地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
映画評:ゴヤ賞受賞作品:Pa Negre:人間は人間にとっての狼である
以前のエントリでお伝えした様に、今年のゴヤ賞はカタルーニャ発の映画、「Pa Negre」が主演男優賞や監督賞など、計9部門を制覇すると言う、殆ど独占状態と言う結果に終わりました(地中海ブログ:速報:スペイン版アカデミー賞であるゴヤ賞(2011年)の発表:今年の大賞はPa Negre)。

 

このゴヤ賞の発表以来、日本人、スペイン人含め、各方面から「是非見て感想聞かせてー」みたいな声が驚く程沢山来てて、最初の内は、「あー、又その内ねー」みたいな感じでかわしてたんだけど、最近そのプレッシャーが凄いの何のって。特にカタラン人とか(苦笑)。カタルーニャが舞台、しかもスペイン市民戦争が絡んでるので、カタラン人達が興味津々なのは分からないでも無いけど、最近忙しいんですよー、本当に!

まあ、それでも気分転換には良いかなと思いつつ、週末は予定ぎっちりだったので、平日の夜中に映画館へ足を運んで観てきたんですね。で、どうだったかと言うと、これが意外にも面白かった!いや、本当に期待とか全然して無かったんだけど、最近見た映画の中では断トツ、ここ2―3年観てきた映画の中でも、「薆を読む人」並みに良かったんじゃないかな(地中海ブログ:映画:愛を読む人(The Reader):恥と罪悪感、感情と公平さについて)。

と言う訳で今回も僕の独断と偏見を十二分に発揮して、至極勝手な映画評を書いてみようと思うんだけど、その前に何時もの様に一言:

警告:ネタバレになる危険があるので、映画を未だ見てない人はここで読むのをストップしましょう。


 

この映画を見終わった直後、僕の頭の中には一つの言葉が浮かび上がってきました:

“Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」

この言葉はローマ時代の劇作家であるプラウトゥス(Titus Maccius Plautus)によって発せられ、後に17世紀のイギリスの哲学者であり政治思想家でもあるトーマス・ホッブスによって広められたものなんだけど、今回の映画の本質って言うのは、この言葉の中に全て詰まってるんじゃないのかな?と思うんですね。そしてこれこそがこの映画の主題でもあると思うんだけど、それはずばり、「人間は誰でも悪魔に成り得る可能性をもっている」と言う事だろうと思います。

まあ、このテーマ自体はギリシャ喜劇以来、文学や映画、そして音楽など媒体を変えて繰り返し語られてきたテーマでもあって、はっきり言って「最も典型的で人気のある主題の一つ」と言えると思うんだけど、それを追求する為にスペイン市民戦争の傷跡が未だ癒えない1940年代のカタルーニャを舞台に描いたって所がこの映画の一つの特徴かなと思います。

そして実はここが結構大事なポイント。

スペインにおいてスペイン市民戦争って言うテーマは、それこそ繰り返し繰り返し語られてきたテーマで社会文化的にも大変重要なテーマだとは思うんだけど、それを示すかの様に、書店なんかに行くと、それこそ数限り無い程の研究書や小説なんかが並んでたりする訳ですよ。で、勿論それらを題材に今まで数多くの映画も創られてきたんだけど、それらの殆どって言うのは、スペイン市民戦争の背景やコンテクスト、細部なんかを忠実に再現する事に拘った、「スペイン市民戦争を描き出す為の映画」が殆どだったと思うんですね。

だから今回のPa Negreが「1940年代を舞台にした映画が創られた」って言うフレコミと共に発表された時、この事を聞いた多くのスペイン人達の反応って言うのは、「あー、又、戦争物ね」って言う意見が大半だったのでは?と思います。と言うか現にそうでした。

しかしですね、この映画がちょっと変わっていた所、それは、この映画にとって「市民戦争と言う舞台」はそれ程重要性を与えられてはいないと言う所なんです。もっと言っちゃうと、舞台は別にカタルーニャのポスト市民戦争時代じゃ無くても良かったのでは?と思うんですよね。その証拠に、この映画には、舞台となっている村や時代設定の詳細な説明なんかは一切出てこなくて、出てくるのは常に断片的な情報だけ。僕達はこの映画の舞台の全体像は愚か、この村が何処の村なのか?どう言う人達が住んでいるのか?どういう政治的なポジションをとっているのか?など、全く知らされる事はありません。

何故か?

それには2つの理由があって、一つには上にも書いた様に、この映画にとって一番重要なのは、この映画が語りたい「テーマ」であって、「コンテクストや舞台ではない」と言う事が挙げられます。スペイン市民戦争と言う舞台は、あくまでもテーマを語りたいが為に選び出された背景であり、それはテーマを語る為の道具に過ぎないと言う点が、今までのディテールを描き出す事を目的とした戦争物とは明らかに違う点となっています。

そしてもう一つの点は、この映画の構造と関わってくるんだけど、それはこの映画が「推理小説的な構造を採用している」と言う点にあります。その事が良く分かるのが、「一体この映画はどの様に語られているのか?」を考えた時なんだけど、言い方を変えれば、「我々は一体どの様にこの物語を理解して行っているのか?」と言う事なんですね。

そう考えた時、僕達が知り得る情報と言うのは、実は「主人公の男の子が知っている情報だけ」であって、彼が知らない情報は僕達には一切入ってこないと言う事に気が付くかと思います。つまり、この映画の進行と言うのは、何時も主人公の男の子の「目」と「口」を通してだと言う事が分かるんですね。で、その男の子が知らない部分が謎になっていて、謎が謎を呼びみたいな感じで、推理ミステリーっぽく進行して行くと言う運びになっています。そう言う意味において、この主人公の男の子は、この映画における語り手であり、且つ証言者と言っても良いかと思います。

そして実は映画内にその事を暗示するメタファーが隠されていたのですが、皆さん、お分かりになったでしょうか?

それはですね、主人公の男の子がカタツムリを見ているって言う、時間にしたらホンの数秒って言う場面だったんだけど、この時ばかりはカタツムリに焦点が当たっていて、その事がこの映画の構造、つまり「この男の子の目を通した視点で映画が語られている」と言うメタファーになっていたと言う訳なんです。

メタファー関連でもう一つ言っちゃうと、非常に重要なのが、題名にもなっている「Pa Negre」ですね。Pa Negreって言う単語はカタラン語で、直訳すると「黒いパン」と訳す事が出来るんだけど、これが表象しているのは、真っ白なパンを食べる事が出来ず、質の悪い黒いパンしか食べる事の出来なかった貧乏な人達の事を表しています。

僕達が普段食べてるパンって言うのは、小麦粉を使って焼いたものなんだけど、戦争時などには、その様な小麦粉を使ったパンって言うのは、大変贅沢な品物とされていました。そんな贅沢品を食べる事が出来たのは、ごく一部のブルジョアだけ。では、貧乏な一般市民は何を食べていたかと言うと、それがこの黒いパンだったと言う訳なんです。今では殆ど目にする事は無いんだけど、このパンは皮や胚芽まで含まれた精製度の低い粉を使って焼いていた為、発酵させてもそれ程膨らまず、焼き上がりが堅くなり、噛んでも噛み切れないと言うパンが出来上がると言う訳なんです。

しかしですね、よーく映画を見てみると、実はこの「黒いパン」が表象しているのは、この映画の主人公達を取り巻いている貧困を表しているだけでは無いと言う事に気が付くかと思います。そこがこの映画の大変秀逸な所なんだけど、黒いパンが表しているもう一つの事象、それはこの戦争が引き起こした貧困、そしてその貧困が引き起こした「心の闇」と「心の貧困」のメタファーにもなっていると言う所なんですね。

