地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
バルセロナのバス路線変更プロジェクト担当してたけど、何か質問ある?バルセロナの都市形態を最大限活かした都市モビリティ計画
今週バルセロナではスマートシティに関する世界で一番大きな会議、その名もスマートシティ国際会議(Smart City Expo: World Congress)が開かれています。



スマートシティに関しては当ブログで散々書いてきた通りなので今更書き足す事は無いと思うんだけど(地中海ブログ:スマートシティ国際会議(Smart City Expo: World Congress)に出席して思った事その1:バルセロナ国際見本市会場(Fira Barcelona)の印象)、「バルセロナのこの会議」に関して言えば、その構想の初期段階から関わっていた事なども手伝って、「非常に感慨深いなー」というのが正直な所でしょうか。と言うのもですね、スマートシティなるものが一体何モノなのか世間一般にはまだよく知られていなかった5年程前のこと、「この分野でリーダーシップをとっていく事が、バルセロナの競争力ひいては都市の魅力を確保していく上で絶対に必要になります!」と、当時の市長や局長クラスを説得し、当時はまだ「知る人ぞ知る」っていう存在でしかなかったSENSEable City LabのCarlo Rattiを招く事によってバルセロナ誘致に漕ぎつけた‥‥という事情があるからなんですね(地中海ブログ:サスキア・サッセンと世間話で盛り上がったディナー)。



そんなスマートシティ国際会議の一環で今週バルセロナでは実に画期的な試みが行われているんだけど、それこそ今日のお題である「バルセロナ市バス路線変更プロジェクト」なのです。



これは何かと言うと、その名の通り「バルセロナ市内を縦横無尽に走るバス路線の変更を行う」っていう街全体を巻き込んだ壮大なプロジェクトなんだけど、何を隠そうこのプロジェクトを担当していたのは僕でしたー。←これ、嘘の様なホントの話(笑)。



バルセロナ市役所で働いていた時は主に4つのプロジェクトを担当していて、1つはグラシア地区の歩行者空間プロジェクト(地中海ブログ:グラシア地区祭り:バルセロナの歩行者空間プロジェクトの責任者だったけど、何か質問ある?)、もう1つは欧州委員会との恊働プロジェクト(地中海ブログ:EUプロジェクト、ICING (Innovative Cities for the Next Generation)最終レビュー)、そして欧州グリーン首都賞を受賞したビトリア市の都市計画/都市モビリティ、そして最後の1つがこのバルセロナ市バス路線変更プロジェクトだったという訳なんです。



まあ勿論一人でやった訳では無くて、というかそんなこと口が裂けても言えなくて(汗)、市役所の同僚は勿論のこと、バス会社(TMB)で担当だった人達、地元工科大学のモビリティ分野の世界的権威、エネルギー関連のスペシャリストなどなど、実に様々な人達の何年にも及ぶ努力の結晶が、今日見るバス路線に結実した事は間違いありません。

「バルセロナモデル」に代表されるバルセロナの画期的な都市計画を研究している研究者は世界中に数多いるんだけど、文献や担当者との表面的なインタビューに頼るのではなく、実際の現場で手を動かし、あれやこれやとアイデアを出し合いながら「都市のかたち」を模索していくこと、そんな現場に参加する事が出来たという幸運。それらの事は今後の僕の人生にとって掛替えのない財産になったことは間違いないと思います(地中海ブログ:何故バルセロナオリンピックは成功したのか?まとめ

さて、では一体「何がそんなに画期的だったのか?」というと、それを説明する為には先ずバルセロナの都市形態の話から始める必要がありそうです。



これまた当ブログでは何度も説明してきた様に、バルセロナという街は胡桃の様な形をしているローマ時代に創られた歴史的中心地区(上の地図の真っ黒い部分がバルセロナの歴史的中心地区)、その胡桃を包み込む様に広がっている碁盤の目、更にその碁盤の目の外側に広がっている郊外という3層構造をとっていて、その中でもバルセロナにとって決定的に重要だったのが、19世紀半ばにイルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)により導入された板チョコの様な新市街地、通称セルダブロックなんですね。



一辺約130メートルの四角形が整然と150個も並ぶ風景は圧巻としか言いようがありません。「なぜセルダがこの様な画一的な計画を実行したのか?」については諸説あって、例えばその1つがセルダの友人だったモントゥリオル(Narcis Monturiol:潜水艦発明の先駆者(地中海ブログ:エティエンヌ・カベ(Etienne Cabet)とモントゥリオル(Narcis Monturiol)))の影響を受けたんじゃないか?という大変ロマンチックなものが存在したりします。このモントゥリオルなる人物は、「海底2万マイル」に影響を受けて潜水艦を発明したんだけど、その彼の思想に多大なる影響を与えていたのがエティエンヌ・カベだったと言う事は専門家の間では良く知られている話だったりします。



ちなみに「ノーチラス号の資金源がビーゴ近郊に沈没した船からだった」というのは、「他には何も無い」と皮肉を込めて言うガリシア人達が嬉しそうにする数少ない自慢話の1つです(地中海ブログ:ガリシア旅行その3:エンリック・ミラージェス(Enric Miralles)の建築、ビーゴ大学(Univeristy of Vigo)その1:ミラージェスの真骨頂、手書きのカーブを存分に用いた名建築)。



もう1つちなみに、HUNTER x HUNTERの12巻に出てくる幻影旅団が隠れていたヨークシンシティの地図は、バルセロナの新市街地(詳しく言うとMaria Cristinaからサンツ駅、そしてスペイン広場)辺りをコピーしているという事は以前書いた通りです(地中海ブログ:世界最悪の絵画修復が村の最高の宣伝になってしまった件とか、HUNTER x HUNTERの中に密かにバルセロナが登場する件とか)。


(スペイン広場辺りの地図:上のHUNTER x HUNTERの絵と比較すると如何にそっくりかが分かるかと思います)

あー、脱線してしまった‥‥。という訳でセルダの都市計画に話を戻すと、最近ではこの19世紀半ばに創られたセルダブロックが再び脚光を浴び始め、駐車場や工場として不適切利用されていた中庭を市民に開放しようという動きがある事などは当ブログで紹介してきた通りです(地中海ブログ:エンサンチェ(Ensanche:新市街地)セルダブロック中庭開放計画その1: Jardins de Maria Merce Marcal)。

一方、都市内におけるバスの路線というのは、一般的に言ってその都市の拡大と共に発展してきたと言えるかと思います。つまり今までは人があまり住んでいなかった地域が開発された事によって、その地域に市民が集中し始めたが為に既存の路線が無理矢理繋げられたり‥‥と言った様に。その様にして出来上がったのが現在我々が各都市で見る事が出来るバス路線なんだけど、それらは文字通り「グニャグニャ」としていて、ある地点からある地点に移動する所要時間にしてもエネルギー消費の観点から見ても明らかに最適化されているとは言い難い状況に陥っているのが常だと思うんですね。



今回バルセロナで僕達が目指したもの、それは地点Aから地点Bに移動する際に最も所要時間が短くなり、且つ、最もエネルギー消費が少なく、そしてなるべく多くのエリアを最小のバス路線と本数でカバー出来ると言う最適解でした。



その際に大変考慮したのが上述したセルダブロックであり、バルセロナという都市が「地」として元々持っていた都市形態だったのです。もっと具体的に言うと、整然と並べられたセルダブロックに沿って上の図でA点からC点に移動したい人は、取り合えずA点からB点まで直進してからB点で一度乗り換える。そして再びB点からC点まで直進する事によって移動時間を最小化出来る‥‥というアイデアなんですね。このアイデアを実際の路線に翻訳するとどうなるか?と言うと、こうなります:



山手側から海側に向かって一気に降りて行くバス路線。そしてもう1つは:



左手側(右手側)から右手側(左手側)へと真横一直線に進んで行く路線群。それが合わさったのがこれ:



現在バルセロナ市内を走っているバスにはH18とかV20と言った「H」と「V」という記号が付いているのですが、これはHorizon(水平)とVertical(垂直)の頭文字であり、その記号を見る事によって市民は「あー、このバスは水平に走ってるバスなんだなー」と、一目で認識出来るという訳なのです。

さて、この様なプランを実現する際に非常に重要になってくるのが乗り換え場所、つまりバス停なんだけど、このバス停のデザインとコンセプト創りには非常に長い時間とエネルギーが注ぎ込まれました。

