地中海ブログ

地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。
ローマ旅行2015その4:ベルニーニ(Bernini)の彫刻:サン・フランチェスコ・ア・リーバ教会(San Francesco a Ripa)にあるルドヴィーカ・アルベルトーニ(Beata Ludovica Albertoni)
前回のエントリで書いた様に、今回ローマへ来たのは仕事がメインだったんだけど、その合間に目一杯観光しようと思い立ち、いの一番で訪れたのがベルニーニ(Bernini)の作品、サン・フランチェスコ・ア・リーバ教会(San Francesco a Ripa)にある福女ルドヴィーカ・アルベルトーニの彫刻(Beata Ludovica Albertoni)だったんですね。



8年前、初めてローマを訪れた際に「たまたま」見かけたこの彫刻との出会いは、僕に今まで感じた事の無い深い感動を呼び起こしました。その時はじめて、彫刻の素晴らしさ、ベルニーニの偉大さの片鱗を見たような気がしたんですね。



トラステヴェレ地区(Trastevere)の片隅に建つ小さな教会堂の左祭壇一番奥に、このベルニーニ晩年の最高傑作は眠っています:



左側の窓から差し込む柔らかい光に照らされて、暗い教会堂内部でここだけが鈍く白く光っています。ベットに横たわっている福女アルベルトーニさんの表情は苦しんでいるようにも見え、また喜んでいる様にも見えます。



顔の表情や手のしぐさといった身体全体でそんな感情を表しているかのようなんですね。



そんな決定的瞬間を捉えた「一コマ」は、この女性の感情がまるで内面から滲み出てきているかのような、そんな表現の極地に達しています。そしてこちらが、いまにも動き出しそうな服の襞の詳細:



コレが本当に素晴らしい。硬い石をこんな風に柔らかく見せる事が果たして可能なのか?と思わせる程の技です。



と同時に、ある種過剰とも言える服の襞の表現は「光の視覚化装置」としても機能している事に気が付きます。彫刻の表面が服の襞などによって波打っていることによって、窓側に近い部分では光が強く、遠ざかるに従って段々と弱くなっていくという光の移行を目に見える形=ヴィジュアリゼーションしてくれているんですね。

もう一つ僕が面白いなーと思ったのは、この彫刻の色彩です。今まで見た彫刻は、そのほとんどが真っ白だったのに、この彫刻には色が付いています。そしてこの彫刻の色と仕上げの質の違いによって階層を表現しているんですね。先ずは最下段の毛布の部分。ここに上の部分とは区別されるかのように、赤っぽい色の大理石が使われています。更に衣服の襞に比べ幾分「おおあじ」な襞表現にする事によって、上との区別を付けているかのようなのです。



その毛布とアルベルトーニさんの服の間にあるのがベットのシーツ部分。ここは流れるようなツルツルの表現にしています。そしてその上に載る福女アルベルトーニさんという階層分けをしているのです。



いずれにしてもベルニーニの彫刻の素晴らしい所は「ある種の瞬間」を的確に捉えている事だと思います。そして「パシャ」と撮った正にその瞬間の場面から、その前後の物語がまるで走馬灯のように展開していく‥‥。



動かないが故に、(その瞬間を捉える事によって)動きを展開すること。そう、これこそ彫刻の真骨頂であると教えてくれる彫刻、それがベルニーニの彫刻なのです。

(注)僕はこの教会に3日間通いました。朝早く(8時頃)3回、10時頃1回、そして午後5時頃1回。

この彫刻を見るベストの状態はやはり自然光だと思います。祭壇下部にライトが付いているのですが、ライトは光が強すぎて光の陰影などが楽しめません。この教会堂は午後の部は16時に開くのですが、開くと同時に神父さんがライトを付けてしまう(多分、我々観光客の為に配慮してくださって)ので、お薦めではありません。更に、午前10時頃に行った時は丁度ミサが終わる直前だったのですが、終わると同時に神父さんがライトを付けてくださいました。多分、ライトを消してくださいと言えば消してくれるとは思うのですが、ナカナカ言いにくいですね‥‥。朝早く(8時頃)に行った時は誰も居なくてライトも付いてなく、最高のコンディションで彫刻を鑑賞する事が出来ました。と言う訳で朝一番がお薦めです。

この教会は今でも使用されている教会で、多くの信者の皆さんがお祈りに訪れています。我々はあくまでも「見学させて頂いている」という事を忘れないよう、お祈りの邪魔にならないように心がけましょう。その旨、教会の入り口に書いてあります。
| 旅行記:美術 | 14:36 | comments(2) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデル(Camille Claudel)について
先々週は所用でパリに行っていました。



以前少しだけ書いたルーヴル美術館でのプロジェクトミーティングが目的だったんだけど、3日間、朝から晩までずーーっとルーヴルに缶詰状態(苦笑)。管理部門(アドミニストレーション)は美術館とは大通りを挟んだ反対側にあるので美術鑑賞もあまり出来ず‥‥。そんなハードスケジュールの中、ミーティングが始まる前に美術館併設のカフェでとる朝食は最高だった。



元々宮殿だった場所を改装してカフェにしてあるんだけど、目の前にはガラスのピラミッドが聳え立ち、インテリアには非常に抑制されたデザインが施されていて、まさに「至福のひととき」を過ごす事が出来たんですね。