主人公の男の子は稀に見る大変清らかな心の持ち主でした。心から両親を尊敬し信頼していた。しかしですね、そんなピュアな心も、周りの悪しき心によって段々と変貌を遂げて行く事となります。最初の内は、自分の父親が人殺しだとは全く信じてなかったんだけど、それが段々明らかになるにつれて、主人公の心にも闇の部分が段々と支配されていく。そして最後にはとうとう、彼は肉親にさえも心を閉ざしてしまう事を選ぶ訳ですよ。つまり、どんなにピュアな心の持ち主でさえも、周りの状況によってはその心は黒く塗り潰されてしまうし、そんな真っ白な心の中にさえも、悪しき種は何時でも存在すると言う事が言いたいんですね。

そんな、この映画の「伝えたかった事」こそ、実はこの映画評の最初に引用したホッブスの言葉の中に凝縮されていると思う訳ですよ:

 “Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」

面白い!流石に今年のゴヤ賞を総なめにしただけの事はあります。日本で公開されるのかどうか知らないけど、超おすすめです!カタラン語だけどね。
| 映画批評 | 00:05 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
速報:スペイン版アカデミー賞であるゴヤ賞(2011年)の発表:今年の大賞はPa Negre
スペイン版のアカデミー賞と言われるゴヤ賞の発表がたった今あったのですが、今年の最優秀映画賞はPa Negreに贈られました。カタラン語で撮られた映画、Pa Negreが最優秀映画賞に輝いた事は個人的にはかなり驚きでした。

実は今年の最優秀映画賞ノミネート作品は、その発表があった時から様々な噂が絶えなかったのですが、と言うのもノミネート作品の一つ、”Balada triste de trompeta
の監督でありスペイン映画芸術科学アカデミーの会長でもあるAlex de la Iglesiaは、最近スペイン社会全体で物議を醸し出している違法サイト取り締まりに関する新しい法案、Ley Sindeに唯一反対している監督であり、その事で文化大臣(Angeles Gonzales-Sindeと大喧嘩して、今季限りで会長職を退く事を発表したりしてたんですね(スペインの違法サイト取り締まりについてはコチラ:地中海ブログ:スペインの違法サイト取締り法規について)。

そしてもう一つ僕にとって印象的だったのは、最近、アルツハイマーである事を発表したパスクアル•マラガル前カタルーニャ州政府大統領の生活に密着した作品、
Bicicleta, Cuchara, Manzanaにドキュメンタリー部門の最優秀賞が贈られた事です(地中海ブログ:パスクアル・マラガイ(Pasqual Maragall)という政治家2)。

仕事や研究などを通して、「今日のバルセロナの発展があるのは彼のおかげ」と言う事が痛い程分かるが故に、そんな彼が病気だと知った時ははっきり言ってかなりショックでした。発表会見に居合わした記者の何人かは、涙を流していた人さえ居たくらい、当時のカタルーニャ社会に与えたインパクトと言うのは大きかったと思います。そんな彼が今でも病気に負けずと立ち向かっている姿、それは僕達に大変大きな勇気を与えてくれます。そしてそれは多分、彼の事を知っている人に限らず、カタルーニャに住む全ての人に取って限り無い喜びだと思います。


おめでとうー、マラガル元大統領!


さて、
Pa Negreの大賞受賞と言う結果に終わった今年のゴヤ賞なのですが、明日の新聞には、Alex de la IglesiaAngeles Gonzales-Sinde文化大臣のLey Sindeを巡る議論が大きく載る事だろうと思います。多分、今日のゴヤ賞授賞式が、スペインにおける著作権問題に大きく火をつけるのでは?とさえ思います。要注目です。
| 映画批評 | 09:11 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画:クリント イーストウッド監督作品:ヒア アフター(Hereafter):ハリウッドの大霊界か?
この所、バルセロナはかなり暖かくなってきて、まるで春の訪れを感じさせる様なポカポカ陽気が続いています。気温も15度を超える日が多くなってきて、個人的には正にこんな感じ:

 

もう寒いの嫌なんで、ホントに「早く春来て!」って感じなんですけどね。 そんな陽気な気候も手伝ってか、先週末は以前から見たかった映画、クリント イーストウッド監督作品の「ヒア アフター」を見る為に、我が子の様に可愛いグラシア地区にあるVERDI映画館に行ってきました(地中海ブログ:バルセロナモデル:グラシア地区再開発)。



クリント イーストウッド監督と言えば、「ミリオンダラーベイビー」、もしくは「グラン トリノ」なんて作品を今まで見てきたんだけど、物語の構成やシンボル、そしてメタファーなんかの構造が大変良く練り込まれていて、とても面白かった印象があります。そんな経験があるもんだから、「今回の映画も面白いに違い無い!」って言う期待感があったんだけど、正に僕の期待通り!なかなか面白かった。少なくとも、わざわざ週末の夜に時間を削ってまで僕に映画評を書かせようと言う気にさせてくれるくらいの質は持っていたと思います。

と言う訳で何時もの様に僕の独断と偏見を120%発揮して大変勝手な映画評を書いてみようと思うのですが、「そんな独りよがりなcruasanの映画評なんて読みたくない」って言う地獄行き間違い無しの人や(苦笑)、「この映画は日本公開まで楽しみにとっておきたい」って人とかは読み飛ばしてください。そしてここで一応警告:

警告:ネタバレになる可能性があるので、未だ映画を見てない人はここで読むのを止めましょう。



僕が映画を見る時に常に注目しているポイントは以下の2点。一つ目は、「その映画が一体何を語りたいのか?」って言うテーマと、もう一つは、そのテーマを描き出す為の形式や構造です。これらがガチッと噛み合った時、本当に良い映画が生まれると思うのですが、そう言う観点で見ると、実はこの映画ってそれ程書く事無いんですよね(笑)。何でかって、主題も構成も物語も全て見れば分かるって言うレベルで、そこに隠された構造だとかメタファーなんかは特別無い様な気がするからです。

先ずは主題からいきたいと思うのですが、この映画が言いたい事は以下の2点。一点目は、「死後の世界と向き合う事は何も特別な事ではなく、概して日常的な事である」って事と、もう一点は、「この映画を通して死後の世界とは一体何なのか?を皆に考えてもらう事」、この2つですね。そしてこれら2点を描き出す事にある程度成功しているのでは?と思う事が、僕がこの映画を評価する一番の理由でもあります。

物語の構造としては、マット•デイモン演じるアメリカに住む男性ジョージ、セシル•ドゥ•フランス演じるパリに住むジャーナリスト、マリー、そしてロンドンに住む男の子がそれぞれに持つ死の体験を通して3つの物語が独立並行的に進んで行くと言う構造を取っています。

普通だったらこれら独立している3つの物語の間にメタファー、もしくはそれらの構造が入れ子状になってたりして関連構造が見えそうなものなんだけど、この映画に関してはその様な関連構造は全く無し。唯一ありそうな関係性と言ったら、アメリカに住むジョージは、パリに住むマリーの様な女性を必要としていて、イギリスに住む少年マーカスはジョージの様な人を必要としていて‥‥みたいな円環が描ける事くらいかな。

クリント•イーストウッドの映画においてシンボルやメタファーが登場しないって言うのはハッキリ言ってちょっと珍しいと思うんだけど、実はそれらが登場しないと言う事が、この映画においては非常に重要なポイントで、それこそが、ある種のメタファーになっているんですね。

どういう事か?