と言うのもバルセロナのバス停は、大体400メートル毎に配置されているんだけど、この400メートルという数字がミソで、これは大人が普通に歩いて5分の距離であり、歩いて5分というのは人が歩こうと思う限界時間なんだそうです。つまり5分を超えると他の交通手段を使おうとするらしいんですね。更に更に、400メートルというのは上述のセルダブロックに換算するとブロック3つ分に相当するんだけど、この様に上手く分配されたバス停をその地域における情報の結節点、つまり「日本で言う所のコンビニの様な存在にしようじゃないか!」というのが僕達が出した最初の提案でした。



そしてそれら情報の結節点には当時としてはかなり斬新だったタッチパネル式の液晶を配置し、そこで市民は様々な情報を得る事が出来る‥‥という提案がなされたのです。



現在見る事が出来るバス停にはこれら全ての提案が「反映されてはいない」んだけど、と言うのもバス停のデザインに関して絶対的な権限を持っているのがフランスの大手広告会社、JC Decauxという会社であり、バス停に関しては彼らの意向に従う必要があったからなんですね。ちなみにこの会社のビジネスモデルは非常に面白くて、彼らは例えばバルセロナ市なんかにこう働きかけるわけですよ:

「バス停を無料でデザインします。建設費も設置費も全て我々が負担します。その代わり、バス停での広告独占権は頂きますよ」

と。この話を聞いた時は度肝を抜かれましたけどね(笑)。ちなみにセニョール・デコーがバルセロナに来る時は「わざわざ市長が出迎えに行く」という噂があります(笑)(地中海ブログ:JC Decaux(JCデコー社)とフランス屋外広告事情;地中海ブログ:ヨーロッパのバス停デザイン:バルセロナ新バス停計画)。

まあ、そんなこんなで、足掛け10年あまりを経てようやく実施に辿り着く事が出来た今回のバルセロナ市バス路線変更計画。勿論ここがゴールではなくて、今後市民へのアンケートなどを経て、市民の反響などを見ながら少しづつ路線修正していく事になると思います。



そう、我々が毎日使うインフラの計画、ひいては都市計画とは、その計画が竣工した時がゴールなのではなく、「そのインフラを使っている市民がどう思っているのか?」、「使い勝手はどうなのか?」、「何処か不備は無いのか?」などユーザーの反応を見ながら段々と修正していく、最適化に近づけていく、そこまでやって初めてインフラ計画と言えるのです。

そういう意味で言うと、バルセロナのバス路線変更計画はまだ始まったばかりなのです。
 
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| バルセロナ都市計画 | 06:12 | comments(10) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
何故バルセロナオリンピックは成功したのか?:まとめ
スペイン北部(ガリシア)に広がる大自然の中で、ど田舎生活を満喫しているcruasanです。



とりあえずバケーション初日の昨日は、家の真ん前にある昔ながらのパン釜を使っているパン屋さんにパンを買いに行ってきました。



毎朝8時と13時キッカリにパン釜から出されるこのパンは、外はカリッとしてるのに、中は信じられないほどホクホク。このアツアツのパンに、この地方でとれた濃厚なバターとハチミツ、そしてワインを並べると、もう3つ星レストランも顔負けの食卓に早変わり!しかもこんなに美味しいパンが一本1ユーロ(100円程度)。田舎サイコー!!



さて、僕が田舎生活を満喫している最中、世界中の人々の眼を釘付けにしていたのがブエノスアイレスで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会であり、皆さんご存知の通り2020年のオリンピック開催都市は東京に決定したのですが、(その事を受け)早くも僕の所に幾つか質問らしきものが来ているので今日はその話題を取り上げようと思います。



まあ何の事はない、オリンピック史上最も成功した事例の1つとして語られている「バルセロナオリンピックについて」、更にはその際に行われた「都市計画と都市戦略について」なのですが、「オリンピックを契機としたバルセロナモデルについて」は、当ブログで散々書いてきた通りだし、逆に言えば当ブログで書いてきた以上の事があるとは思えないので、それを僕の視点から少し纏めておこうかなと思います。

(注意)僕の視点というのは、バルセロナ市役所そしてカタルーニャ州政府に勤めた経験を踏まえて、「バルセロナの外側から」というよりは、「バルセロナの内側から実際にバルセロナの都市計画を担当、実施した立場から見たらどう見えるか?」という文脈です。



バルセロナという都市がオリンピックを契機として大成功を収めた理由、それは先ず、この都市がおかれた歴史的背景を考慮する必要が多分にあると思います。というか、僕の眼から見たらそれが全てだと言っても過言ではありません(地中海ブログ:もう一つの9月11日:カタルーニャの場合:グローバルの中に息づくローカリティ、地中海ブログ:(速報)カタルーニャ州議会選挙2012:カタルーニャ分離独立への国民投票は実施されず!)。



70年代半ばまで続いたフランコによる独裁政権時代、バルセロナは中央政府に嫌われていた為に教育や医療を含む都市インフラへの投資が十分に行われず、生活インフラの多くの部分を近隣住民自らが組織化しなければなりませんでした(地中海ブログ:バルセロナモデルと市民意識、地中海ブログ:レセップス広場改修工事(Remodelacion de la Plaza Lesseps)に見るバルセロナモデル(Barcelona Model)の本質)。



この時の経験がバルセロナにおける近隣住民ネットワークを(世界的に見て)大変特別なものに押し上げ、ボトムアップ的に(教育や病院の)カリキュラム(=ソフト)を自らで構築する事を可能にしたんですね。重要なのは、それら適切なプログラムが作られた後で、「建物としての形」を与える為の資金が流れ込んできたという順序です(オリンピック誘致が決定したのは1986年)。つまり「ソフト(=プログラム)ありきのハード(=建築)」を計画する事が出来たということなのです。普通は反対で、「ソフト無きハード(=箱モノ)」になりがちなんだけど、バルセロナの場合は歴史的背景からその過程が逆になり、正にその事が功を奏したということです。



また、この地方特有の問題としてよく取り上げられる「アイデンティティ」という観点から、1975年まで続いたフランコ政権が崩壊し民主主義に移行するにあたって、カタルーニャに言語や文化を含む表現の自由が認められたということがバルセロナオリンピック開催にあたって非常に大きな意味を持っていたと思います。



中央政府により押さえつけられていたカタルーニャの社会文化的アイデンティティが解放された当時(1970年代後半)、カタルーニャ社会全体を包んでいた高揚感が凄まじかった事は想像に難くありません。昨日までは自分達の言語(カタラン語)をしゃべろうものなら投獄され、外国語(カステリャーノ語)を使用する事を強要されていたのに、今日からはパブリックスペースで誰とでも「自分の言語で自由に話す事が出来る」、「自分の言語で書かれた本を読む事が出来る」といった状況が生まれた訳ですから。



こういう所から「公共空間「と「政治」が結び付き、南欧都市におけるパブリックスペースの重要性というものが立ち現れ、更には市民の間に公共空間の重要性が経験として共有される事になるのだと思います(地中海ブログ:美術の商品化と公共空間: Manuel J. Borja-Villel、地中海ブログ:FC Barcelona(バルサ)のマーケティングがスゴイ:バルサ・ミュージアムに見る正に「ゴールは偶然の産物ではない」)。



言語を通した社会変化という事についてもう少しだけ触れておくと、民主主義への移行直後というのは、カタラン語をしゃべる事が単なるファッショナブルだったのではなく(今、カタルーニャでカタラン語を使っている多くの若者は、歴史的認識やアイデンティティ、もしくは1つの政治的主張というよりも、「それ(カタラン語をしゃべる事)がカッコイイから」という意識が強い)、人間的で根源的な喜びですらあったのだと思います(地中海ブログ:カタルーニャの夢、地中海の首都:地中海同盟セレモニーに見る言語選択という政治的問題、地中海ブログ:スペイン語の難しさに見るスペインの多様性:ガリシア語とカステリャーノ語)。



そんな社会的に盛り上がっていた雰囲気の中、オリンピック開催という大きな目標を与えられ、「カタルーニャを世界地図の中に位置づけるぞ!」という気概の下、市民が一丸となってそれに向かっていったという背景こそ、バルセロナオリンピックが成功した1つの大きな要因であると僕は思います。というか、先ずはここを押さえなければバルセロナオリンピックの全貌を語る事は出来ません(この様な視点の欠如こそ、下記に記す魅力的なキーワードをちりばめた都市計画手法にのみ着目した多くの論考に見られる特徴の1つでもあるのです)。



