2011.03.01 Tuesday
映画評:ゴヤ賞受賞作品:Pa Negre:人間は人間にとっての狼である
以前のエントリでお伝えした様に、今年のゴヤ賞はカタルーニャ発の映画、「Pa Negre」が主演男優賞や監督賞など、計9部門を制覇すると言う、殆ど独占状態と言う結果に終わりました(地中海ブログ:速報:スペイン版アカデミー賞であるゴヤ賞(2011年)の発表:今年の大賞はPa Negre)。
このゴヤ賞の発表以来、日本人、スペイン人含め、各方面から「是非見て感想聞かせてー」みたいな声が驚く程沢山来てて、最初の内は、「あー、又その内ねー」みたいな感じでかわしてたんだけど、最近そのプレッシャーが凄いの何のって。特にカタラン人とか(苦笑)。カタルーニャが舞台、しかもスペイン市民戦争が絡んでるので、カタラン人達が興味津々なのは分からないでも無いけど、最近忙しいんですよー、本当に!
まあ、それでも気分転換には良いかなと思いつつ、週末は予定ぎっちりだったので、平日の夜中に映画館へ足を運んで観てきたんですね。で、どうだったかと言うと、これが意外にも面白かった!いや、本当に期待とか全然して無かったんだけど、最近見た映画の中では断トツ、ここ2―3年観てきた映画の中でも、「薆を読む人」並みに良かったんじゃないかな(地中海ブログ:映画:愛を読む人(The Reader):恥と罪悪感、感情と公平さについて)。
と言う訳で今回も僕の独断と偏見を十二分に発揮して、至極勝手な映画評を書いてみようと思うんだけど、その前に何時もの様に一言:
警告:ネタバレになる危険があるので、映画を未だ見てない人はここで読むのをストップしましょう。
この映画を見終わった直後、僕の頭の中には一つの言葉が浮かび上がってきました:
“Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」
この言葉はローマ時代の劇作家であるプラウトゥス(Titus Maccius Plautus)によって発せられ、後に17世紀のイギリスの哲学者であり政治思想家でもあるトーマス・ホッブスによって広められたものなんだけど、今回の映画の本質って言うのは、この言葉の中に全て詰まってるんじゃないのかな?と思うんですね。そしてこれこそがこの映画の主題でもあると思うんだけど、それはずばり、「人間は誰でも悪魔に成り得る可能性をもっている」と言う事だろうと思います。
まあ、このテーマ自体はギリシャ喜劇以来、文学や映画、そして音楽など媒体を変えて繰り返し語られてきたテーマでもあって、はっきり言って「最も典型的で人気のある主題の一つ」と言えると思うんだけど、それを追求する為にスペイン市民戦争の傷跡が未だ癒えない1940年代のカタルーニャを舞台に描いたって所がこの映画の一つの特徴かなと思います。
そして実はここが結構大事なポイント。
スペインにおいてスペイン市民戦争って言うテーマは、それこそ繰り返し繰り返し語られてきたテーマで社会文化的にも大変重要なテーマだとは思うんだけど、それを示すかの様に、書店なんかに行くと、それこそ数限り無い程の研究書や小説なんかが並んでたりする訳ですよ。で、勿論それらを題材に今まで数多くの映画も創られてきたんだけど、それらの殆どって言うのは、スペイン市民戦争の背景やコンテクスト、細部なんかを忠実に再現する事に拘った、「スペイン市民戦争を描き出す為の映画」が殆どだったと思うんですね。
だから今回のPa Negreが「1940年代を舞台にした映画が創られた」って言うフレコミと共に発表された時、この事を聞いた多くのスペイン人達の反応って言うのは、「あー、又、戦争物ね」って言う意見が大半だったのでは?と思います。と言うか現にそうでした。
しかしですね、この映画がちょっと変わっていた所、それは、この映画にとって「市民戦争と言う舞台」はそれ程重要性を与えられてはいないと言う所なんです。もっと言っちゃうと、舞台は別にカタルーニャのポスト市民戦争時代じゃ無くても良かったのでは?と思うんですよね。その証拠に、この映画には、舞台となっている村や時代設定の詳細な説明なんかは一切出てこなくて、出てくるのは常に断片的な情報だけ。僕達はこの映画の舞台の全体像は愚か、この村が何処の村なのか?どう言う人達が住んでいるのか?どういう政治的なポジションをとっているのか?など、全く知らされる事はありません。
何故か?