それはこの映画の主題の一つが(上述した様に)「死後の世界と向き合うと言う事は、何も特別な事ではなくて、ごく普通の事なのだ」って事を描きたかったからなんです。だから敢えて非日常を意識してしまう様なメタファーやシンボルなんかは使わずに、直接的な表現を用いる事によって、その様な日常性を描き出したんだと思うんですよね。そしてこの映画は、そんなごく普通の日常を描き出す事に、「これでもか!」ってくらい成功している。この点こそが、この映画の成功の秘密なのかも知れないのですが‥‥。

さて、良く言われる事であり、誰もが勘違いしてしまう事でもあるんだけど、「映画監督がその映画を通して言いたい事」と、「映画作品自体が語りたい事」と言うのは区別する必要があります。何故なら映画作品と言うのは、監督の手を離れた瞬間から独立して育っていく生き物の様な存在なのだから。

その事を認識した上で、それでも僕は敢えて言いたい。この映画に隠された重要な主題、それは、「この映画は何を隠そう、イーストウッド自身が自分の為に創ったものなのでは?」と言う事なんですね。

1930年生まれの彼は今まで、映画監督、俳優そしてプロデューサーとして数多くの作品を手掛け、同時にトップスターの地位を確立してきました。しかしそんな彼も今年で80歳。今まで色々な経験をしてきた彼も、そろそろ「自分の人生の後の事」に興味が出てきたのかなー?とか思う訳ですよ。そしてそれを他の人達と共有したい、他の人達は果たしてどう考えているのか?そんな出発点から出てきたのが今回の映画なのでは?と僕は勝手に思っています。だからこの映画は、その仕掛けの一つとして、映画を見終わった後に、「ねえ、死後の世界ってあると思う?」って言う会話を誘発する様に創られているんですよね。かく言う僕も見事にその術にはまり、その後数日間は、ずーっとその話題で盛り上がっていました(笑)。

で、この映画を見ている時にふと思い出したのが、僕が中学生の頃に一世を風靡した丹波哲郎さんの大霊界シリーズ、「死んだらどうなる?」とか、「死んだら驚いた」なんだけど、あれも実は丹波さん自身の興味から創られた映画で、当時、興行的に大成功だったんですよね。何でかって、あれを見に来た人って言うのは、おじいちゃん、おばあちゃん世代で、彼らも又、自分が死んだらどうなるのか?って言うのが知りたかったからなんだと思います。

何はともあれ、今回の映画は、その形式や構造こそ凝ってはいないのですが、そこで語られているテーマは非常に明確で、「見た後色々な事に思いを巡らせられる」と言う事を考えると、良質な映画だと言えるかと思います。 一見の価値ありかも。
| 映画批評 | 03:31 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画:Tamara Drewe:実はこの映画の主人公はTamaraではないと言う驚きの構図!
今日は朝からお天気も良くポカポカ日和だったので、「午後から美術館にでも行こうかな」と思いきや、昼頃に急な野暮用が入ってしまい美術鑑賞は断念(悲)。しかもその野暮用が結構長引いてしまい、気付いて見ればもう午後7時!でも折角の金曜の夜だし、カタラン人達が思いっきり楽しんでるこの時にこのまま何もしないのも悔しいので、「映画でも見に行こう」と(半ば無理矢理)近所の映画館に行ってきました。良く考えたら最近見た映画と言えば、先々週テレビで放送していた「フェリッペ王子とレティシア王妃がどうやって出逢って結婚にまで至ったか?」って言う王室ゴシップものだけだった様な気がする‥‥。ゴシップ大好きな僕にとっては、このテレビ映画(そもそも映画って言うのかどうかも疑問だけど)はハチャメチャに面白くて、「早くDVD出ないかな?」とか密かに思ってる一人です(笑)。

まあ、冗談はこれくらいにして、今回僕が見に行って来たのは今年のカンヌ国際映画祭で上映されたコチラの映画:

ジェマ・アータートン主演のTamara Dreweと言うイギリス映画だったんですね。田園風景が広がるイギリスの片田舎に数年振りに里帰りしてきた女の子が物凄い美人に変身してて、その彼女を巡って繰り広げられるラブコメディって言うコテコテの内容なんだけど、これが意外に面白かった!少なくとも週末の貴重な時間をこの映画のレビューを書く為に割いても良いかなと僕に思わせるくらいの質は持っていたと思います。

と言う訳で、何時もの様に僕の独断と偏見を最大限に発揮して無茶苦茶な映画レビューを書きたいと思っているのですが、そんな「cruasanの独りよがりな映画の感想なんて聞きたく無い」と思ってる人(地獄に落ちてください(笑))や、「この映画は楽しみにとってあるので、内容とか知りたく無い!」と言うあなたの為に一応警告:

ネタバレになる危険があるので、未だ映画を見ていない人はここで読むのを止めましょう:



さて、先ず初めに大変ショッキングな事実をお伝えします。そしてこれがこの映画の殆ど全てだと言っても良いのかもしれないのですが、実はこの映画の主人公は、タイトルにもなっているTamara Dwereではありません。この映画の隠れた主人公、それはジェシカ・バーデン演じる、悪戯女子高生ジョディーなんですね。

ジョディーは人気ロックドラマーのベン(ドミニク・クーパー)の熱狂的な大ファンで、こんなクソ田舎からは早く出て行き、将来は大都会で大きな仕事に就きたいと夢見る、昔のTamaraそっくりの女子高生。しかしですね、ひょんな事から憧れのベンが自分の村にやってきて、更に村内では悪名高いTamaraと恋人関係にあると言う事でTamaraの事を逆恨みし、何とか彼らの仲を切り裂こうと考えているんですね。

一見脇役にしか見えないこの小さな少女が、この映画における最重要人物であると思うその理由はズバリ、「この映画の本質的な物語りは彼女が創り出している」と言う事が出来ると思うからです。この映画を注意深く見てみると分かると思うのですが、映画の中で何か物語に進展がある時や事件が起こる時には必ずと言って良い程彼女が発端となっています。そういう意味で彼女はこの映画における「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキナ (Deus ex machina))に他なりません。「機会仕掛けの神」とは何かと言うと:

”もとはギリシア語のἀπό μηχανῆς θεός (apo mekhanes theos) からのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。アテナイでは紀元前5世紀半ばから用いられた。特にエウリピデスが好んだ手法としても知られる(Wikipediaより)”

とまあ、この概念自体はギリシャ喜劇からの引用なのですが、そもそもこの映画にギリシャ喜劇の演出が導入されているのも偶然ではありません。何故ならこの映画の主題、それはギリシャ喜劇で繰り返し上演されてきた「運命」なのですから。

そのような運命に翻弄されているのが、この映画の舞台になっている片田舎に集まってきている有名小説家の人達なんだけど、映画の構成や構造と言う観点から見た場合、「何故に小説家がこの映画に登場するのか?」と言うその理由も非常に緻密に出来ています。

例えばベストセラー作家として登場するニコラス(ロジャー・アラム)は、映画内で自分が書いている小説が、実は彼自身の人生を綴りそして暗示していると言うメタ小説的な扱いになっていて、それは物語の最後部分で、「次の小説はどのようなモノになるのでしょうか?」とインタビュアーに質問された際:

「私は小説を書くのはちょっと疲れたので今度からは全く別の事をやりたいと思っています。だから現在登場している主人公はもうすぐ殺す事にします」

と言った発言をした事にも現れています。と言うのも、その直ぐ後で、彼は牛に踏みつぶされて命を落とす事になるからです。

小説家が集まる片田舎が舞台と言う事もあって、小説関係のメタファーは他にも色々と散りばめられているのですが、その中でも最も重要且つ、「よく考えられてるなー」と思わされたのが、上述した「この映画全体を神の視点から綴っている小説家は一体誰か?」と言う設定でした。

何度も言う様に、この映画はメタ小説やら何やらを駆使しつつ、ドン・キホーテの様に何重もの入れ子状の構造を取っているのですが、その一番てっぺんでこの映画の物語を動かしている人物こそ、「機会仕掛けの神」こと、悪戯女子高生ジョディーに他ならない訳ですよ!一見バカで表面的な事しかしていないジョディーが、この映画を神の視点から下記綴っている「真のベストセラー作家」であると言う驚きの構図!そしてその事が強調したいが為に設定された舞台と登場させられたベストセラー作家達!!これには唸らされました!