で、(ここからは神憑っているんだけど)それら市民の思いを1つに纏め上げる圧倒的なカリスマ性を持ったリーダーが出現したということは非常に大きかったと思います(地中海ブログ:パスクアル・マラガイ(Pasqual Maragall)という政治家2)。当時のカタルーニャの政治に関して非常に面白いと思うのは、カタルーニャ左派(PSC)、右派(CiU)に関わらず、彼らの目的は「カタルーニャという地域をヨーロッパで最も魅力的な地域にすること」と共通していたことかな(地中海ブログ:欧州議会選挙結果:スペインとカタルーニャの場合:Escucha Catalunya!)。



更に、今回のマドリードによる2020年オリンピック誘致活動とは根本的に異なる点を指摘しておくと、フランコ時代から民主化移行を見越して世界中にちりばめられた政治的/知的ネットワークを駆使してオリンピックを成功に導いたその政治力ですね(地中海ブログ:国際オリンピック委員会(IOC)前会長のフアン・アントニオ・サマランチ(Juan Antonio Samaranch)氏死去、地中海ブログ:東さんの「SNS直接民主制」とかマニュエル・カステル(Manuel Castells)のMovilizacionとか、地中海ブログ:欧州工科大学院(EIT)の鼓動その1:マニュエル・カステルとネットワーク型大学システムの試み、地中海ブログ:サスキア・サッセンと世間話で盛り上がったディナー)。



この様な歴史的背景に後押しされつつ、戦略的に都市計画を成功に導いていったのが、カタルーニャの建築家達が長い時間を掛けて練り上げていった都市戦略/都市計画です。例えばそれは、大規模イベントを利用して(長期的に目指すべき「都市のかたち」に基づきながらも)その都度局所的な都市計画を成功させてきたということが先ずは挙げられるかな(地中海ブログ:バルセロナのイベント発展型都市戦略とGSMA2010(Mobile World Congress 2010))。



1888年の国際博覧会ではそれまで中央政府(マドリード)による占領のシンボルだったシウダデリャ要塞を都市の公園に変換する事に成功し、1929年の国際博覧会では都市インフラとモンジュイックの丘の整備といったことなどですね(地中海ブログ:バルセロナ都市戦略:イベント発展型)。



また大規模な範囲を一度にスクラップ&ビルドするのではなく、「やれる事からやる、やれる所から手をつける」という現実的な計画からコツコツと始めたこと。つまりは小さな公共空間から車を排除しつつ木々を植え「公共空間を人々の手に取り戻す」という様に、市民に「我々の都市が日に日に良くなってきている!」と実感させた事は大きいと思います。



又、それら小さな公共空間を都市全体に挿入しつつ、それらをネットワークで結ぶ事によって、地区全体を活性化することに成功しました(地中海ブログ:グラシア地区祭り:バルセロナの歩行者空間プロジェクトの責任者だったけど、何か質問ある?)。これは言ってみれば、白黒(ネガ・ポジ)を反転させて都市における公共空間の重要性を視覚的に浮かび上がらせた「ノリーの図」を具体化したアイデアだと言う事が出来るかと思います(地中海ブログ:フランクフルト旅行その3:広告としての緑の都市計画)。



更に言えば、これら個々の都市計画の裏側には、色あせることの無い大変秀逸なバルセロナの都市戦略が横たわっています(地中海ブログ:大西洋の弧:スペインとポルトガルを連結するAVE(高速鉄道)について、地中海ブログ:ヨーロッパの都市別カテゴリー:ブルーバナナ(Blue Banana)とかサルコジ(Nicolas Sarkozy)首相とか、地中海ブログ:カタルーニャの打ち出した新しい都市戦略:バイオ医療( BioPol, BioRegio)、地中海ブログ:地中海連合(Union pour la Mediterranee)の常設事務局はバルセロナに)。



これは、バルセロナという「都市単体」ではなく、「地中海を共有する都市間」で恊働し、その地域一帯としての競争力を高めることによって、パリやロンドンといったメガロポリスに対抗するというアイデアです(地中海ブログ:Euroregion(ユーロリージョン)とカタルーニャの都市戦略:バイオ医療を核としたクラスター形成、地中海ブログ:シティ・リージョンという考え方その1:スンド海峡のエレスンド・リージョンについて、地中海ブログ:地中海の弧の連結問題:ペルピニャン−フィゲラス−バルセロナ間の高速鉄道連結計画の裏に見えるもの、地中海ブログ:バルセロナの新たなる都市戦略:ビルバオから学ぶバルセロナ都市圏再生の曙)。

これら上述した全てのことがらが複雑に絡み合いながらも絶妙なハーモニーを醸し出し、オリンピック開催という目標に向かっていった末に生み出されたのがバルセロナオリンピックの大成功だったのです。

では逆に、バルセロナオリンピックによって引き起こされた「負の面はないのか?」というと‥‥勿論あります。先ず挙げられるのはオリンピック村についての批判ですね。



ビーチと中心市街地に地下鉄一本でアクセス出来るエリア(Ciudadella Villa Olimpica)に選手村を大々的に建設し、オリンピックが終わった暁には低所得者向けのソーシャルハウジングとしての活用を謳っていたのに、蓋を空けてみれば中産階級向けの高級アパートに化けていたことが当時モーレツな批判を浴びていました(地中海ブログ:世界一美しい図書館:ポンペウ・ファブラ大学(Universitat Pompeu Fabra)図書館の一般立ち入り禁止エリアに入ってきた)。



また、「バルセロナ」というブランド=イメージを確立する為に、中心市街地から「汚いイメージ」=貧困層や移民、売春婦や麻薬関連などを駆逐し、市外や市内の一区画へ強制的に集めた結果、スラムが出来てしまったこと(地中海ブログ:バルセロナの中心市街地で新たな現象が起こりつつある予感がするその3:街頭売春が引き起こした公共空間の劣化、地中海ブログ:カタルーニャ州政府がスペイン初となる公共空間における売春を取り締まる規則を検討中らしい)。



更に悪い事に、極度の観光化の結果、歴史的中心地区はジェントリフィケーションに見舞われてしまいました(地中海ブログ:バルセロナの中心市街地で新たな現象が起こりつつある予感がするその1:ジェントリフィケーションとその向こう側、地中海ブログ:ビルバオ・グッゲンハイム効果とジェントリフィケーション、地中海ブログ:バルセロナの中心市街地で新たな現象が起こりつつある予感がするその2:逆ジャントリフィケーション)。



そしてこの様な「バルセロナの大成功」を真似ようとし、幾つかの都市が「バルセロナモデル」を輸入したんだけど、今まで述べてきた様な歴史的/文化的/社会的背景を全く考慮せず表面的に真似ただけだったので、元々そこに存在した既存の都市組織(Urban Tissue)が破壊されてしまったこと(地中海ブログ:パン屋さんのパン窯は何故残っているのか?という問題は、もしかしたらバルセロナの旧工場跡地再生計画を通した都市再活性化と通ずる所があるのかも、とか思ったりして)。

こんな所かなー。

これから先、オリンピック関係でバルセロナの都市計画、都市戦略、もしくはそれらに付随した「バルセロナモデル」について多くの論考が出てくるとは思うんだけど、それらは全て上記の何れかに分類出来ると思います。



あー、久しぶりに頭使ったらなんかすごく疲れちゃった。赤ワインと生ハム食べて寝よ。
| バルセロナ都市計画 | 00:59 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
グラシア地区祭り:バルセロナの歩行者空間プロジェクトの責任者だったけど、何か質問ある?

