かったんです。重要な事は本当の恥を「捏造された恥」によって隠す事だったんですね。
さて、このハンナの裁判にはこの映画のもう一つのテーマである「感情と正義」が盛り込まれています。感情と正義、これら2つの要素というのは本来、独立して存在するべき要素です。しかし我々の現実世界ではこれら2つがまぜこぜにされ、分ける事はほぼ不可能に近いんですね。戦後、ドイツ国民の間に広がった、ある種の罪悪感、「ナチを生んでしまった」という罪悪感は、ナチが何をしたのかに関わらず、いきなり「ナチは悪い。だから撲滅しろ」という感情へと変わっていきました。ここで「感情と正義の葛藤」がマイケルの心情の葛藤として描かれています。マイケルは当然の事ながら彼女に「何らかの感情」を抱いています。ポイントはこの時、マイケルが抱いている感情が「彼女の事が好きなのか?」、「憎んでいるのか?」何なのかはっきりとしないという所なんですね。その一方で、彼は彼にしか知りえない彼女についての情報、「彼女は読み書きが出来ない」という情報を裁判官に伝え、彼女を擁護するという選択支も与えられていました。これは勿論、「正義」の暗喩です。
ここでもし彼が「正義」を取るのならば、この情報を裁判官に伝えるという決断を取ったはずです。しかしながら、彼はそうはしませんでした。彼は結局、自分の感情を正義の上に置いたんですね。つまり彼女は「罪を償うべきだ」というドイツ国民全体が感じていた集団的感情と同様に。
これは如何に我々の社会において正義と感情をわける事が難しいかという事を指し示しています。そしてココにおいて、映画監督は我々にこう問いかけている訳です:我々の社会におけるモラルとは何か?平等とは何か?正義とは一体何なのか?と。
さて、映画の後半部分、非常に重要な転機が彼女に訪れます。彼から送られてきたテープに刺激されて読み書きを覚えるように努力を始めたのです。ここがこの映画の一番の見所であり、感動する所だというのが一般の見解かなー、と思います、こんな感じで:
「あー、彼の情熱に答えて、読み書きを覚え、彼に愛していると言いたいのね」。もしくは「あー、彼の盲目の愛に打たれて、彼女もとうとう良い人間になる事を決意したのね」みたいな。
悪くは無いけど、僕はちょっと違う事を考えていました。彼女が読み書きを覚え始めたというのは、彼女が現実世界に接近してきた暗喩なんですね。今まで彼女は読み書きが出来ない事によって、ファンタジーの世界に生きていました。しかしそんな彼女も読み書きを覚える事によって、現実を少しずつ直視するようになってきたのです。
現実を直視するようになってきたという事は、それまで隠されていた本当の恥、沢山の人を殺めてしまったという罪悪感を直視し始めた事を意味します。それを裏付けるかのような発言が彼女の世話人の口から説明されています:
「彼女は入所した頃は本当に自発的に仕事をこなしていたわ。でも、最後の数年間は自室に閉じこもる事も多く、暗かった・・・」(はっきりと台詞を覚えている訳では無いのですが、確かこんな感じだったと思います)
つまり文字を覚えれば覚える程、彼女は現実世界を直視するようになっていったので、それだけ罪悪感が増していったという事です。そしてその罪悪感がピークに達したが故に彼女は自殺してしまったのです。
ハンナはこのように、彼女の長ーい人生の大半をかけて、彼女にとっての「恥」、そして「罪悪感」からの逃避と現実との直面との間の闘争を続けてきた訳なんですが、それは彼女の自殺という行為を持って、成就した(現実を直視する事が出来るようになった)と見なす事が出来ます。一方で、マイケルの方も、彼の生涯を悩ましてきた「感情と正義」そして「罪悪感」、これらの葛藤からの開放を暗示しているのが、物語の一番最後で、誰にも言わなかった過去を彼の娘に口述するという行為なんですね。
そしてこれら、ある種の「自分探しの旅」を暗喩しているのが、彼が彼女に何度も朗読した「オデュッセイア」なのです。オデュッセイアとは勿論、ギリシャ神話の物語なのですが、その中でオデュッセウスが乗った船が遭難し、長い長い旅の末、元の家に行き着くという物語です。この物語では船の遭難と心の遭難とが重ね合わされ、旅という形式を取って自分探しをするという2重の旅が展開されているのですが、勿論これは、ハンナとマイケルの自分探しの旅を暗喩しているのです。
さて、この評の最初にラテン語の散文を引用したのですが、それはそのままこの映画を物語っているように思います。
マイケルは言葉によって彼女に語り掛けてきたのですが、物語の最初から最後まで、常に何らかの変化を引き起こしたのは「書く事」によってだという事に気が付きましたか?