それには2つの理由があって、一つには上にも書いた様に、この映画にとって一番重要なのは、この映画が語りたい「テーマ」であって、「コンテクストや舞台ではない」と言う事が挙げられます。スペイン市民戦争と言う舞台は、あくまでもテーマを語りたいが為に選び出された背景であり、それはテーマを語る為の道具に過ぎないと言う点が、今までのディテールを描き出す事を目的とした戦争物とは明らかに違う点となっています。
そしてもう一つの点は、この映画の構造と関わってくるんだけど、それはこの映画が「推理小説的な構造を採用している」と言う点にあります。その事が良く分かるのが、「一体この映画はどの様に語られているのか?」を考えた時なんだけど、言い方を変えれば、「我々は一体どの様にこの物語を理解して行っているのか?」と言う事なんですね。
そう考えた時、僕達が知り得る情報と言うのは、実は「主人公の男の子が知っている情報だけ」であって、彼が知らない情報は僕達には一切入ってこないと言う事に気が付くかと思います。つまり、この映画の進行と言うのは、何時も主人公の男の子の「目」と「口」を通してだと言う事が分かるんですね。で、その男の子が知らない部分が謎になっていて、謎が謎を呼びみたいな感じで、推理ミステリーっぽく進行して行くと言う運びになっています。そう言う意味において、この主人公の男の子は、この映画における語り手であり、且つ証言者と言っても良いかと思います。
そして実は映画内にその事を暗示するメタファーが隠されていたのですが、皆さん、お分かりになったでしょうか?
それはですね、主人公の男の子がカタツムリを見ているって言う、時間にしたらホンの数秒って言う場面だったんだけど、この時ばかりはカタツムリに焦点が当たっていて、その事がこの映画の構造、つまり「この男の子の目を通した視点で映画が語られている」と言うメタファーになっていたと言う訳なんです。
メタファー関連でもう一つ言っちゃうと、非常に重要なのが、題名にもなっている「Pa Negre」ですね。Pa Negreって言う単語はカタラン語で、直訳すると「黒いパン」と訳す事が出来るんだけど、これが表象しているのは、真っ白なパンを食べる事が出来ず、質の悪い黒いパンしか食べる事の出来なかった貧乏な人達の事を表しています。
僕達が普段食べてるパンって言うのは、小麦粉を使って焼いたものなんだけど、戦争時などには、その様な小麦粉を使ったパンって言うのは、大変贅沢な品物とされていました。そんな贅沢品を食べる事が出来たのは、ごく一部のブルジョアだけ。では、貧乏な一般市民は何を食べていたかと言うと、それがこの黒いパンだったと言う訳なんです。今では殆ど目にする事は無いんだけど、このパンは皮や胚芽まで含まれた精製度の低い粉を使って焼いていた為、発酵させてもそれ程膨らまず、焼き上がりが堅くなり、噛んでも噛み切れないと言うパンが出来上がると言う訳なんです。
しかしですね、よーく映画を見てみると、実はこの「黒いパン」が表象しているのは、この映画の主人公達を取り巻いている貧困を表しているだけでは無いと言う事に気が付くかと思います。そこがこの映画の大変秀逸な所なんだけど、黒いパンが表しているもう一つの事象、それはこの戦争が引き起こした貧困、そしてその貧困が引き起こした「心の闇」と「心の貧困」のメタファーにもなっていると言う所なんですね。
主人公の男の子は稀に見る大変清らかな心の持ち主でした。心から両親を尊敬し信頼していた。しかしですね、そんなピュアな心も、周りの悪しき心によって段々と変貌を遂げて行く事となります。最初の内は、自分の父親が人殺しだとは全く信じてなかったんだけど、それが段々明らかになるにつれて、主人公の心にも闇の部分が段々と支配されていく。そして最後にはとうとう、彼は肉親にさえも心を閉ざしてしまう事を選ぶ訳ですよ。つまり、どんなにピュアな心の持ち主でさえも、周りの状況によってはその心は黒く塗り潰されてしまうし、そんな真っ白な心の中にさえも、悪しき種は何時でも存在すると言う事が言いたいんですね。
そんな、この映画の「伝えたかった事」こそ、実はこの映画評の最初に引用したホッブスの言葉の中に凝縮されていると思う訳ですよ:
“Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」
面白い!流石に今年のゴヤ賞を総なめにしただけの事はあります。日本で公開されるのかどうか知らないけど、超おすすめです!カタラン語だけどね。
このゴヤ賞の発表以来、日本人、スペイン人含め、各方面から「是非見て感想聞かせてー」みたいな声が驚く程沢山来てて、最初の内は、「あー、又その内ねー」みたいな感じでかわしてたんだけど、最近そのプレッシャーが凄いの何のって。特にカタラン人とか(苦笑)。カタルーニャが舞台、しかもスペイン市民戦争が絡んでるので、カタラン人達が興味津々なのは分からないでも無いけど、最近忙しいんですよー、本当に!