街路の飾り付けなどが結構凄いと評判の、バルセロナのグラシア地区祭りに行ってきました。って言っても先週の話なんですけどね。何で先週のネタを今頃になって書いてるかって、何か最近、ミーティングやら何やらでハチャメチャに忙しくって、なかなかこの話題を書く時間が無かったからです。最近余りにも暑いので、夏バテって噂もあるんですけど(苦笑)。

グラシア地区といえば、アーティストや映画関係者を中心としたクリエーター関係の人達が多く住んでいたり、エラスムスなんかで来ている学生にとっては、「市内で住みたい地区ナンバーワン」に選ばれる程お洒落な地区として知られてるんだけど(地中海ブログ:ちょっと気になる広告:エラスムス(ヨーロッパの大学間交換留学プログラム:The European Community Action Scheme for the Mobility of University Students : ERASMUS)の実態???)、この地区にこれ程の賑わいを齎しているのは、地区全体の街路レベルに入っている店舗の数とその多様性、そしてそこに広がる歩行者空間だと思うんですね。



グラシア地区って数年前までは細い街路にさえも沢山の車が入り込んでて、正に「公共空間が車に乗っ取られてる」って言う典型的な状態だったんだけど、その様な「街路=公共空間を人々の手に取り戻そう!(岡部明子さん)」と、地区内への車の出入りを禁止して、住民が安心して歩いて暮らせる街路空間に生まれ変わらせるという計画が数年前に持ち上がりました。その計画が実行されて以来、この地区には沢山の魅力的なお店がオープンしだし、それにつれてバルセロナ中から人々が集まる様になり、その相乗効果でバルセロナでも一、二を争う程のお洒落な地区に変貌を遂げたと言う訳なんです。



まあ、つまりはこの地区の公共空間政策は大成功で、その証拠に、この辺りの地価っていうのは軒並み上がってて、云わばジェントリフィケーションの傾向が見られる訳なんだけど、このグラシア地区の歩行者空間計画の責任者してたのって、実は僕なんですよね(地中海ブログ:バルセロナモデル:グラシア地区再開発)。嘘の様なホントの話(笑)。

多分、このブログの読者の皆さんなんて、「えー、cruasanって、日中はコーヒーばっかり飲んで、夜はパエリアを食べまくって、「美味しいー!」とか、かなり適当なコメントしてる人じゃないのー?」とか、「年がら年中休みで、その度に旅行ばっかり行ってて、何時働いてるか分からないー!」とか思ってる人、多いんじゃないでしょうか?・・・し、失礼な、冗談じゃない!当たってます(苦笑)。

最近、夕涼みにと思って「ダンテの神曲、地獄篇」を読み返してるんだけど、「cruasanがパエリアばっかり食べてノホホンとしてる」とか思ってるあなた、ダンテと一緒に地獄に落ちてください(笑)。ちなみにスペイン語版の「ダンテ神曲、地獄篇」の挿絵を書いているのは、今やヨーロッパを代表するカタラン人アーティスト、ミケル・バルセロ氏です(地中海ブログ:スペインを代表する現代アーティスト、ミケル・バルセロ(Miquel Barcelo)の展覧会:La Solitude Organisative)。このスペイン語版のダンテ神曲は、ミケル・バルセロ氏の絵を見るだけでも価値ある書籍となっていると思います。



こんな味のある挿絵の数々が差し込まれている事などから、スペイン語が読めなくても十分、ヴィジュアル的に楽しめる本となっているんですね。

さて、で、今日の本題なんだけど、上にも書いた様に最近は本当に忙しかったので、日中はゆっくりとお祭りを見に行く事が出来ず、結局行く事が出来たのは最終日の深夜0時を過ぎた頃でした。でも、そこはやっぱりラテン系!深夜になってもお祭りは収束の気配を全く見せず、逆に駅から地区内へと流れ込んで来る人の波が段々と多くなってくる程で、今正にお祭りは盛り上がりの絶頂を迎えようとしている所でした。



しかもその辺の広場では子供達がサッカーボールとか蹴って遊んでるし・・・夜の3時過ぎですよ!良い子は寝る時間でしょ?「こんな環境の中からメッシとか出てくるのかなー」とか思って、妙に納得してしまった。そんな永遠に続くかの様なお祭りの背景を演出しているのが街路中に所狭しと飾り付けられた出し物達なんだけど、これがちょっと凄いんです:



各街路毎に個性があって、こんな感じで大変手の込んだ作品に仕上がっているんですね。そしてそこではミニコンサートなんかが開かれていて、その音楽性によって、まるで各街路の特徴が醸し出されているかの様ですらありました。



キャラクター関連も沢山あったんだけど、ピーターパンとか宇宙人とか、聞く所によると、この飾り付けを用意する為に、近隣住民が街路毎に1年も前から着々と準備を進めてきたのだとか。これなんて、本当に綺麗だった:



暗闇の中に浮かび上がる灯篭みたいなものが、まるで我々を幻想の世界に運んでいってくれるかの様で、体感気温が5度は下がった様な気がします(笑)。



今回は本当に時間が無くてホンの一部しか見る事が出来なかったんだけど、久しぶりに良いものを見させてもらったなー。

グローバリゼーションが世界中を席巻し、隣に住んでいる人の顔さえ知らないという状況が当たり前になってきている今の世の中において、このようなローカルなお祭りが今でも残っているという事、そしてそれが近隣住民主導で行われているという事は、この地区には依然として近隣住民の確固としたネットワークが残っていて、それが非常に活発且つ、精力的に働いているという事を意味するんですね。そんな住民側からのソフトパワーがあるからこそ、この地区の歩行者空間計画と言うハードな計画は成功したんだと思います。そしてそれこそが、今世紀最大の課題であり、我々の都市が必然的に抱えてしまう都市の闇、ジェントリフィケーションに対抗する一つの手段なのかもしれません(地中海ブログ:都市の闇:ヴェネチア(Venezia)の裏の顔とジェントリフィケーション(Gentrification))。

「街路における活気が生まれてくる背景には近隣住民の固い絆があり、歩行者空間計画というハード面での改善は単に彼らの背中を押すに過ぎない」と言う僕の仮説は間違ってなかった。あの計画から早5年、今やっと、あの時の仮説が住民達の目に見え始めようとしています。

追記(2015年8月18日)
今年のverdid通りの飾り付けのテーマは「日本」だそうです。で、これが結構よく出来てる!




鳥居には「ベルデイ」の文字が!上手く書けてる。もし「イ」が「ィ」だったら完璧(笑)。いたる所に日本語が乱立してて、これはこれで結構面白い:



「地元愛」っていうところが、このエリアを愛する人達の心情がよく出てて良かったかな。



そして海外の人達に大人気の伏見稲荷大社の登場〜。



お相撲さんも居たりします。
Verdi通りは今年の大賞を受賞したそうです。おめでとー。

追記その2(2016年8月21日)

今年も夏の風物詩、グラシア地区祭がやってきました!
このお祭りがやってくると、「あー、夏もそろそろ終わりだなー」とか思います。

今年も非常に手の込んだ飾り付けをゆっくりと楽しませてもらいました。

その中でも特に印象に残ったのがこちら:

じゃーん、Rovira i Trias広場のラピュタのロボット(笑)。肩に草が生えてることから、このロボットは空中庭園を守るロボットですね。花とかあげてるしww

しかも結構良く出来る!

どうやらこの広場の飾り付けのコンセプトが「自然との共生」ということらしく、その自然を守る為のシンボルとしてラピュタのロボットを作ったのだとか(その辺に居た子供達談)。

 

| バルセロナ都市計画 | 03:52 | comments(5) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
セルダとポストメトロポリス(Cerda Postmetropolis):エドワード・ソージャ(Edward W.Soja)の空間的正義(Spatial Justice)
今週は「セルダとポストメトロポリス(Cerda Postmetropolis)」と題された大規模な国際カンファレンスがバルセロナ現代文化センター(CCCB)で行われていて、その関係で世界各地から建築家や都市計画家、地理学者なんかがバルセロナに大集合していました。カンファレンスでは様々なプログラムが組まれていたんだけど、バルセロナモデルやバルセロナ都市戦略、はたまた「ヨーロッパ公共空間賞」の発表と授賞式なんかもあったりして、建築や都市計画関連のイベント目白押しの一週間だったんですね。

ちなみに僕はCCCBのイベントにものすごく行きたくて、何週間も前から予定を空けておいたんだけど、直前にどうしても外せない急用が入ってしまった為に泣く泣く断念。結局行く事が出来たのはバルセロナ高等建築学校(ETSAB)で行われたエドワード・ソージャ(Edward W.Soja)のカンファレンスのみという散々な結果に終わってしまった(悲)。



エドワード・ソージャと言えばロサンゼルスの研究でその名を馳せた泣く子も黙るアメリカ西海岸を代表する地理学者です。いわゆるシカゴ学派に対するロサンゼルス学派(あるのか?)というやつですね。伝統的なシカゴ学派の潮流にグローバル資本主義の視点を持ち込み、都市社会の様態の変化を説明したサスキア・サッセンに対して、ソージャなどロサンゼルスを中心とする学派は、移民の様態と、それらが引き起こす都市や地域のプランニングの変化に焦点を絞っている様に思われます(僕的には)。

