2009.04.04 Saturday
オリオル・ボイーガス(Oriol Bohigas)による伊東豊雄批判について思う事:バルセロナ国際見本市会場(Fira Barcelona)とSuite Avenue
以前のエントリ(バルセロナにて村上春樹氏による講演会:地中海ブログ)で少しだけ触れたのですが、現在バルセロナにあるカサ・アジア(Casa Asia)という機関において日本人建築家の伊東豊雄さんの展覧会が開かれています。この展覧会では伊東さんがバルセロナで先日完成させた2つの建築を主に扱っています。
一つ目は、バルセロナが戦略的な都市発展に向けて位置付けているエリア(Hospitalet)の核となる施設、バルセロナ国際見本市会場(Fira Barcelona)。全体が完成した暁には赤色が印象的な2本の塔がお目見えする事となっています。
もう一つはバルセロナの目抜き通り、グラシア通り(Passeig de Gracia)にオープンした一風変わったホテル(Suite Avenue)のファサード改修計画。
さて、そんな今や世界中で大人気のスター建築家になってしまった感のある伊東豊雄さんの建築なのですが、先週,
スペイン建築界の重鎮オリオル・ボイーガス(Oriol Bohigas)による「最近の建築界の脆弱ぶりに一言モノ申す」みたいな記事(El Pais, 1 de Abril, 2009, p2)が新聞に載っていました。その矛先を向けられたのが、何を隠そう我らが伊東さんの展覧会と新しいホテル。
ボイーガスというのは基本的に正統なモダニストの立場を守っていくという文化人ですから、従来のモダニストの建築言語やコンセプトにそぐわない建築には大変厳しい目を持っているようです。伊東さんが目の前にあるカサ・ミラ(La Pedrera)を引用して、「ガウディに応えるようにデザインした」と言っているのも気に入らないみたい。
「あのグニャグニャしたファサードは社会文化を表しているのでも無ければ、芸術的な価値があるのかどうかも疑問」と結構手厳しい。何より許せないのが、建築が都市のマーケティングに利用されている事らしいです。つまり都市が「良いイメージ」を売る為にスター建築家を雇い、建築家の側も一般人の気を惹く為に何の脈略も無く派手なファサードを生産するという共犯関係。正に僕が長い間論じてきた「広告としての建築・都市論」ですね。
うーん、まあ、ボイーガスの言いたい事も分からないでも無いけど、個人的な意見としては、そこまで言う程この建築は悪くは無いと思う。何より僕が大変に気になったのは、果たしてボイーガスの言うように本当にコノ建築は何も表してはいないのか?という点です。
僕はちょっと違う意見を持っていて、確かにあの建築は都市に住む人々の共同体的なモノは表していないのかも知れない。しかし、グローバリゼーション時代における現代都市の住民というのは、何も一般市民だけを指すのでは無さそうだという事を理解しておく必要があるかと思います。そしてそんな状況下では「現代都市の無意識」は何処に向いているのか?といったら明らかに観光だと思います。何度も論じてきたように、今や現代都市の諸現象はそのほとんどが観光の周りに起こっているんですね。
そしてそういう観点で見るならば、あの建築は僕らの社会の一側面を鋭く表しているように思えます。何故なら「派手である事」こそ、今の都市が求めている事であり、観光客が写真に収めたいと思っている事なのだから。
誤解してもらっては困るけど、別に僕はそれが良い事だとは言っていません。良い事なのか悪い事なのか、はっきり言って判断に迷っている所です。しかし、それらの現象(観光とそれに伴う諸問題)が我々の都市のリアリティの一部であるという事は紛れも無い事実です。
ボイーガスはあの建築を「表層的で大衆的だ」と皮肉っていますが、正にそれらの言葉こそ、我々の時代、グローバリズム化された社会を表す言葉なのでは無いのでしょうか?
ずっと前に森川嘉一郎さんが言われていた事に、「今の社会にはアバンギャルドは存在しない。何故ならアンチ権力(アバンギャルド)が存在する為には、反抗すべき大きな物語が存在しなければならず、そんなものは今や何処にもないからだ。そんな状況下では建築家が表すべき大きな物語(国家や社会など)は存在しえず、何かを表そうとすれば、必然的に個人的趣味に頼らなければ無くなる」みたいな事を書かれていました。その一つの例証としてグッゲンハイムを挙げられていた(つまり一見アバンギャルドに見えるあの建築が表しているのはバスク地方の共同体などではなくて、単なるゲーリーの気分みたいな)のですが、「僕はそれは大変日本的な視点だと思う」という事を以前書いたんですね。日本から見たら、ゲーリーは個人的趣味であのようなグニャグニャを作った様に見えるかも知れないけど、ヨーロッパ的視点から見たら、アレは観光という都市の無意識を非常に鮮明に表した建築家の回答ではないのか?という事を書きました。何故なら建築家とは「人々が無意識下に感じていながらもナカナカ形に出来なかった事を一撃の下に表す行為だから」です。
今回の伊東さんのホテルとボイーガスの批判を見ていて、それらがそのまま当てはまるんじゃないのかなー?と思ってしまいました。
しかし今回の件で僕が一番に評価したいのは、伊東さんの建築家、いや人間としての器の大きさです。バルセロナ国際見本市会場を含め、あのような大変装飾的なデザインをするのは建築家としては非常に危険な「賭け」だと思います。
何か新しい事や普通じゃない事を始めるという事は、回りから非難される事を意味します。出る杭は必ず打たれます。それを敢えて分かった上でやるというのは、とても勇気のいる事です。何よりも、既にある程度の世界的名声を確立したんだから、今までのスタイルで守りに入ればいいのに、彼は別の道をワザワザ選んでいる。