まあ、それでも気分転換には良いかなと思いつつ、週末は予定ぎっちりだったので、平日の夜中に映画館へ足を運んで観てきたんですね。で、どうだったかと言うと、これが意外にも面白かった!いや、本当に期待とか全然して無かったんだけど、最近見た映画の中では断トツ、ここ2―3年観てきた映画の中でも、「薆を読む人」並みに良かったんじゃないかな(地中海ブログ:映画:愛を読む人(The Reader):恥と罪悪感、感情と公平さについて)。
と言う訳で今回も僕の独断と偏見を十二分に発揮して、至極勝手な映画評を書いてみようと思うんだけど、その前に何時もの様に一言:
警告:ネタバレになる危険があるので、映画を未だ見てない人はここで読むのをストップしましょう。
この映画を見終わった直後、僕の頭の中には一つの言葉が浮かび上がってきました:
“Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」
この言葉はローマ時代の劇作家であるプラウトゥス(Titus Maccius Plautus)によって発せられ、後に17世紀のイギリスの哲学者であり政治思想家でもあるトーマス・ホッブスによって広められたものなんだけど、今回の映画の本質って言うのは、この言葉の中に全て詰まってるんじゃないのかな?と思うんですね。そしてこれこそがこの映画の主題でもあると思うんだけど、それはずばり、「人間は誰でも悪魔に成り得る可能性をもっている」と言う事だろうと思います。
まあ、このテーマ自体はギリシャ喜劇以来、文学や映画、そして音楽など媒体を変えて繰り返し語られてきたテーマでもあって、はっきり言って「最も典型的で人気のある主題の一つ」と言えると思うんだけど、それを追求する為にスペイン市民戦争の傷跡が未だ癒えない1940年代のカタルーニャを舞台に描いたって所がこの映画の一つの特徴かなと思います。
そして実はここが結構大事なポイント。
スペインにおいてスペイン市民戦争って言うテーマは、それこそ繰り返し繰り返し語られてきたテーマで社会文化的にも大変重要なテーマだとは思うんだけど、それを示すかの様に、書店なんかに行くと、それこそ数限り無い程の研究書や小説なんかが並んでたりする訳ですよ。で、勿論それらを題材に今まで数多くの映画も創られてきたんだけど、それらの殆どって言うのは、スペイン市民戦争の背景やコンテクスト、細部なんかを忠実に再現する事に拘った、「スペイン市民戦争を描き出す為の映画」が殆どだったと思うんですね。
だから今回のPa Negreが「1940年代を舞台にした映画が創られた」って言うフレコミと共に発表された時、この事を聞いた多くのスペイン人達の反応って言うのは、「あー、又、戦争物ね」って言う意見が大半だったのでは?と思います。と言うか現にそうでした。
しかしですね、この映画がちょっと変わっていた所、それは、この映画にとって「市民戦争と言う舞台」はそれ程重要性を与えられてはいないと言う所なんです。もっと言っちゃうと、舞台は別にカタルーニャのポスト市民戦争時代じゃ無くても良かったのでは?と思うんですよね。その証拠に、この映画には、舞台となっている村や時代設定の詳細な説明なんかは一切出てこなくて、出てくるのは常に断片的な情報だけ。僕達はこの映画の舞台の全体像は愚か、この村が何処の村なのか?どう言う人達が住んでいるのか?どういう政治的なポジションをとっているのか?など、全く知らされる事はありません。
何故か?