僕が彼の事を知ったのはもうかれこれ7年程前の事でした。と言うのもソージャさんはイグナシ・デ・ソラ・モラレスと仲が良かった為に、イグナシの死後も頻繁にメトロポリスプログラムのゲストスピーカーとして講演しに来ていたからです(地中海ブログ:イグナシ・デ・ソラ・モラレス(Ignasi de Sola Morales)とマスター・メトロポリス・プログラム(Master Metropolis))。だから今までにも何度か彼の講演を聞く機会があったり、他の学生と一緒にコーヒーを飲みながら、ゆっくりとロサンゼルスの現状についての話を聞く機会があったりしたのですが、今回の彼の講演を聞いていて面白いなと思ったのは、彼が最近提案している、「空間的正義(Spatial Justice)」という考えについてでしたね。(ちなみにこのコンセプトは彼が最近出版したSeeking spatial justiceという本に依っているそうです。)

Justiceって言うと、今日本で大変話題になっているマイケル・サンデル(Michael J.Sandel)教授の「ハーバード白熱教室」を思い出す人も多いのではないかと思われます(実はサンデル教授も5月初めにバルセロナに来てCCCBでカンファレンスをしていました!)。



僕もネットで彼の授業を見たりしているのですが、まあ、とにかく分り易くて面白い!彼の授業は主に政治哲学という、普通だったらちょっと身構えちゃうようなテーマを扱っているんだけど、彼の何が凄いって、僕みたいな素人にもちゃんと分かる言葉で、その分野の概念をきちんと説明している所ですね。つまり難しい事を分かりやすく説明出来ているという事です。これって当たり前の事なんだけど、実はこの当たり前の事が出来ない人が世の中には意外に多い。ブログでも何でもそうだと思うんだけど、同じ分野の人やプロの人に自分の考えを伝えるのはそれ程難しくありません。そうじゃなくて、何にも知らない人や子供、お年寄りなんかにも自分がしている事を自分の言葉で伝える事。目指す所は究極ココですね。(あー、又脱線してしまった・・・。)

さて、では一体、空間的正義とは何なのか?

ソージャさんは大変分かり易い例を挙げながら説明していたんだけど、最近ロサンゼルスではバス会社が、インフラ投資の不平等性を理由に市当局を訴えるという事件が起こったそうです。何故なら市当局は、お金持ちや白人が住むエリアのみに莫大なお金を注ぎ込み、地下鉄など公共交通インフラを充実させる一方で、人口集中が激しく交通インフラが明らかに不足している貧困エリアには投資を殆どせず、その状況が全く改善されなかったのがその理由なのだとか。その貧乏なエリアに住んでいる人達は当然車を買うお金なんかあるはずも無く、仕事や学校などに行く移動は公共交通(バス)に限られてくる訳なんだけど、投資不足が原因で生活に支障が出てきている地域もあるんだそうです。

この話を聞いていて僕が思い出したのは、現在バルセロナが進めている市バス路線変更プロジェクトのミーティングにおける、とある一コマの光景でした。2年程前の寒い日の朝だったと思うのですが、その時の議論は僕にとっては忘れられないくらい衝撃的だったんですね。その時の様子を僕は当時のブログにこんな風に書いています:

現在進行中のプロジェクトに新バス路線プロジェクトがあります。何かと言うとその名の通りバルセロナのバス路線を全て新しく変えるというプロジェクトです。バスの路線って都市の成長と共に発達してきたものなのでぐにゃぐにゃなんですね。つまり無駄が多い。これを最適化しようというのが趣旨。何の為に?エネルギーの無駄を減らす為に。新たな路線は単純明快。山方向から海に向かう路線郡と左から右に向かう路線郡。ただそれだけ。

さて、今日来てたお客さんがこんな質問をしました。 「新しい路線は現状のバス待ち間隔15分を4分にするんだろ?しかも走行距離が減って現状のバス必要台数よりも25台分減らせる。だからエネルギーも減るって訳か!」

大間違いです。一見、バスの台数が減るのでその分エネルギーが減るように思えるかも知れません。しかし現状待ち時間15分を4分に改善する為にバスの走行頻度を上げる事になるのです。結果として総走行距離は現状よりも長くなる為、必要エネルギーも増加するのです。

しかしそれでもこの新路線は現状よりもよっぽど効率的だと考えられています。何故だか分かりますか?実は新路線がカバーする都市範囲が現状の88%から98%に上がる為に自家用車の利用が減ると予測されているからです。その差分を計算すると新路線の方が現状よりもエネルギー効率が良い計算になるんです ね。

つまりバス路線だけでみると増加するエネルギーも都市全体で見るとエネルギー需要が激減し、結果サステイナブルシティになると言う訳です。

・・・ここまで書いてきて何なんだけど、この事例、あんまり関係ないかな(笑)。「都市、バス、カバーしているエリア」って言うキーワードで頭の中を検索したら、「パッ」とこの事例が出てきたもので。まあ、それでも、公共交通インフラがカバーしているエリアを現在の88%から98%に上げる事によって、その結果、環境的にも優しくなるという視点の導入プロセスは結構重要だとは思いますけどね。今度、ソージャさんにも教えてあげよう。(5年後かな(笑))
| バルセロナ都市計画 | 21:50 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
パン屋さんのパン窯は何故残っているのか?という問題は、もしかしたらバルセロナの旧工場跡地再生計画を通した都市再活性化と通ずる所があるのかも、とか思ったりして
バルセロナには結構美味しいパン屋さんがチラホラとあるのですが、それらパン屋さんの幾つかでは、今でも昔ながらのパン窯を使ってパンを焼いているんだそうです。



で、そのようなパン屋さんというのは、旧市街の細い路地の中にあったり、昔から続く地元密着の小さなお店であったりするのですが、コレは何故なのか?

ココからは僕の勝手な想像です。テキトーに、柿ピーでもつまみながら聞いてください(笑)。

パン屋さんという職業がいつ頃から存在したのか知らないのですが(wikiによると、ローマ時代には既にパン屋さんが存在したらしい)多分、長―いパン屋の歴史の中で比較的最近(20世紀の最初くらい)までは、何処のパン屋さんでも自分の店に専用のパン窯を持っていて、それでパンを焼いていたんだと思うんですね。しかしその後、産業革命やチープ革命などを経て技術が発展するに従い、低価格のオーブンやパン焼き機が市場に出回り、次第にパン窯が電化製品などに置き換わっていった結果、パン窯を使うパン屋さんがどんどん減っていったんだと予想されます。

重要なのは、そういう「技術の買い替え」が出来たのはお金持ちのパン屋さんだけであって、細々とやっている様な所は、新しい技術を買い入れる余裕が無かったと想像される事です。確かに新しい機械自体は安いかもしれないけれど、パン釜を壊すのにだってお金はかかりますからね。だから、貧乏なパン屋さんは窯で焼くしか手段が無く、電化製品を導入したパン屋さんとは生産力の違いなどからどんどん差が開いていき、挙げ句の果てにはパン屋さんを魚屋さんに変える店があったり、店自体を閉鎖するパン屋さんがあったりしたんだと思います(魚屋のオッサンが驚いた、ギョ(魚)!:懐かしいー、嘉門達夫)。

それから数十年後・・・・我々の時代になって、このようなパン屋さんを巡る状況が劇的に変わり始めます。

普段の生活に余裕が出て来た人達などが、日々の生活の中で生きるために必要な必要品を買い求めるだけではなく、ある種の「質」を求める事が出来る時代に突入しました。更にグローバリゼーションの一帰結として、「他とは違ったもの」や「ココでしか手に入らないもの」を求める人々が増え、その結果、機械生産に基つく大量生産・大量消費品などよりも、一つ一つ手で作ったりする「手工業」に注目が集まる様になったんですね。

そのような波は当然パン業界にも到達し、パン窯でパンを焼き、質の高い品を販売しているパン屋さんが注目を集める様になりました。(このような現象がある種の「観光」や「ブランディング」の要素を含んでいる事は、各都市で販売される「パン屋Top10」などの雑誌に、パンの値段や販売種と共に、パン窯で焼いているかどうか?というタグが付いている事からも容易に想像出来ます。)

そしてそのような窯が残っているパン屋さんというのは(勿論、最近になって電気窯を導入した所もあるのでしょうが)、実は貧乏だったが故に、機械を入れる事が出来ず、しょうがないから窯を残したパン屋さんだった所が多いのでは?と予想出来る訳です。そして時代を経るにつれ、価値観の変化が起こり、昔勝ち組でどんどん新技術を入れてバンバン売っていたパン屋さんが「その他大勢」という負け組に組み込まれていくにつれ、昔負け組で新技術を入れる事が出来なかったパン屋さんが自然と「勝ち組」に浮上するという逆転が起こっているのが現在の我々の時代です。