又最も面白く、最も分かり易かったメタファーは、主人公Tamaraの鼻のメタファーかな。

Tamaraは昔住んでた田舎で「鼻がデカイ、ブスな女」として知られ、有名になる事を目指してロンドンへと移り住んでいったのですが、そこで彼女は鼻の整形手術をしジャーナリストとして華麗な人生を歩む事に成功します。そんな「成功者」が田舎へと戻ってくるんだけど、そこで再会する昔の彼氏や、有名ロックドラマーのベン、はたまた昔憧れた有名ベストセラー作家のニコラスとの浮気などを通して最終的に辿り着くのが、昔愛していた彼氏だったんですね。

そして今までの「飾り立てた、まがい物の愛」ではなく、本物の愛に気が付くって言う、まあ、言ってみれば何時ものお決まりパターンなんだけど、その変化を表象しているのが、物語の終盤で折られる彼女の鼻と言う訳なんです。つまり、整形して一見美女になったかに見えた彼女の容姿と同じく、飾り立てた人生はまがい物であり、そんな鼻を自慢している内は、「決して本当の薆には辿り着けないよ」と、まあ、こう言いたいんだと思います。 

うーん、確かに映画の構造は悪く無いし、様々な場面に出てくるメタファーも面白い。しかし、その一方で、「分かり易すぎる事による深みの無さ」がちょっと気になったかな。そして決定的な事に、この映画のテーマである「運命」ってのがイマイチ描き切れて無い気がする。まあ、それでも一定の線は確実に超えてると思うし、適当に選んだ映画にしてはなかなか良かったとは思います。

星2つですー!!
| 映画批評 | 18:22 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
速報:スペイン版アカデミー賞であるゴヤ賞(2010年)の発表:今年の大賞はCelda211:最後にビックサプライズ
スペイン版のアカデミー賞と言われるゴヤ賞の発表がたった今あったのですが、今年の最優秀映画賞はCelda211に贈られました。3時間程続いた賞の授賞式が半分程終わった所ではアゴラ(Agora)が6つも賞を受賞していたので、「このまま独走か!」と思いきや、後半になってCelda211がものすごい勢いで追い上げてきて、最終的にはCelda2118個、アゴラが7個の賞を受賞という形で今年のゴヤ賞は幕を閉じました。

個人的に、というかスペイン中の人がそうだったと思うのですが、無茶苦茶驚いたのは、最後の最優秀映画賞のプレゼンターにペドロ・アルモドバル(Pedro Almodovar)が出てきた事ですね。彼のゴヤ賞嫌いはスペイン映画界では有名で、今まで一度足りとも会場には姿を見せた事が無かった程です。そんな状況だったので、彼がプレゼンターとして現れた時はみんなビックリ。彼の登場に対する長―い拍手が何時までも鳴りやまなかったくらいです。みんなスタンディング・オーベーションだったし。

多分明日の朝刊にはCelda211
の記事よりも、ペドロ・アルモドバルのインタビューに多くの紙面が割かれる事が予想されますね。大賞を受賞したCelda211にはちょっと気の毒ですが、まあ、しょうがないか。
| 映画批評 | 01:01 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ミヒャエル・ハネケ(Michael Haneke)監督作品、「The White Ribbon」:我々の社会におけるモンスターとは何か?
去年(2009年)のカンヌ映画祭でパルムドールを獲った作品、ミヒャエル・ハネケ監督 の「The White Ribbon」を見て来ました。

結論から言うと、非常に良かった。少なくとも映画を見終わった後で、今から週末の貴重な時間を使って、「久しぶりに映画評を書いてみようかな」という気にさせるくらいの質は持っていた様な気がします。と言う訳で何時もの様に僕の独断と偏見で(笑)、この映画に対する感想を書いていこうと思うのですが、これは僕の勝手な解釈なので、「あー、こういう意見もあるのかなー」と言うくらいに思ってもらえれば幸いです。そして一応念の為に:

警告: ネタバレになる可能性があるので、映画を未だ見ていない人はココで読むのをストップしましょう。

さて、先ずはこの映画の主題、つまり「この映画は一体何を言いたかったのか?」という事なのですが、それはズバリ、我々の人間社会における「怪物(モンスター)が生み出されるプロセスについて」だと思います。そしてこの映画はその問いに、「怪物は怪物によって創られる」という明快な返答を持って答えているんですね。

舞台が第一次世界大戦ちょっと前のドイツである事から、この映画を見た人は即座にファシズムやナチスとの関連を思い浮かべるかもしれません。しかし僕の見る所、ハネケ監督がこの映画で描き出している世界というのは、僕達のどの社会にも当てはまる、大変普遍的な問題であって、ドイツの村々が舞台だからと言って即座にナチスと結び付けるのは安直だと思います。

そして更に、この映画には上述の「表の主題」とも言うべきものの裏に、もう一つの隠れた主題、言うなれば、「裏の主題」のようなものが挿入されています。(そしてそれこそ僕達がこの映画から読み取るべきメッセージであると思います。)
それが語られるのが、物語の終盤近く、主人公の一人である医者とその愛人が激しい口論を交わす場面です。悪の象徴の如くに設定されている医者は散々弄んだ愛人に向かって、この上ない酷い言葉を浴びせ、軽蔑的な態度を繰り返します:

 「この醜い女め。早く消えろ、口もくさいんだよ・・・」

この場面は(僕が思うに)、この映画が最も伝えたかった「モンスターが創り出される過程を描写した場面」であり、我々が深刻に受け止めるべき場面だと思うんですね。人間は他人にされた事を他の人にもしようとするし、正に目には目をじゃ無いけど、モンスター的な振る舞いはモンスターを生むという訳です。

しかしですね、この場面が上映されている最中、僕にとって大変驚くべき事が起こりました。それは会場のあちこちから少数ではありますが、笑い声が聞こえてきた事です。確かに医者の悪口は非常に極端であり、皮肉とも取れるかもしれないのですが、コンテクストなどを考えると、やはりココは笑うような場面じゃ無い。この瞬間に、この映画が言いたかった「もう一つの主題」と、以前に読んだ、あるインタビュー記事が僕の頭の中で交錯しました。その記事とはホロコースト研究で大変有名なPeter Longerichが最近出版したハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler)についての新著(HeinrichHimmler, RBA)に関するインタビューです。

ヒムラーなんて、ナチスに相当関心がある人くらいしか絶対知らないと思うけど、何をした人かというと、「ユダヤ人皆殺し計画」の最高責任者だった人なんですね。そしてヒムラーの研究者であるLongerichが彼に関する膨大な資料を精査した結果導き出した一つの結論が:

 「ヒムラーは確かにある種の人間的感情を欠落していた感があるけれども、決して精神病者ではなかった」

という事でした。更に続けて彼は言います:

「ヒムラーは人間だった、それこそが問題なのだ」

これはつまり、そこら辺にいるごく普通の人でも、ひょんな事から簡単にモンスターに変わってしまうと言う事を物語っているんですね。この言葉は僕達人間にかなり重い言葉として圧し掛かり、人間という生き物の恐さを改めて知らしめさせてくれます。

多分この映画が言いたかったもう一つのメッセージ、裏の主題はコレなんじゃないのかな?つまり僕達の隣に座っているごく普通のカップルだって、周りの環境しだいで、どんなに恐ろしい事も素知らぬ顔でしてしまえるモンスターになってしまう・・・。

監督がそこまで計算してこの場面を入れたのかどうかは僕には分かりません。唯一つ言える事は、この映画は「答え」よりも「沢山の疑問」を我々見る人に投げかけてくるという事です。つまり我々に安易な答えを与えるよりも、映画館を出た後で長い時間をかけて我々自身に考えさせる事を強いる映画なんですね。だからこの映画の解釈には「決まった答え」や「正解」はありません。それは我々一人一人が各々の人生の中で見つけ出して行くしか無いのです。この映画はそのような思考をするキッカケを我々に与えてくれているだけに過ぎないのですから。

(注意)
今回は当ブログで毎回しているような詳細なシンボル解説や映画の構造解説などは極力避けるようにしました。だから何時もとはちょっと書き方が変わっているかもしれません。たまにはこういうのも悪くないなー。
| 映画批評 | 20:18 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
アレハンドロ・アメナーバル(Alejandro Amenábar)監督作品、AGORA(アゴラ)その2:リアルとフィクションについて
日曜日の新聞(La Vanguardia, 8 de Noviembre, 2009, P50)に現在スペインで公開中の映画、アレハンドロ・アメナーバル(Alejandro Amenábar)監督作品、AGORA(アゴラ)について興味深い記事が載っていました。

この映画はヨーロッパ映画史上最もお金をかけた映画というだけあって、公開初日からバルセロナの映画館には連日列を作る人が見られる程の大成功となっているのですが、今日の新聞によると、興行収入はスペインだけで2000万ユーロが見込まれ、スペイン映画久々の大ヒットになる見込みだとか(ちなみに制作費は5000万ユーロだそうです)。

この映画については以前のエントリで感想を書いておいたのですが、まあ、物語としては、ちょっとは面白いし、歴史の勉強にはなるかなー、と言った所ですね(アレハンドロ・アメナーバル(Alejandro Amenábar)監督作品、AGORA(アゴラ))。今日の新聞記事が面白かったのは、この映画の主人公ヒュパティア(Hipatia)についての、物語中のフィクション部分が指摘されていた所です。



何を隠そう僕はルネサンス絵画の完成者、ラファエロ・サンティ(Raffaello Sanzio)の大ファンなのですが、彼の大傑作の一つ、ヴァチカンの「アテネの学堂」の中に、このヒュパティアが登場します(ラファエロについてはコチラ:地中海ブログ:ラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio):アテネの学堂(Scuola d'Atene)、地中海ブログ:幸福の画家、ラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio):キリストの変容(Trasfigurazione)



黒板の様なものを片手に持ちながら、何かを必死に伝えようとしている少女がその人ヒュパティアです。

映画の中ではレイチェル・ワイズが演じているように、非常に聡明な美女として描かれているのですが、コレは全くその通りだったらしく、史実によると、彼女は相当美人であった事は間違い無いそうです。にも関わらず、生涯独身を通したのだとか。ただ、彼女が虐殺されたのは60歳だと言われていますから、映画の中にあるように、25歳とは少々違う様ですね。さらにその方法も投石ではなく、貝殻で皮を剥ぐという残忍なものだったらしい(マドリッド自治大学のElisa Garrido教授の話)。まあ、その辺は映画のストーリー構成上、ロマンチックにしたかったという事なのでしょうが。

あと、映画で描かれているようにアレクサンドリア図書館で教鞭をとっていたというのもフィクションで、実際には自分の家で塾の様なものを開き、様々な人達に教鞭を取っていたという事だそうです。

そして驚くべき事に、僕が絶対フィクションだろうなー、と思っていた場面が実は事実だという事が分かりました。その場面とは、ヒュパティアに恋をし求婚を迫る男性を断る為に、自分の生理の血を滲ませたハンカチを見せつけ、「ごらんなさい。私はあなたが思っているような清楚で完璧な人間ではありません!」と求婚を一蹴したというもの。コンスタンティンノープルのソクラテスが書いた、教会史7−15号(Historia ecclesiastrica, libro VII, 15, de Socrates de Constantinopla)の438ページに記述が残っているそうです。ス、スゲー。

日本公開は未だ未定という事なのですが、歴史好きには面白い映画かもしれませんね。
| 映画批評 | 21:34 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
アレハンドロ・アメナーバル(Alejandro Amenábar)監督作品、AGORA(アゴラ):キリスト教についてのちょっとしたメモ
今、スペイン中で話題の映画、AGORA(アゴラ)を観てきました。

先週末くらいからどの新聞にも記事が載り、メディアでもバンバン宣伝しているのですが、何故にこれほど話題なのか?というと、監督にオープン・ユア・アイズ(Abre los ojos)海を飛ぶ夢 (Mar adentro)で脚光を浴びたアレハンドロ・アメナーバル(Alejandro Amenábar)監督を、主演にはハムナプトラ/失われた砂漠の都(The Mummy)のレイチェル・ワイズ(Rachel Hannah Weisz)を起用。加えて、ヨーロッパ映画史上最もお金を注ぎ込んだ映画ときてるから、話題性は抜群という訳なんですね。僕が行ったのが公開後初めての日曜日(公開は先週金曜日、10月9日)で、更にスペインは連休中という事もあり、グラシア地区のVerdi映画館は今まで観た事が無い様な長蛇の列、空席一つ無い満員御礼でした。



この映画の舞台は古代学問の中心都市、アレクサンドリアです。アレクサンドリアって、歴史好きにはものすごく魅惑的な都市で、世界七不思議の一つ、ファロス島の大灯台があったり、世界中から知識人を寄せ集めた学術研究所、ムーセイオンがあったり、そして極めつけは、今回の舞台となっている、古代最大にして最高の図書館だったアレクサンドリア図書館があったりと、まあ、色んな想像力を働かせてくれちゃう、ロマン満載都市な訳です。

そして今回の主人公は、類い稀な知性と美貌を持っていたとされ、5世紀頃にアレクサンドリアで活躍した新プラトン主義の女性数学者・哲学者、ヒュパティア(Hypatia)。彼女については余り良く知られておらず、はっきり言って謎だらけなんですが、今回の映画では仮説などを盛り込み、物語として結構楽しめる様になっています。

映画としては思っていたよりも良い出来だったけど、「ココで時間を使って批評しようというレベルでは無かった」というのが正直な感想ですね。(もしこの映画がハリウッドで作られていたら、彼女を取り巻く三角関係と肉体関係のオンパレードになっていたに違いない、そういう意味において、「良い出来だった」という事です。)ただ、キリスト教の勉強にはなりました。

ヨーロッパにいると思い知らされるのがキリスト教の浸透力とその強さです。

街中の至る所にキリスト教の痕跡があり、日常生活の至る所に食い込んでいるのがこの宗教。毎週日曜日にはミサがあり、季節の変わり目毎にキリスト教に基ついたお祭りが用意され、美術館に行けば、ほとんど全ての主題はキリスト教にまつわるものだと言っても過言ではありません。