この映画には様々な対が出てくるのですが、その一つがこの「言葉」と「書く事」という対なんですね。言葉というのは「書く事」に比べて非常に弱い性質を持っています。このテーマは、はるか昔から論じられてきた所であって、特に目新しい主題では無いのですが、この映画では「言葉」をマイケルが、「書く事」をハンナが担っているんですね。そして「書く事」(ハンナ)というのは常に言葉(マイケル)よりも上位に置かれています。彼女の罪を決定したのは「書かれた文書」でしたし、彼にもっとテープを送ってくれと要求(命令)したのも「手紙」でしたよね。
そしてもう1つ重要だと思われる点がハンナとマイケルの役割についてです。この映画の主人公はハンナです(マイケルではありません)。ではマイケルとは一体何者なのか?
その答えはこの物語がどのように始まったか?をよーく思い出してみれば分かると思います。この物語はマイケルの語り口によって展開して行っています。つまりこの映画はマイケルの視点から見た物であって、それは同時にマイケルが知り得る所までしか、我々は知る事が出来ないという事を表しているんですね。つまりハンナが本当は何を考えていたのか?などは我々には知る事が出来ないのです。(これは謎などを作る時に頻繁に使われる文学(特に黒文学)のテクニックですね)
この意味においてマイケルは正に「朗読者」なのです。タイトルの朗読者とは何も映画内でマイケルがハンナに物語を読んで聞かせるという事だけを指していたのではなく、物語の進行をも彼の口が語るという事をも指し示していた訳なんです。
ちょっと長くなっちゃったなー。
物語の進行も良いし、様々に散りばめられたシンボルの扱いも面白い。そして何より色んな事について考えさせられる映画でした。
と言う訳で何時ものように僕の独断と偏見(笑)で、「愛を読む人」の映画評を書いてみようと思います。
(注意)ここに書くのはあくまでも僕の観点から見た映画解釈なので何時ものようにかなり偏っています(笑)。こういう見方もあるというくらいに思っておいてください。あと、この評ではストーリー展開を詳細に追う訳では無いので、映画をまだ見ていない人が読んでもどうって事は無いと思いますが、まあ、それでも念の為一応:
警告:映画を未だ見ていない人はココで読むのをストップしましょう。
さて、僕が映画を見る時に興味があるのは「この映画では一体何が言いたかったのか?」という映画のテーマです。あらすじの裏に隠された主題ですね。この映画を見終わった時、僕の頭の中に浮かんだ一つの言葉がありました:
言葉は飛び去るが、書かれた文字はとどまる
Verba volant, scripta manet (Words fly away, the Written Remains)
この言葉がこの映画にとって何を意味するのか?は最後にとっておくとして、とりあえず、この映画の主題なのですが、それはずばり「恥と罪悪感」、「感情と正義」だと思いますね。これらの対は映画内で様々な場面で交錯し互いに関連付けられるのですが、この映画はそれらが交差する時空間内において物語が展開されていくという構成を取っています。そしてそれらの物語が語られるのは常にマイケルの口(言葉)からであり、マイケルの視点からだという事もココで付け加えておいても良いと思います。
さて、ここからこの映画を論ずる為に必要最低限のあらすじを導入したいと思います。以下のあらすじは「愛を読む人」の公式サイトからコピーしてきたものだという事をお断りしておきます:
1958 年ドイツ。15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は気分の悪くなったところを21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられたことから、二人はベッドを共にするようになる。
やがて、ハンナは本の朗読を頼むようになり、マイケルは会うたびに様々な本を読んで聞かせるのだった。
ゲーテ、チェーホフ、ヘミングウェイ・・・彼女に読んだ本の数々。二人で出かけた自転車旅行・・・初めての大人の恋にのめり込むマイケルだったが、ある日ハンナは彼の前から突然姿を消してしまう。
時は流れて、ハンナとの出会いから20年後。
結婚と離婚を経験したマイケル(レイフ・ファインズ)は、様々な想いを胸に、ハンナの最後の“朗読者”になることを決心し、彼女の服役する刑務所に朗読を吹き込んだテープを送り始める・・・。
この映画の主人公、ハンナは読み書きが出来ないという設定になっていて、その事が一つのキーワードになって物語が展開していきます。ここがこの映画の非常に巧い所であり、絶妙な所なのですが、「読み書きの出来ないハンナ」という設定がこの映画に決定的な影響力を与えていると言っても過言では無いと思います。
ハンナはマイケルと出会う前、ナチで大量虐殺に関わっていた人間でした。そして人を殺したという事に罪悪感を持っていなかった。正確に言うと罪悪感を持つ事を「(最初は)意識的に、後に無意識的に避けていた」んですね。
どうやってか?