さて、何故に僕が長々とパン屋さんの窯の話なんかを持ち出したのか?というと、実はこのパン屋さんの窯を見た時に、「これって、本質的に都市再生と一緒じゃ無いの?」と思ったからなんですね。

今更言うまでも無く、80年代後半辺りからヨーロッパの各都市は疲弊した歴史的中心地区などの「都市再活性化」に躍起になっているのですが、そんな都市再生計画の中で常套手段と化しているのが、旧工場跡地などの再生利用計画です。

ヨーロッパの都市は何処でも、産業革命時に建てられたレンガ造の工場などが取り壊されもせず都市内に点在し、時には麻薬の取引や売春、泥棒ちゃん達のミーティングなどに(ある意味、再活用されながらも(笑))「都市にとっての負の遺産」として未だ残っている所が多いと思われます。しかしながら、都市が「観光」という新たなるモーターを発見するに従い、いつの間にかそのような「負の遺産」に新たなる視線が注がれるようになりました。つまり今までは都市のお荷物でしかなかったこれらの建造物が、「金の卵を産む鶏」に見えて来た瞬間が到来したのです。その結果、ある旧工場跡地は美術館に様変わりしたり、ある古い建造物群は大学に活用されたりして、「産業革命の象徴」から「知識社会への移行」を表象したりしている訳です。

例えばロンドンのテートモダンなんかは世界的に有名ですよね(地中海ブログ:ロンドン旅行その9:テートモダン(Tate Modern):Herzog and De Meuronの建築)。



設計は言わずと知れたHerzog and De Meuron。旧発電所跡地が見事なまでに世界を代表する美術空間に生まれ変わりました。ちなみにこの美術館の館長はスペイン人Vicente Todolíが努めています。もう一つちなみにVicente Todolíは国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia)の現館長で元バルセロナ現代美術館館長(MACBA)だったマニュエル・ボルハ・ビジェル(Manuel J. Borja-Villel)の学生時代からの親友です。ヨーロッパを代表する2つの現代美術館の館長をスペイン人が努めているというのは、考えようによってはちょっとすごい事だと思います。



この前のオランダ旅行で訪れたロッテルダムにあるファン・ネレ煙草工場も、昔の遺産を「文化と創造の拠点」として現代都市に蘇らせた見事な事例ですね(地中海ブログ:ファン・ネレ煙草工場(Van Nelle Tobacco Factory):近代建築の傑作はやっぱりすごかった!)。



バルセロナにはこのような事例が山程あって、例えば旧工場跡地再利用で大成功しているのが、以前紹介したPompeu Fabra大学の施設群です(地中海ブログ:22@地域が生み出すシナジー:バルセロナ情報局(Institut Municipal d'Informatica (IMI))、バルセロナ・メディア財団(Fundacio Barcelona Media)とポンペウ・ファブラ大学(Universitat Pompeu Fabra)の新校舎)。今年完成した新キャンパスは22@BCN地区に位置しているのですが、旧工場が見事なまでに学生キャンパスとして活用されています。



更にナカナカ知られていないのですが、シウダデリャ公園の脇にあるPompeu Fabra大学付属の図書館は、19世紀に建てられた貯水庫を改築した図書館建築の傑作です(地中海ブログ:ポンペウ・ファブラ大学図書館(Unversitat Pompeu Fabra))。つい先日Twitterの方で、図書館建築の話になり、カタランボールト研究と実践の第一人者である森田さんとも、この建築の素晴らしさを確認し合った所でした。

さて上述した様に、「旧工場跡地などを文化と創造の場へと変換し、新たなるアクティビティをその周りに創出する事によって都市再生の核とする」という考え方はほとんど定石となっていると言っても良いと思うのですが、その前提となるのは当然のことながら、それら旧工場群が都市内に残されているかどうか?にかかっています。それらが無かったらお話にもなりませんからね。そしてそれら旧工場が残されているかどうか?というのは、ほとんど偶然としか言いようが無いのでは?というのが僕が今抱いている印象です。

バルセロナに何故沢山の旧工場が残っているのか?それは 多分、「壊すのに思った以上のお金が掛かり」、「他のインフラ整備に比べて優先順位が低かったから」というのが、本当の所なのでは?と思うんですね。

つまりパン屋さんと全く同じ理由。

独裁政権時代、フランコに睨まれていたバルセロナには都市に対する投資が全く行われず、民主主義に移行した後も、学校など絶対必要なインフラから順に整備されていったので、旧工場跡地の取り壊しなんてのは後回し後回しとされていきました。「スペインのマンチェスター」の異名を採った工場群が位置しているのは、現在の22@BCN計画が進んでいるエリアなのですが、そのエリアはどういうエリアか?というと、市内でも最も遅い時期に開発が始められたエリアなんですね。つまりそれら金の卵を産む旧工場群が残されているのは、貧乏で貧乏で壊すお金も無かったから残ったのでは?と思っちゃう訳ですよ(勿論全てがそうだとは言いませんが)。

そしてココからが面白い所なのですが、昔、工場などをバンバン建てて明らかに勝ち組だったマンチェスターなんかは、その後、その時蓄えた資源を使って、都市開発をバンバン行い、古い工場なんかは壊しまくって、都市を発達させていきました。反対に投資が全く無かった事から開発がしたくても出来なかった、ある意味負け組のバルセロナのような都市は、乱開発される事無く、古い町並みなどが残される結果となりました。

そしてそれから数十年後‥‥‥社会の価値観が変わっていくにつれて、高層ビルが林立する何処にでもあるような風景よりも、中世の城壁や産業革命の名残が残る「そこにしか無い風景」に価値が見いだされる様になったのです。100年前、マンチェスターがスペインにとっての都市発展のモデルとされていたのとは対照的に、今ではバルセロナがマンチェスターにとってのモデルになっているというのは、この上無い皮肉に思えて仕方がありません。

ただ一点だけ弁護するとするならば、いくらそれらの「種」が残されたのが偶然だからって、その後、それらを活性化の核として再利用しようという「確固たる意志」がなければ計画は遂行されないわけであり、そういう意味ではバルセロナとかは良くやったとは言えると思います。

おいしいクロワッサンをかじりながら、そんな事を考えた日曜日の朝でした。
| バルセロナ都市計画 | 23:42 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
表象文化としてのバルセロナモデル
先日、フランクフルト旅行のエントリで緑の都市計画について書いたのですが、今日の新聞(La vanguardia)にちょっと面白い関連記事が載っていたので紹介します。

ヨーロッパ都市は何処もアーバニゼーションと自家用車の問題に悩まされているのですが、バルセロナも例外ではありません。バルセロナの場合は、一日に1,100,000台の車が郊外から市内に入ってきて、その内の93%が市内に駐車しようとする状況なんですね。

コレが大気汚染を初めとするあらゆる弊害を引き起こしている訳なんですけれども、市民にとって一番大きな問題は駐車上の問題です。市内は慢性的に駐車場不足に悩まされてきました。しかもその駐車場不足が郊外から来るよそ者の為にその地区に住んでいる人が被るのだからたまったものではない。

こんな状況を打破しようと交通局が始めたのが緑のエリア(Area Verde)キャンペーンです。市内各エリアに緑色に塗られたゾーンを一定数確保して、そのエリアにはそこに住んでいる住民しか駐車を認めないという優先駐車場です。

バルセロナ市役所のイニチアティブで、これが始まったのが2005年だったのですが、結果は大成功。住民は駐車場確保の心配をさほどする必要が無くなったし、郊外から来て駐車する人には料金が高めに設定されているので、自家用車使用抑制にもつながっています。

さて、今日の新聞によると、バルセロナ市が始めたこのシステムをお隣のタラゴナ市(Tarragona)が輸入しようとしているという事です。それ自体は何ら珍しい事ではないのですが、このシステムを現すのに使用されている単語が何を隠そう「バルセロナモデル(El modelo Barcelona)」。デカデカと「タラゴナが駐車場不足を解決する為にバルセロナモデルを採用したがっている (Tarragona quiere adaptar el modelo Barcelona para solucionar el deficit de plazas que afecta a los residentes)」と謳っています。