「人間、何時如何なる時も、これくらいの勇気を持って生きてみろ!何時までも「革新」という精神を保ち続ける事が出来るか?」と問い掛けられているかのようです。
なんか、今日は伊東さん擁護論みたいになっちゃったけど、決して僕は彼の回し者ではありませんので(笑)。
一つ目は、バルセロナが戦略的な都市発展に向けて位置付けているエリア(Hospitalet)の核となる施設、バルセロナ国際見本市会場(Fira Barcelona)。全体が完成した暁には赤色が印象的な2本の塔がお目見えする事となっています。
もう一つはバルセロナの目抜き通り、グラシア通り(Passeig de Gracia)にオープンした一風変わったホテル(Suite Avenue)のファサード改修計画。
さて、そんな今や世界中で大人気のスター建築家になってしまった感のある伊東豊雄さんの建築なのですが、先週,
スペイン建築界の重鎮オリオル・ボイーガス(Oriol Bohigas)による「最近の建築界の脆弱ぶりに一言モノ申す」みたいな記事(El Pais, 1 de Abril, 2009, p2)が新聞に載っていました。その矛先を向けられたのが、何を隠そう我らが伊東さんの展覧会と新しいホテル。
ボイーガスというのは基本的に正統なモダニストの立場を守っていくという文化人ですから、従来のモダニストの建築言語やコンセプトにそぐわない建築には大変厳しい目を持っているようです。伊東さんが目の前にあるカサ・ミラ(La Pedrera)を引用して、「ガウディに応えるようにデザインした」と言っているのも気に入らないみたい。
「あのグニャグニャしたファサードは社会文化を表しているのでも無ければ、芸術的な価値があるのかどうかも疑問」と結構手厳しい。何より許せないのが、建築が都市のマーケティングに利用されている事らしいです。つまり都市が「良いイメージ」を売る為にスター建築家を雇い、建築家の側も一般人の気を惹く為に何の脈略も無く派手なファサードを生産するという共犯関係。正に僕が長い間論じてきた「広告としての建築・都市論」ですね。
うーん、まあ、ボイーガスの言いたい事も分からないでも無いけど、個人的な意見としては、そこまで言う程この建築は悪くは無いと思う。何より僕が大変に気になったのは、果たしてボイーガスの言うように本当にコノ建築は何も表してはいないのか?という点です。
僕はちょっと違う意見を持っていて、確かにあの建築は都市に住む人々の共同体的なモノは表していないのかも知れない。しかし、グローバリゼーション時代における現代都市の住民というのは、何も一般市民だけを指すのでは無さそうだという事を理解しておく必要があるかと思います。そしてそんな状況下では「現代都市の無意識」は何処に向いているのか?といったら明らかに観光だと思います。何度も論じてきたように、今や現代都市の諸現象はそのほとんどが観光の周りに起こっているんですね。
そしてそういう観点で見るならば、あの建築は僕らの社会の一側面を鋭く表しているように思えます。何故なら「派手である事」こそ、今の都市が求めている事であり、観光客が写真に収めたいと思っている事なのだから。
誤解してもらっては困るけど、別に僕はそれが良い事だとは言っていません。良い事なのか悪い事なのか、はっきり言って判断に迷っている所です。しかし、それらの現象(観光とそれに伴う諸問題)が我々の都市のリアリティの一部であるという事は紛れも無い事実です。
ボイーガスはあの建築を「表層的で大衆的だ」と皮肉っていますが、正にそれらの言葉こそ、我々の時代、グローバリズム化された社会を表す言葉なのでは無いのでしょうか?
ずっと前に森川嘉一郎さんが言われていた事に、「今の社会にはアバンギャルドは存在しない。何故ならアンチ権力(アバンギャルド)が存在する為には、反抗すべき大きな物語が存在しなければならず、そんなものは今や何処にもないからだ。そんな状況下では建築家が表すべき大きな物語(国家や社会など)は存在しえず、何かを表そうとすれば、必然的に個人的趣味に頼らなければ無くなる」みたいな事を書かれていました。その一つの例証としてグッゲンハイムを挙げられていた(つまり一見アバンギャルドに見えるあの建築が表しているのはバスク地方の共同体などではなくて、単なるゲーリーの気分みたいな)のですが、「僕はそれは大変日本的な視点だと思う」という事を以前書いたんですね。日本から見たら、ゲーリーは個人的趣味であのようなグニャグニャを作った様に見えるかも知れないけど、ヨーロッパ的視点から見たら、アレは観光という都市の無意識を非常に鮮明に表した建築家の回答ではないのか?という事を書きました。何故なら建築家とは「人々が無意識下に感じていながらもナカナカ形に出来なかった事を一撃の下に表す行為だから」です。
今回の伊東さんのホテルとボイーガスの批判を見ていて、それらがそのまま当てはまるんじゃないのかなー?と思ってしまいました。
しかし今回の件で僕が一番に評価したいのは、伊東さんの建築家、いや人間としての器の大きさです。バルセロナ国際見本市会場を含め、あのような大変装飾的なデザインをするのは建築家としては非常に危険な「賭け」だと思います。
何か新しい事や普通じゃない事を始めるという事は、回りから非難される事を意味します。出る杭は必ず打たれます。それを敢えて分かった上でやるというのは、とても勇気のいる事です。何よりも、既にある程度の世界的名声を確立したんだから、今までのスタイルで守りに入ればいいのに、彼は別の道をワザワザ選んでいる。
「人間、何時如何なる時も、これくらいの勇気を持って生きてみろ!何時までも「革新」という精神を保ち続ける事が出来るか?」と問い掛けられているかのようです。
なんか、今日は伊東さん擁護論みたいになっちゃったけど、決して僕は彼の回し者ではありませんので(笑)。