それには2つの理由があって、一つには上にも書いた様に、この映画にとって一番重要なのは、この映画が語りたい「テーマ」であって、「コンテクストや舞台ではない」と言う事が挙げられます。スペイン市民戦争と言う舞台は、あくまでもテーマを語りたいが為に選び出された背景であり、それはテーマを語る為の道具に過ぎないと言う点が、今までのディテールを描き出す事を目的とした戦争物とは明らかに違う点となっています。
そしてもう一つの点は、この映画の構造と関わってくるんだけど、それはこの映画が「推理小説的な構造を採用している」と言う点にあります。その事が良く分かるのが、「一体この映画はどの様に語られているのか?」を考えた時なんだけど、言い方を変えれば、「我々は一体どの様にこの物語を理解して行っているのか?」と言う事なんですね。
そう考えた時、僕達が知り得る情報と言うのは、実は「主人公の男の子が知っている情報だけ」であって、彼が知らない情報は僕達には一切入ってこないと言う事に気が付くかと思います。つまり、この映画の進行と言うのは、何時も主人公の男の子の「目」と「口」を通してだと言う事が分かるんですね。で、その男の子が知らない部分が謎になっていて、謎が謎を呼びみたいな感じで、推理ミステリーっぽく進行して行くと言う運びになっています。そう言う意味において、この主人公の男の子は、この映画における語り手であり、且つ証言者と言っても良いかと思います。
そして実は映画内にその事を暗示するメタファーが隠されていたのですが、皆さん、お分かりになったでしょうか?
それはですね、主人公の男の子がカタツムリを見ているって言う、時間にしたらホンの数秒って言う場面だったんだけど、この時ばかりはカタツムリに焦点が当たっていて、その事がこの映画の構造、つまり「この男の子の目を通した視点で映画が語られている」と言うメタファーになっていたと言う訳なんです。
メタファー関連でもう一つ言っちゃうと、非常に重要なのが、題名にもなっている「Pa Negre」ですね。Pa Negreって言う単語はカタラン語で、直訳すると「黒いパン」と訳す事が出来るんだけど、これが表象しているのは、真っ白なパンを食べる事が出来ず、質の悪い黒いパンしか食べる事の出来なかった貧乏な人達の事を表しています。
僕達が普段食べてるパンって言うのは、小麦粉を使って焼いたものなんだけど、戦争時などには、その様な小麦粉を使ったパンって言うのは、大変贅沢な品物とされていました。そんな贅沢品を食べる事が出来たのは、ごく一部のブルジョアだけ。では、貧乏な一般市民は何を食べていたかと言うと、それがこの黒いパンだったと言う訳なんです。今では殆ど目にする事は無いんだけど、このパンは皮や胚芽まで含まれた精製度の低い粉を使って焼いていた為、発酵させてもそれ程膨らまず、焼き上がりが堅くなり、噛んでも噛み切れないと言うパンが出来上がると言う訳なんです。
しかしですね、よーく映画を見てみると、実はこの「黒いパン」が表象しているのは、この映画の主人公達を取り巻いている貧困を表しているだけでは無いと言う事に気が付くかと思います。そこがこの映画の大変秀逸な所なんだけど、黒いパンが表しているもう一つの事象、それはこの戦争が引き起こした貧困、そしてその貧困が引き起こした「心の闇」と「心の貧困」のメタファーにもなっていると言う所なんですね。
主人公の男の子は稀に見る大変清らかな心の持ち主でした。心から両親を尊敬し信頼していた。しかしですね、そんなピュアな心も、周りの悪しき心によって段々と変貌を遂げて行く事となります。最初の内は、自分の父親が人殺しだとは全く信じてなかったんだけど、それが段々明らかになるにつれて、主人公の心にも闇の部分が段々と支配されていく。そして最後にはとうとう、彼は肉親にさえも心を閉ざしてしまう事を選ぶ訳ですよ。つまり、どんなにピュアな心の持ち主でさえも、周りの状況によってはその心は黒く塗り潰されてしまうし、そんな真っ白な心の中にさえも、悪しき種は何時でも存在すると言う事が言いたいんですね。
そんな、この映画の「伝えたかった事」こそ、実はこの映画評の最初に引用したホッブスの言葉の中に凝縮されていると思う訳ですよ:
“Lupus est homo homini(Man is a wolf to man)”
「人間は人間にとっての狼である」
面白い!流石に今年のゴヤ賞を総なめにしただけの事はあります。日本で公開されるのかどうか知らないけど、超おすすめです!カタラン語だけどね。