このような現在見られる様な「キリスト教」と、その教義に基つく時間・空間的な再編成が行われつつあったのが、何を隠そう、今回の映画の舞台になっている時代区分だと言う事が出来るかと思います。

つまりキリスト教は最初から今我々が見ている様なキリスト教だった訳では無いんですね。

例えば、今でこそ一枚岩に見えるキリスト教(詳しく言うと、カトリック、プロテスタント諸派、正教会など多数)なのですが、その初期においては土着信仰など、他教義などには大変寛大であり、異端の存在なども有益だと考えられていた程、多様性に満ちた存在だった様です。初期のキリスト教はシリアやエジプトなどで、様々なユダヤ教分派と共存していたくらいですから。

ジョゼップ・フォンターナによると、そもそも「異端」(Airesis)っていう言葉の元々の意味は「選択」、「意見」、「学派」を意味していたらしく、今のように「分派」を意味するものではなかったとの事です。

このような状況が変わり始めたのが、ローマ帝国の国教化、つまりキリスト教とローマ帝国の協同、ローマ帝国政治権力との連携です。(ココで注意しておかなければいけないのは、「キリスト教の国教化」と「ローマ帝国のキリスト教化」は違うという点ですね(コレは長くなるので又今度))。それを決めたのがコンスタンティヌス帝なのですが、その理由が「十字架の幻影を見たから」だそうです。でも、コレが起こったのが、彼がアポロの幻影を見たわずか2年後だと言いますから、そのいい加減さが伺えます(笑)。改修した後だって、さして彼の生活には影響が無かったと言われていますし。

まあ、彼の神髄が何処にあれ、このような政治的に作り出された状況が、それまでの多種多様なキリスト教(異端、少数派など)との共存を不可能にしたという事は間違いありません。

こんな混沌期に生きたのが、この映画の主人公ヒュパティアであり、波乱に満ちた彼女の人生は、過激派の手により、教会の前で八つ裂きにされ閉じさせられてしまうのですが、彼女の死は古代学問の中心地であったアレクサンドリアの終焉をも象徴する出来事となりました。

大きな地図で見る

ヒュパティアのように、アレキサンドリアの伝統を守っていた異教の哲学者達は、彼女の虐殺を機に、シリアやメソポタミアへと逃れたそうです。その内の一つのグループが、ローマ、ペルシャの境界近くのハランに新プラトン主義の学校を開設し、ギリシャ文化のイスラム世界への伝播に大変な影響力を持ち、11世紀頃まで重要な機能を果たした事は良く知られた事実です。
| 映画批評 | 13:40 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
イザベル・コイシェ(Isabel Coixet)監督作品、Mapa de los sonidos de Tokio (Map of the sounds of Tokyo)を見てきました
先日のエントリに書いたように、先週末、我が子のようにかわいいグラシアに映画を見に行ってきました。今回のお目当ては、今年の5月頃に日本でも少し話題になった映画、Mapa de los sonidos de Tokio。この映画が何故話題になったかというと、バルセロナで頭角を現してきている映画監督、イザベル・コイシェ(Isabel Coixet)が今話題の日本人女優、菊池凛子さんを主演にして、東京を舞台に撮られたという事で、カンヌ映画祭の大賞候補にノミネートされたからなんですね。(地中海ブログ:カンヌ国際映画祭:イザベル(Isabel Coixet)監督のMapa de los sonidos de Tokioに見る日本とスペインの見解の違い)。

新聞記事や前評判、そして予告編などを見ていて、はっきり言って全く期待していなかったのですが、やっぱりあまり面白くありませんでした(笑)。それでも、まあ、一応、カタラン人が日本をどういう風に見るのかなー?とか、その辺は興味があったのですが・・・・。

当ブログで評する映画は基本的に僕が見て面白かったものに限っているのですが、今回は今年度初の映画、そしてカタラン人が日本を舞台に撮ったという事もあり、例外的にちょっとだけ、感想を書いてみようと思います。そして何時もの様に:

警告
ネタバレになる危険があるので、未だこの映画を見ていない人はココで読むのをストップしましょう。




僕が思うに、映画にとって非常に重要な要素というのは、「その映画が一体何を語りたいのか?」というテーマと、そのテーマを描き出す形式や構造です。これらがガチっと噛み合った時、本当に良い映画が生まれると思うのですが、この映画(Mapa de los sonidos de Tokio )に関して言えば、そのバランスがものすごく悪い。余りにも後者(東京というイメージを描き出す事)に比重が置かれすぎているが故に、うまい事、テーマが発展していないように思えるんですね。つまり、日本というイメージを打ち出したいが為に、無理矢理ストーリーを作ったと見えちゃう所が問題だと思います。まあ、それならそれでも良いんですが、それなら他のやり方があっただろうし、何よりも、イザベル・コイシェ監督が前作、「あなたになら言える秘密の事(The Secret Life of Words)」で見せたような、巧みな構成には到底至っていないように思われます。

と、ココまで一般的な感想を述べた上で本題に入りたいと思うのですが、この映画のテーマはずばり「人は罪を背負いながら如何に生きていくのか?」でしょうね。

「ふーん」というくらいのテーマなんですが、まあ、そのテーマをどう料理し、面白い映画に仕上げて行く事が出来るかどうか?は、どのような形式や構造を選択し、テーマと絡めていけるかどうか?次第。そして、この映画が採用している構造はというと、ずばり、推理小説の枠組み&神の視点からのカメラアングルの導入という、ハイブリッド構成です。

このようなテーマと形式の下、この映画は、その構成上大きく2つの部分に分ける事が出来ると思います。前半は菊池凛子演ずるRyuの紹介で、後半は謎解きの部分。そしてこの前半部分に対応するのが、推理小説風の展開であり、後半部分に対応するのが、神の視点からのカメラアングルと言う訳です。

さて、前半部分で非常に重要な役割を担っているのが、Ryuにピッタリと張り付いて、意味ありげに彼女の声を録音している老人です。彼は言います、「私はRyuについて何も知らなかった。何をしているのか?何処に住んでいるのか?兄弟は居るのか?何を考えているのか?・・・知っている事と言えば、時々彼女が話してくれる事だけだった。」

映画の前半部分は、この老人をナレーターとして進んでいくのですが、鑑賞者である僕達には、物語の情報が彼を通して断片的にしか与えられません。このように、ミステリアスな部分を故意に作り出し、鑑賞者の関心を惹こうとしている意図がよく伺えます。

さて、ココで少し、この老人がこの映画に登場する意味を考えたいと思います。

彼はRyuとコミュニケーションを取ろうと、必死に彼女に語りかけたり、彼女の声を録音したりと、沈黙を守っている彼女とはまるで逆の存在として登場しています。そう、つまりこの老人は人間が普通に持っている「陽や明」の表象であり、「沈黙や暗」を表象しているRyuとコインの裏表のような関係を作っているんですね。(このような沈黙の象徴であるRyuを補完する人間は、映画の後半にもう一人登場します。それがRyuが惹かれるスペイン人、Davidです。)

さて、このようなミステリアスに包まれた状況が急変するのが、映画の中盤です。ココで、老人とは別のアングルから語りかけるナレーターが急に登場します。このナレーターは神の視点からのナレーターなので、物語を全て分かっている視点で我々に語りかけてきます。

このように、先ずは構造として、この映画には2つの別々のカメラアングルが設定されているのですが、はっきり言って、何故このような構成を採用したのか、悩む所ですね。前半部分で謎に包まれていた部分が、後半部分では、あっさりと明らかにされてしまいますし、このような構造が効果的に使われているとは到底思えません。正にこんな声が聞こえてきそうです:



どおしてー、どうおしてー、みたいな。

さて、次に登場人物達なのですが、この物語の中で重要なのは、やはりRyuとDavidでしょうね。この2人には、ある共通点があります。それは2人とも罪の意識を背負っていると言う所です。Ryuは暗殺者として、今まで殺してしまった人々に対して罪の意識を感じ、Davidは元妻を自殺に追い込んでしまった罪の意識を感じています。

興味深いのは彼らのコミュニケーションの取り方です。上述の老人と同じく、「陽や明」の部分を表象するDavidはRyuとコミュニケーションを取ろうとしますが、沈黙を守るRyuとの間に、本質的なコミュニケーションが生まれる事はありません。唯一、彼らがコミュニケーションを取れる方法、それがセックスだったと言う訳です。何故なら、セックスをする事で、その間だけは、2人とも各々の罪の意識から遠ざかる事が出来たからです。

このセックスシーンがものすごいのですが、そこだけを見ていたらいけませんね(笑)。このセックスシーンが映画の構造上、どういう意味を持っているのか?それを考えなきゃね。そんな事を忘れさせる程、激しいシーンだと言うのも一理あるのですが(笑)。

さて、間違えてはいけないのは、Davidは元妻の事を忘れたかった訳ではなくて、彼の中にある罪の意識を「昔の良い思い出に浸る事で忘れる事が出来た」という事ですね。そして、彼らがセックスをする場所が問題なのですが、それが電車内を模したラブホテル。コレはどういう意味があるかというと、全てがフェイクの空間と言う事でしょうね。

暗く寂しげなRyuの部屋では無く、明るくワインなどがある楽しげなDavidの空間でもない、全てがフェイクの空間。そんな空間だからこそ、2人とも、ある一定の時間だけ全ての罪を忘れる事が出来たのでしょう。

最後にもう一つ重要だと思われる事に、この映画が5感に基ついて創られていると言う事があります。五感とそれに対応するモノ達は、こんな感じ:

嗅覚・・・・・築地市場の魚の匂いと、女性の体に付いていたレモンの匂い
ワインなど。
触覚・・・・・セックス
味覚・・・・・ラーメン
視覚・・・・・東京の夜景。
聴覚・・・・・バックに何時流れている音楽など

どうやらこの映画は東京という都市が、「五感に満ち満ちていて、感覚をこの上無く刺激される都市だ!」とさも言いたげなのですが、それはセンチメンタルなオリエンタリズムとしか言い様がありません。だって、どんな都市にだって、それらは満ち溢れているのだから。そして、この映画の題名にもなっている「ノイズの地図」なのですが、逆説的に、Ryu達にとって、最も大切な音は、実は「沈黙」だったというオチがチラチラ見え隠れしています。

うーん、今ひとつ!やはり、この映画の大きなミスは、東京というイメージに引きずられ過ぎて、それを前面に押し出すあまり、上手くテーマを発展出来なかったという所でしょうね。

一つだけ救いがあるとすれば、それは主演の菊池凛子さんがとても魅力的に撮られていたという事でしょうか。

カタラン人のイザベルさんねー、あなた、ちゃんと力があるんだから、今度は「クール」とか、「日本」とか、そういう表面的なモノで誤魔化さないような、背筋がピシッとなるようなの、創ってくださいよ、期待していますから。
| 映画批評 | 22:56 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
映画:Mishima: A Life In Four Chapters(ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ):三島由紀夫にとって芸術とは何か?
現在バルセロナ、グラシア地区にあるVerdi映画館で、幻の作品とされている日本未公開映画、Mishimaが公開されています。1985年に日米合併で製作されたこの作品は、カンヌ映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞しながらも、諸事情により日本では公開されなかったそうなんですね。更にDVDやビデオ発売も見送られた事から、日本では見るすべが無く、幻の作品と呼ばれるに至っているという訳です。

そんな一昔前の作品が何故今頃になってバルセロナで公開されているかというと、どうやらリメイクされたという事らしいのですが、元の映画を見て無いし、ネットで情報を探しても出てこないので真相は不明。「まあ良いや」とか思いながら見に行ったのですが、コレが非常に良かった。こんな良い映画が見られない日本の皆さんが可哀想になるくらい良かった。

という訳で、何時ものようにココに勝手に映画評を書いてみようと思います。そして一応念のために:

警告
ネタバレになる危険があるので、未だ映画を見ていない人はココで読むのをストップしましょう。




さて、先ずはこの映画の主題なのですが、ズバリ「三島由紀夫にとって芸術とは何か?芸術家とは何か?」でしょうね。

この映画は三島由紀夫の生い立ちから自殺までを扱っているのですが、決して彼の生涯を時間軸に沿って(クロノロジカルに)描いているだけなのではありません。彼の生涯を描く事を通して、彼の人生における核心的思想、「彼にとっての芸術」を描いている所こそ、この映画の核心なのです。

先ず特筆すべきなのは、何と言ってもこの映画の構造です。

全ての章(全部で4章)は監督の解釈の下、フィルターにかけられ、フィクションとして創られ、(先ずは「全てがフィクションである」という点が非常に重要です)、そのフィクションの下に、三島の人生のリアルに近い部分(身体的、意識的な部分)と、彼の精神構造を明らにしていく為に創られた「シンボル的フィクション」の部分(夢的、無意識的な部分)とが各章を構成しています。更に前者の「リアリズム的世界」はドキュメンタル調で描かれる白黒映画として、後者のシンボル的なフィクションの世界は演劇的なカラー世界として分かり易く区別されているんですね。

それぞれの章には「美」、「芸術」、「アクション」、「筆と剣のハーモニー」というテーマが与えられ、三島の幼少時代、青年時代、成熟時代における彼の思想がリアル世界での出来事と、精神世界におけるフィクションを交えて明らかにされていく事となります。

それを図式的にするとこんな感じ:



まあ、簡単に言うと、「リアルな世界」は普通の映画のごとく彼の人生を白黒映画で説明するに留まっているのに対して、「シンボル的なフィクションの世界」は、彼の文学作品を題材としながら、「演劇」という形式を採る事によって彼の人生の核心を抽出しつつ、説明しているという事です。

ここまで分かった上で各章を見ていくと、1章、2章、3章は読んで字のごとく区別も明確だと思うのですが、「アレ」って思うのは最後の第4章なんですね。

最後の第4章も例のごとく、三島のリアル世界とシンボル的フィクションの世界の2つから成っていて、それぞれ白黒とカラー部分で構成されているのですが、第4章は映画の帰結部分だけあって、それまでの3章全体の総合部分となり、映画の中でもかなり特異な章として扱われています。具体的に言うと、ココの章だけは、人生のリアル部分とシンボル的フィクション部分が入り交じっている構成になっています。さっきの図式で言うとこんな感じ:



白黒部分とカラー部分が混在し、白黒で描かれるべき部分がカラーになっていたりします。

さて、このような構造が分かった上で、もう一度映画を見てみると大変面白い事に気が付くと思います。

この映画はどのように始まったか覚えていますか?

この映画は三島が割腹自殺をする日の朝、自宅を出る所から始まります。そしてその描写はカラー映像です。つまり上の図式で言うと、この場面は、第4章の右側、「演劇的」手法&「シンボル的フィクションの世界」のカテゴリーに当てはまる訳です。しかしながら、この場面(映画の帰結部分)は、(見れば一目瞭然だけど)彼のリアル世界を普通の映画的描写で説明している・・・。

何が言いたいか?