身近な人間に本を朗読させる事によって、その人(現実世界)を通してファンタジーの世界(本の物語世界)へと入り込む事によって、現実世界を直視する事を避けていました。
しかしココで問題が一つ発生します。本を朗読する人と一定期間時間を共にすると、そこに感情が生まれ、その感情が彼女を現実世界へと引きずり込むという問題が発生してきました。それを回避する為に彼女が選んだ方法は、一定期間毎に朗読者を取り替える事でした。これが彼女が収容所で次々に女性を取り替えた(死刑台に送った)理由でもあった訳です。
彼女が読み書きが出来ない理由は映画内では明らかにされてはいません。しかし「読み書きが出来ない事」が現実世界からの逃避、すなわち、罪悪感からの逃避を暗示している事は明らかだと思います。そしてこの「逃避」が二つ目の重要な要素、「恥」と交差する場面が映画中盤のハンナの裁判の場面です。
ハンナは「読み書きが出来ない」という事を死ぬほど恥じる価値観を持った女性でした。どれくらいかというと、人を何百人も殺したという罪悪感を上回るよりも、ずーっと重い価値観をそこに置いていたんですね。
価値観というのは人によって千差万別で、ある人にとっては些細な事でも、別の人にとっては凄く重要な事だったりします。何故なら僕達の社会は多様性に満ち、多様な価値観を享受する社会だからです。だから彼女の価値観をあーだ、こーだというつもりは毛頭ありません。そしてこの映画において彼女の価値観がどうのこうのと言う事はあまり重要では無いし、映画の本質には何の関わりも無いように思います。重要な事は以下の問いです。
彼女は本当に読み書きが出来ないという事を恥じていたのか?
彼女は実はそれを恥じていたのでは無いのです。彼女が本当に恥じていたのは「沢山の人を殺めた」という事実だったのです。しかし彼女はその重圧に耐えられず現実を直視出来ないが故に、「読み書きが出来ない」という事を自分の最も恥じている事に「仕立て上げ」、自分が本当に恥じている事の上に置く事によって、本当の恥を隠そうとしたのです。だから、実は彼女が恥じる事は「読み書きが出来ない」事であったって、「髪の毛が金髪である」事であったって、「シワが多い事」であったって、何だって良かったんです。重要な事は本当の恥を「捏造された恥」によって隠す事だったんですね。
さて、このハンナの裁判にはこの映画のもう一つのテーマである「感情と正義」が盛り込まれています。感情と正義、これら2つの要素というのは本来、独立して存在するべき要素です。しかし我々の現実世界ではこれら2つがまぜこぜにされ、分ける事はほぼ不可能に近いんですね。戦後、ドイツ国民の間に広がった、ある種の罪悪感、「ナチを生んでしまった」という罪悪感は、ナチが何をしたのかに関わらず、いきなり「ナチは悪い。だから撲滅しろ」という感情へと変わっていきました。ここで「感情と正義の葛藤」がマイケルの心情の葛藤として描かれています。マイケルは当然の事ながら彼女に「何らかの感情」を抱いています。ポイントはこの時、マイケルが抱いている感情が「彼女の事が好きなのか?」、「憎んでいるのか?」何なのかはっきりとしないという所なんですね。その一方で、彼は彼にしか知りえない彼女についての情報、「彼女は読み書きが出来ない」という情報を裁判官に伝え、彼女を擁護するという選択支も与えられていました。これは勿論、「正義」の暗喩です。
ここでもし彼が「正義」を取るのならば、この情報を裁判官に伝えるという決断を取ったはずです。しかしながら、彼はそうはしませんでした。彼は結局、自分の感情を正義の上に置いたんですね。つまり彼女は「罪を償うべきだ」というドイツ国民全体が感じていた集団的感情と同様に。
これは如何に我々の社会において正義と感情をわける事が難しいかという事を指し示しています。そしてココにおいて、映画監督は我々にこう問いかけている訳です:我々の社会におけるモラルとは何か?平等とは何か?正義とは一体何なのか?と。
さて、映画の後半部分、非常に重要な転機が彼女に訪れます。彼から送られてきたテープに刺激されて読み書きを覚えるように努力を始めたのです。ここがこの映画の一番の見所であり、感動する所だというのが一般の見解かなー、と思います、こんな感じで:
「あー、彼の情熱に答えて、読み書きを覚え、彼に愛していると言いたいのね」。もしくは「あー、彼の盲目の愛に打たれて、彼女もとうとう良い人間になる事を決意したのね」みたいな。
悪くは無いけど、僕はちょっと違う事を考えていました。彼女が読み書きを覚え始めたというのは、彼女が現実世界に接近してきた暗喩なんですね。今まで彼女は読み書きが出来ない事によって、ファンタジーの世界に生きていました。しかしそんな彼女も読み書きを覚える事によって、現実を少しずつ直視するようになってきたのです。
現実を直視するようになってきたという事は、それまで隠されていた本当の恥、沢山の人を殺めてしまったという罪悪感を直視し始めた事を意味します。それを裏付けるかのような発言が彼女の世話人の口から説明されています:
「彼女は入所した頃は本当に自発的に仕事をこなしていたわ。でも、最後の数年間は自室に閉じこもる事も多く、暗かった・・・」(はっきりと台詞を覚えている訳では無いのですが、確かこんな感じだったと思います)
つまり文字を覚えれば覚える程、彼女は現実世界を直視するようになっていったので、それだけ罪悪感が増していったという事です。そしてその罪悪感がピークに達したが故に彼女は自殺してしまったのです。
ハンナはこのように、彼女の長ーい人生の大半をかけて、彼女にとっての「恥」、そして「罪悪感」からの逃避と現実との直面との間の闘争を続けてきた訳なんですが、それは彼女の自殺という行為を持って、成就した(現実を直視する事が出来るようになった)と見なす事が出来ます。一方で、マイケルの方も、彼の生涯を悩ましてきた「感情と正義」そして「罪悪感」、これらの葛藤からの開放を暗示しているのが、物語の一番最後で、誰にも言わなかった過去を彼の娘に口述するという行為なんですね。
そしてこれら、ある種の「自分探しの旅」を暗喩しているのが、彼が彼女に何度も朗読した「オデュッセイア」なのです。オデュッセイアとは勿論、ギリシャ神話の物語なのですが、その中でオデュッセウスが乗った船が遭難し、長い長い旅の末、元の家に行き着くという物語です。この物語では船の遭難と心の遭難とが重ね合わされ、旅という形式を取って自分探しをするという2重の旅が展開されているのですが、勿論これは、ハンナとマイケルの自分探しの旅を暗喩しているのです。
さて、この評の最初にラテン語の散文を引用したのですが、それはそのままこの映画を物語っているように思います。
マイケルは言葉によって彼女に語り掛けてきたのですが、物語の最初から最後まで、常に何らかの変化を引き起こしたのは「書く事」によってだという事に気が付きましたか?
この映画には様々な対が出てくるのですが、その一つがこの「言葉」と「書く事」という対なんですね。言葉というのは「書く事」に比べて非常に弱い性質を持っています。このテーマは、はるか昔から論じられてきた所であって、特に目新しい主題では無いのですが、この映画では「言葉」をマイケルが、「書く事」をハンナが担っているんですね。そして「書く事」(ハンナ)というのは常に言葉(マイケル)よりも上位に置かれています。彼女の罪を決定したのは「書かれた文書」でしたし、彼にもっとテープを送ってくれと要求(命令)したのも「手紙」でしたよね。
そしてもう1つ重要だと思われる点がハンナとマイケルの役割についてです。この映画の主人公はハンナです(マイケルではありません)。ではマイケルとは一体何者なのか?
その答えはこの物語がどのように始まったか?をよーく思い出してみれば分かると思います。この物語はマイケルの語り口によって展開して行っています。つまりこの映画はマイケルの視点から見た物であって、それは同時にマイケルが知り得る所までしか、我々は知る事が出来ないという事を表しているんですね。つまりハンナが本当は何を考えていたのか?などは我々には知る事が出来ないのです。(これは謎などを作る時に頻繁に使われる文学(特に黒文学)のテクニックですね)
この意味においてマイケルは正に「朗読者」なのです。タイトルの朗読者とは何も映画内でマイケルがハンナに物語を読んで聞かせるという事だけを指していたのではなく、物語の進行をも彼の口が語るという事をも指し示していた訳なんです。
ちょっと長くなっちゃったなー。
物語の進行も良いし、様々に散りばめられたシンボルの扱いも面白い。そして何より色んな事について考えさせられる映画でした。