言うまでも無くこのような駐車場システムなんて今や何処の都市でもやっている事で別段バルセロナの発明というわけでもありません。

近年のバルセロナは何か成功した事例があるとすぐにモデルとして外に売り出す傾向が見受けられます。何故か?それは前回書いたように都市計画は都市にとっての最大の広告だからです。

もう一点気になったのは、システムのロゴマークに「緑」を多用し、名前にも「緑」が入っている事。



駐車場を示す枠は従来は白色で書かれていました。それが今や「緑」に変わりました。



これは前回書いた「中世の壁から緑の壁への変化」、ノッリの図におけるネガ・ポジに対応する「白黒から緑への変化」と同じ流れの中にいます。

都市計画、緑、サステイナビリティ、エコロジー、バルセロナモデル・・・これらは全て同じ軸線上に乗っかっている我々の時代の精神を映し出す「表象文化」だと言えると思います。
| バルセロナ都市計画 | 21:06 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルセロナの新たなる都市戦略:ビルバオから学ぶバルセロナ都市圏再生の曙
民主化後バルセロナは明確な都市戦略を持ち、様々なイベントを通して都市を戦略的に開発・発展させてきました。それは今日バルセロナ都市戦略、もしくはバルセロナモデルとして欧米で高い評価を得ています。しかしながら、勿論そこには成功の影に隠れた/隠された急速な発展に付随する負の面がある事も否めません。

その点をかなり手短且つ乱暴に要約すると、1992年(オリンピック時)に都市をグルッと取り囲む高速道路を建設して都市の境界線を定め、投資を集中的にその内側にすると同時に、邪魔なモノや見たくない諸問題をその外側に放り投げ、問題を先送りするという事をしてきたんですね。だから大変よく整備された旧市街や新市街を見て、「バルセロナは各都市が抱えているような問題が解決出来ている」という結論を出すのはあまりにも早急すぎると言わざるを得ません。

そんな事は既に1996年の段階でイグナシ・デ・ソラ・モラレス(Ignasi de Sola Morales)が指摘していました。

「・・・バルセロナの都市問題は境界線を越える傾向を強めている。交通・住宅問題、社会的差別問題や工場施設の問題などはみな、小バルセロナの外に吐き出されている。見かけ上バルセロナは、メトロポリスが例外なく抱える大問題のほとんどから解放されているかのようだ。しかし、この見解は全くの偽りである。小バルセロナを大都市圏の中でとらえた解決策がない。存在しているのは地図上の見せかけの線引きとこのフィクションを維持したほうが好都合だとするカタルーニャ自治政府の思惑のみだ。バルセロナが大規模事業を成し遂げ、美しく再生されたその影で、都市政策が十分でなく、適切な施設を備えていないところに、代償は回ってきている。大都市圏の中心バルセロナが解決せずにたらいまわしにしている問題はみな、弱体な都市基盤のところに飛び火しているだけなのである。・・・」

イグナシ・デ・ソラ・モラレス、キクカワプロフェショナルガイド、バルセロナ、Vol6.1996


その負の面のシンボルともいうべきエリアがバルセロナの北東を貫くベソス川(Rio Besos)周辺エリア(La Mina)に存在します。このエリアにはオリンピック時に旧市街地に住んでいた貧困層の人々やジェントリフィケーションで中心街に住めなくなった人々などが集められ、社会的問題の吹き溜まりのような様相を呈しています。更に川向こうにはゴミ焼却場や浄水プラントなど、都市にとっては無くてはならないんだけど、あまり見せたくない施設が集積している地区でもあるんですね。更に川岸の2軸、東西南北で異なる自治体がひしめき合っているので、川の向こうとこちら(東西軸)の接続性は無いに等しく、川岸の南北軸では自治体間を越えてプロジェクトを創出し、統一された景観を創り出すなんて事は夢の又夢でした。

正確に言うと、川を基軸に据えた自治体間の協力によるプロジェクトの可能性はかなり前から議論されてはいました。しかし異なる自治体間を越えた複雑極まりないそのようなプロジェクトを実現する事は、長い間、非常に困難だと思われていたんですね。何と言っても利害関係の調整がこの上なく難しいので。そのような事態が動いたのはごく最近の事です。

川岸を構成する5つの異なる都市(Barcelona, Sant Adria de Besos, Badalona, Santa coloma de Gramenet, Montcada i Reixac)がその周辺に跨る50を超えるプロジェクトを成功に導く為に共通プラットフォームであるコンソーシアム(Consorcio)を創り出したんですね。この裏にはこのエリアを15年近くかけて競争力のあるエリア(新たなる中心)に育てていこうというバルセロナの思惑が見え隠れしています。その時にこのエリアの核と考えられているのが、サグレラ駅(Estacion de la Sagrera)です。マドリッドやフランスからの高速鉄道(AVE)発着駅に位置付けられている未来の大型駅にはフランク・ゲーリー(Frank O Gehry)設計によるオフィス圏住宅が付与される事が既に決定されています。



ここで注目すべきはゲーリーのド派手な建築デザインではなくて、その裏に存在するであろう都市の戦略です。実はこの新駅は計画当初、現在の市内主要駅であるサンツ駅(Estacion Sants)近辺に建設される事が決まっていました。しかしですね、大型駅の周辺にもう一つ大型駅を持ってきたって、都市全体としてみた時の成長というのはあまり無いわけですよ。それよりは全く諸活動が無いような所へ、起爆剤として駅を建設して都市に対する新たなる中心性を創り出す方がよっぽど生産的である、とこういうわけですね。

何を隠そう、この新駅を用いた中心性創出案を提案、実現したのは現在の僕のボスです。今から約15年前、まだカリスマ市長マラガル(Pasqual Maragall)が現職だった時の事らしいです。その当時はまだ今ほどGIS(Geographical Information System)も発達していなくて、街路ごとのカフェなどの諸活動を調べるのに大変手間取ったそうです。

まあ、とりあえず、僕はこのバルセロナの打ち出した新しい都市戦略を高く評価します。何故ならこの計画はバルセロナが初めて打ち出した、環状線を越え異なる自治体間で協力関係を仰いだ計画であり、今までゴミ捨て場として問題を先送りしていたエリアへの初めてのメス入りだと思われるからです。先のイグナシの言葉で言えば、「大都市圏の中心バルセロナが解決せずにたらいまわしにし」、「弱体な都市基盤のところに飛び火」している問題に対して、バルセロナが初めて直視し始めたという事です。

この計画を聞いた時に、僕が非常に巧いなと思ったのは「川」をキーワードにして協力関係を築いたという点ですね。異なる自治体間で協力関係を築くには何かしら共通する要因が必要となります。考えられるものとして主に2つある気がします。一つは文化的な何かを共有している場合。もう一つは地理的要因を共有している場合です。有名な所では、1989年にフランスのDATARが行ったブルーバナナ分析に基ついて、バルセロナがバルセロナプロセス(Barcelona Process)として発達させた地中海の弧連携。この連携は地中海を共有しているという地理的要因を基盤にして実現しました。

もう一つはネルビオン川(Ria Nervion)というビルバオ大都市圏を貫く川を構成する30を超える自治体から成る、ビルバオ再生の原動力となったビルバオコンソーシウム(Bilbao Metropoli 30)。ビルバオの場合は、グッゲンハイムのインパクトが強くてナカナカ表には出てきませんが、グッゲンハイムという都市再生の主役に、舞台を整えた非常に重要なプロセスだったと思っています。このような、背景に流れるシナリオがしっかりしていたからこそ、ビルバオ都市圏再生が成ったんですね。決してグッゲンハイムが一人で都市を再生した訳では無い事を知るべきです。そして、そのグッゲンハイムが引き起こした大成功の裏に隠れるジェントリフィケーションという負の面の事も。

全く同じ事がバルセロナにも言えて、新エリアが出来た暁にはきっとゲーリーの建築がもてはやされ、あたかもそれだけで都市が活性化したかのような記事が雑誌を賑わす事でしょう。これは建築の元来の機能である、地域や社会の表象という役割を考えてみれば当然なのかもしれません。何故なら建築は正にそのエリアが活性化し、賑わっているぞという事を表象する事こそが仕事であり、それは建築にしか出来ない事なのだから。

しかしそれでも僕はあえて言いたい。その裏にある思考や、建築にそのような舞台を用意した都市の戦略にも目を向けるべきだと。
| バルセロナ都市計画 | 18:34 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルセロナ公共空間と歩行者空間計画
集まって住む事を「楽しみ」としてきた地中海都市においては限られた都市内における住宅不足とその狭さが伝統的に問題となってきました。都市の密度が高いというのは裏を返せばそこに住む市民が「集まって住む事の楽しさを知っている」からだとも言えるんですね。