つまり、彼の人生の最後期では、彼の人生はもうほとんど「演劇的」であり、「何処からがリアルで何処からがフィクションなのか分からない」という事が言いたい訳なんですよね。コレは巧い!絶妙な演出であり、大変に説得力があります。

さて、これだけ見ただけでもこの映画が普通とはちょっと違うという事が分かってもらえたと思うのですが、それだけじゃ無い所がこの映画のすごい所。という訳で、各章をもう少し詳しく見ていく事とします。

第一章のテーマは「美」です。ココでは三島の幼少期と「三島にとって美とは何か?」が彼の文学作品「金閣寺」に沿って描写されています。

先ずは「三島の価値観がどのように形成されたのか?」がリアル世界の出来事に沿って説明されているのですが、それによると、三島は祖母の加護の下、下界(汚いもの)との接触を許されず、無菌室状態で育てられたみたいですね(何処から何処までが真実かは不明)。

そんな外界の毒に触れる事も許されない環境と経験が創り上げた彼の精神状態を見事に説明しているのが、「演劇的」に上演されるフィクションの世界「金閣寺」です。ここでは金閣寺が「絶対的な美の象徴」、決して手に届かない「究極の美」として存在しています。

そこに登場するのが、佐藤浩一演ずる足が不自由な男と、坂東八十助演ずるどもりを持つ学生。主人公は声がどもると言う事から、自らの体にコンプレックスを持ち、絶対的な美に近つこうとしますが叶いません。幾多の努力の末、他の美(美しい女と寝る事)を通して絶対的な美を最終的に手に入れるのですが、その後に彼に訪れたのは虚無でした。つまり今まで目指していたものを達成してしまった瞬間、目指すべきものがなくなり、する事が無くなってしまったんですね。結局彼が採った決断は、美の象徴であった金閣寺を燃やし、一緒に死ぬという選択でした。

つまり「美の達成」=「死」という構図です。

第二章のテーマは「芸術」。この章では三島の青年期が「鏡子の家」に沿って説明され、「三島にとって芸術とは何か?」が追求されています。

先ずリアル世界では、三島が文学によってある程度の成功を収め始める所までが描写されているのですが、文学的成功によって、内面的な芸術に近つく事を達成した彼は、外面的にも芸術を体現したいと考えるようになります。

そのような思考の下、彼が最初に試みたのは演劇でした。何故なら演劇こそ「新の芸術」を体現する表現行為だと信じたからなのですが、そこに真の芸術が無い事が直ぐに明らかになります。(そしてココからフィクションの世界に切り替わっていきます)

次に彼が目指したのは肉体美でした。人間の肉体こそ新の芸術=美が宿ると考えるようになり、ジムなどに通い体を鍛え始めます。そしてこの過程で決定的に重要なポイントが訪れる事になります。それが沢田研二演ずる主人公が、屋台で飲みながら芸術家っぽい男達と論争を展開する場面:

芸術家っぽい男:「お前何か芸術をやってるのか?」
沢田研二   :「ハイ、舞台を少し」
芸術家っぽい男:「そうか、彫刻家じゃないだけマシだな。彫刻家って言うのは滑稽な職業だ。特に人間の像なんか彫ってるヤツは最悪だ。目の前に人間の生身の体という、絶対に超えられない究極の美があるのに、それを石で彫ろうとしやがる。確かに石は永遠に残るが、絶頂期の生身の人間の美に勝てる彫刻は存在しない」


言い回しなどは少し違ったかもしれませんが、内容的にはこんな感じでした。
ココで主人公は絶対の美とは生身の体に宿る、ある特定の瞬間だという事に気が付くんですね。この点が重要。

その後、彼はサゾちっくな女性と知り合い、自慢の体を傷付けられながらも、魅力を感じてくれる様を見るにつけて、「芸術とは(内面的な)僕自身なんだ!」と自覚するに至りますが、ココはイマイチ説明不足です。彼がどのように心境を変化させていったのか?彼女がどのように彼の思考に影響を与えたのか?など、本を読んでないと到底理解は出来ない場面だと思います。

第2章の結論:
芸術は内面的なものであり、外面にあるものではないという事に気が付いた彼が起こした行動は、その最高の状態を永遠に保持するという事でした。つまり「死」です。

そして第三章です。この章の主題は「アクション」であり、「何かしら行動を起こす事が重要だ」という彼の考え方を表しているのですが、この章はちょっと複雑です。というのも、第四章と密接な関連の元に創られているからです。

先ずリアル世界では三島が民兵組織(楯の会)を編成し、弱体化した日本を立て直そうとする場面が説明されます。フィクションの世界では青年剣士の勲が、日本を駄目にしている実業家の暗殺を画策する場面が演じられるのですが、それは次のフレーズがこの章の核心を表していると思います:

「筆では不十分だ。世界を変えるには剣が必要だ。」

この章の一番大事なポイントは、三島が「剣」の重要性に気が付き、日本を変えるためにはアクションが必要不可欠であるという「アイデア」に至ったという点ですね。

さて、これら3つの章が一つとなり、統合されているのが第4章なのですが、その統合を暗示する場面が存在します。それが、フィクションの世界において三島が飛行機に乗って大空を飛ぶシーンです。

このシーンでは、飛行機から見える絶景=「美」、芸術家=三島由紀夫というフィルターを通して見える風景=「芸術」、そして軍用飛行機を持ち出すという事実=「アクション」と、今まで語ってきた全ての章のテーマが、飛行中の三島が酸素不足で気を失った瞬間=無意識下=「死の瀬戸際」において実現される事となります。そしてそれらの統合こそが「真の芸術である」と三島が気が付いた瞬間でもあった訳です。

更に各章の主人公達がそれぞれのシナリオの最後で辿った、いや、辿らなければならなかった運命は「死」でした。つまり死ぬ事によってしか、各々の目的を成就出来なかったんですね。何故か?何故ならそれこそが、己を「永遠という存在」、「究極の美」に至らしめる唯一の方法だったからです。

そして第4章の最後の最後、自衛隊にクーデターを促すシーンにおいては(上述したように)何がリアルで何がフィクションなのかが、もう混ぜこぜで分からなくなっています。そんな中、三島が切腹によって最後の時を迎えるという所でこの映画は幕を閉じるわけです。

このようにして、三島由紀夫はその生涯を通して「芸術とは何か?」を模索し続け、文学作品のみならず、自身の人生をも、いや、自身の人生こそを最大の芸術作品に仕立て上げ、彼の作品と人生は永遠に語られる芸術となった・・・という解釈なのですが、「なるほどなー」と思うのが、この永遠という事象を映画の構造すらも使って表している所です。



上述したように、この映画は三島の最後の日から始まりました。先のダイアグラムで説明すると、この映画は第4章から始まっているんですね。そして当然の事ながら第4章で終わる。つまり最後から始まって最後部分で終わるというように、この映画の構造は円環になっている訳です。

何が言いたいか?

この映画には終わりが無い、そしてこの映画が表している三島の人生、はたまた彼が創り出した2つの芸術、文学作品と人生自体は永遠に不滅だという事を暗示している訳なんですね。

巧い!!!

絶妙な巧さに加え、抽象的な舞台セットの美しさ(金閣寺と牢屋の抽象化)、そして考えられないような豪華なキャスト陣など、見所満載です。

上述したように、この映画は日本では見る事が出来ません。在バルセロナの皆さん、現在バルセロナに滞在している観光客の皆さん、これは行かないと絶対損です。お薦め度ナンバーワン。
| 映画批評 | 23:37 | comments(3) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
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