勿論、限られた土地に集まって住む事は良い事ばかりとは限りません。市民がその狭さと質の悪さに我慢出来ているのは、ある意味、都市内における公共空間の質の高さとコインの裏表を成しているのだと思います。

家の中のリビングルームは狭いけど、目の前に広場があるとか、家の中には日が差し込まないけど、近くに日向ぼっこ出来る広場があるというように。これが第一に市民が都市に対して高い関心を持つ理由だと思います。自分の家の近くにある公共空間は居間と繋がっているのですから。だからそれが壊される時は勿論、少しでも手が加えられようものなら市民は先ず黙っていません。

さて、そんなバルセロナの公共空間に今一つの危機が訪れています。都市内における公共空間の圧倒的な量的不足によって子供達が遊ぶ場所が段々と失われていっているんですね。大変に嘆かわしい事にボールを持った子供達は車が通る道路で車を避けながらサッカーをしているというのが現状です。

「これほど都市の質の貧弱さを表わしている事象は無い」という事に立ち上がったのがバルセロナ市民。昨日から毎週日曜日は幾つかの街路を通行禁止にし、子供達と市民に公共空間として開放しようという試みが始まりました。

もともとこのような街路の使い方はお祭りなどで頻繁にされてはいたんですが、それを毎週日曜日とした所が今回の計画の画期的な所です。昨日は初日という事もあって地元の人は勿論、遠くから子供連れで訪れた親子も沢山居たようです。

さて、僕達が長い間提案し続け、グラシア地区で実施されたスーパーマンサーナ計画は正にこのような車に支配された街路を市民の公共空間に変える事を目的としています。詳しくはこちら

このグラシア計画はホンの始まりにすぎず、僕達が最終的に目指しているのはセルダブロックのある新市街地の歩行者空間化です。9つのブロックを1つの島として、その中に車は進入禁止にするという計画です。9つのブロックという事は1辺が3ブロックから成る訳ですが、この数の根拠は人が5分で歩ける距離が約400メートルだからです。400メートルを超えると人は車など他の交通手段を選ぶ傾向にあります。バス停の間隔って実はこういう理論に基ついているんですね。

このスーパーマンサーナ計画セルダブロック編は第一期が22@BCN地区で完了しつつあります。22@BCNは総計画が6期ほどに分かれているのですが、その第一期がヌーベルのアグバータワー(Torre Agbar)とそのお隣のポンペウ・ファブラ大学( Universidad Pompeu Fabra)周辺計画。ここの街区の街路は半歩行者空間になっているのですが、この計画を僕等が担当しました。まあ、なかなかうまく出来ていると思います。

今後、ヨーロッパ都市はどんどんと市内から車を減らしていく方向に進んでいくと思われます。勿論、車は都市の活力でもあるので完全に無くす事は出来ないのですが、その均衡をどのように図っていくかというのが一つの焦点になってくる事は先ず間違い無いと思われます。

その時、一番大事なのは都市に長期的ビジョンがあるかどうか?とそれを実行するだけの真剣さがあるかどうかという事ですね。
| バルセロナ都市計画 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルセロナモデル:グラシア地区再開発
午後、グラシア地区開発責任者との定例ミーティングへ行く。
グラシア地区というのはバルセロナにおいて今最もオシャレな地区の一つとして認識され学生やアーティストが住み着いている歴史的地区です。グラシアの歴史は結構古くて1859年に市壁が壊された時には既に村として存在していました。ある調査によるとバルセロナのグラシア通りはパリのシャンゼリゼ通りと並んで世界で最も活気のある通りらしいのですが「グラシア通り」と言う名前は市壁に囲まれていた中心地区からグラシア村へ行く通りという意味で付けられました。

その反面、この地区は大変革新的な地区としても知られています。バルセロナと言う都市は幾つかの村が集まって一つの都市を形成していると言う経緯があるので各地区がある意味で競争しているような関係にあります。都市の再開発も同じで、何を隠そう1980年代に始まったバルセロナの公共空間挿入計画を最初に受け入れたのはグラシア地区のある小さな広場だったんですね。そこから他の地区へと広がっていったと言う経緯があります。

そんなグラシアが3年前に歩行者空間計画を他地区に先駆けて採用しました。この計画は何かというとその名の通りある地区内に通過交通が進入する事を禁止し、歩行者に優しい空間にするという単純な計画です。

一見すると他都市で採用されている計画と同じに聞こえるかも知れませんが、ところがどっこい。全然違います。何が違うか。視野に入れているパースペクティブとそのしつこいまでの現状分析、それに基ついた将来計画の綿密さが違う。このような考え方を都市戦略と呼びます。

3年前、僕達が始めたこの計画はナカナカ住民には受け入れてもらえませんでした。主な理由は車が入れなくなる事による売り上げの低下可能性に対する恐れや今までグラシア地区を通過して目的地に早く着いていたような人達が迂回による非効率性を非難していたりしました。

当時は毎日のようにデモがあったり、知り合いの人達にも結構批判されたりして大変でした。しかし3年たった今、そんな事を言う人はほとんど居なくなりました。2−3年前のグラシアを知っている人やそれ以降、訪れて居なかった人はそのランドスケープの劇的な変化に驚くのではないでしょうか?

今僕はこの地区の責任者の内の一人をしていますが、毎回この地区を訪れてニコヤカに歩いている人やサッカーボールを蹴って遊んでいる子供を見るとなんか嬉しい気分になります。

今まで一緒にやってきたグラシア市役所のペレさんは今月からオルタ地区に移動になったそうです。なんでもオルタ地区がグラシアの真似をしたいからとかなんとか。
| バルセロナ都市計画 | 02:55 | comments(1) | trackbacks(37) | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルセロナモデルと市民意識
今日の新聞に「バルセロナは一体何になりたいのか?」という記事が出ていました。内容は独裁政権時代、民主化への移行を経て1992年のオリンピックを期に世界地図にバルセロナという名を刻み込む事に成功した。しかしその後の発展が著しすぎて最近ではコントロールを失っている。その一端が観光でありジェントリフィケーションである。バルセロナの最近の政策はバルセロナを海外に向けて売り込む為の戦略に一生懸命になりすぎてイメージ創りに没頭している。逆に市民の事は全然お構いなし。例えば最近の歩行者街路ランキングでパリのシャンゼリゼを抜き去って1位になったランブラス通り。その通りは元々は市民の為のものであったはず。しかし現在ではランブラス通りは観光客のものとなってしまった。とまあこんな感じ。

それをボージャと現在のバルセロナ市主任建築家、オリオルクロスがインタビューに答えているという構成でした。

僕はここ何年かはバルセロナの内側からその発展を批判的に見てきて、例えばバルセロナの各地区におけるジェントリフィケーションの状況やバルセロナモデルといわれているモノ、その研究を通して今ではそれを創出する側に回っています。世間ではバルセロナモデルというのが大変話題なのですが、そんなモノは存在しないというのが僕の見解で、逆にそんなモノ、存在したって役に立たないんですね。何でかって言うと各都市には各都市のコンテクストがあって同じモデルを適応したからといって同じ結果が出るとは限らない。だから大事なのはそれに至る詳細な都市分析だと思うわけです。

そんな批判的な態度を取っている僕から見ても、何時も感心するのはバルセロナ市民の自分の都市に対する関心の高さと誇り。これはすごい。皆が今後バルセロナはどうなっていくのかとか、バルセロナのあの街区にあんなの出来たけどどう思うとかをカフェで永遠と議論している。それをメディアも巧くサポートしているしある時には議論を巻き起こしたりもしている。

これって考えてみたら当たり前の事だと思うのですが、日本で例えば「名古屋市の都市形態を今後どうするか?」とかっていう議論は想像が出来ない。もししたとしても誰も関心を持たないのでは無いのでしょうか?自分の住んでいる都市に誇りを持てない市民が住んでいる都市が今後良くなっていくとは到底思えません。僕らが学ぶべき事はバルセロナモデルとかいう多分に広告を含んだ安易な都市計画モデルでは無くてもっと基本的な市民意識みたいな所こそバルセロナから学ぶべきだと思います。
| バルセロナ都市計画 | 05:11 | comments(0) | trackbacks(35) | このエントリーをはてなブックマークに追加
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