とは言ってもそれ以外ではあまり観光をしている暇も無く、最終日の帰りの飛行機までの3時間余りを使って何処かへ行こうと思い立ち、悩みに悩んだ挙げ句、向かったのがコチラです:



ロダン美術館。



近代彫刻の巨匠、ロダンの彫刻が「これでもか!」と並べられているこの美術館なのですが、僕がこの美術館に来た理由、それはこの美術館の主役であるロダンの彫刻を見る為ではなく、世紀末の知られざる天才彫刻家、カミーユ・クローデルの作品を見る為なのです。



‥‥僕がヨーロッパ各地を訪れている時に一番楽しみにしていること、それは「予期せぬモノとの遭遇」です。予定調和的では無い出会いほど僕の心をときめかせる瞬間はありません。4年前、唐突に訪れたカミーユ・クローデルの彫刻との出逢いは僕にとって新鮮な驚きでした。



その当時はカミーユ・クローデルの事なんて全く知らなくて、ロダンの彫刻目当てに何気無くロダン美術館内を彷徨い歩いていたんだけど、入り口中央右寄りの一室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのが下の彫刻だったんですね。



作品名は「分別盛り(第二バージョン)(L`age mur(deuxieme version))。真ん中の老人が、背後にいる老婆(悪魔)に囁かれ、若い女性から身を引いていく瞬間が表現されています。主題としては「人生の3段階」などとして、あちらこちらで繰り返し用いられているテーマなんだけど、この彫刻が醸し出している質はちょっと凄い。



先ず見た瞬間に圧倒されるのがそのプロポーションの良さです。左上に展開している悪魔の羽のようなものから始まり、老人の手、女性の手を経て右下のつま先へと、流れるような3角形を形成しているのが見て取れるかと思います。



更に素晴らしいのが、この女性の表情と、「行かないでー!」と言っているかのような手の描写です:



この手と手の間の空間!「女性の手を力強く振りほどく」のではなく、まるで「女性の手からすり抜けていく」、正にその瞬間がスローモーションで伝わってくるかのような空間表現となっています。



そう!まるで中森明菜のデビュー曲「スローモーション」の一節を彷彿とさせるかの様に‥‥:

「出逢いはスローモーション、軽い目眩(めまい)誘う程に‥‥」

そしてココ:



悪魔が老人に何かを囁いています。この悪魔も「無理やり老人を引っ張っている」というよりは寧ろ、「老人を誘惑し、そそのかしている‥‥」、そんな表現になっているんですね。



何よりも悪魔の手がその事をより良く物語っていると思います。ほら、悪魔の手が老人の腕に触れるか触れないか、その一瞬を表現しているのが見て取れるかと思います。

さて、カミーユ・クローデルの彫刻から感じられるもの、それは生々しい程の「人間の内なる感情」では無いでしょうか?

例えば上の彫刻には「行かないでー!」という彼女の思いと、そのことによる「寂しさ」が彫刻全体に充満しているかの様ですらあります。そしてそれらの感情が喜びであれ憎しみであれ、痛々しいほど彫刻全体に溢れている‥‥。コレなんてすごい:



作品名クロト(Clotbo)。クロトというのはローマ神話に出てくる生と死、そして運命を司る3女神の一人なんだけど、頭の上から湧き出ている髪の毛みたいなものに、内臓をえぐり返すような「ドロドロとした恐怖」が充満しています。率直に言ってこの彫刻は「怖い」。陸奥九十九が言う「怖い」と本質は一緒(笑)。



何故カミーユ・クローデルはこのような彫刻を創ったのか?何故彼女の彫刻からは人間の生々しい感情が感じられるのか?



それを説明する為には、少しばかり彼女の経歴を知る必要があるかと思われます。

カミーユ・クローデルは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランス人女性彫刻家であり、20世紀最大の彫刻家として知られるロダンの弟子、助手兼モデルそして愛人だったそうです。彼女がロダンと出会ったのが18歳の時で、ロダンは彼女の天才的な才能とその美貌にコロッとやられ、内縁の妻(ローズ)がありながらも彼女と関係を持ったと言う事らしいんですね。若い時の写真が残されているんだけど、それがコレ:



確かに美人です。そして彼女はロダンの下でメキメキとその頭角を現していくのですが、最初は順風満帆だった彼女の人生にも次第に陰りが見え始めます。彼女はその生まれ持った才能とは裏腹に、世間では全く評価されず、「ロダンのコピーだ!」と言われ続け、私生活ではロダンの子を妊娠するも流産。そして内縁の妻ローズとカミーユの間で揺れていたロダンも最終的にはローズの元へと去って行ってしまいました。



仕事もうまくいかず、私生活も最悪‥‥。挙句の果てに彼女は精神に異常をきたし、30年間の精神病院への強制収容の後、誰にも看取られること無く亡くなったそうです。



天才彫刻家のその悲惨な運命は、後に数々の小説になったり映画になったりして、今では広く人々に知られる所となり、近年においては彼女の作品に再評価の光が指しているようです。



ちなみにZガンダムの主人公、カミーユ・ビダンの名前と設定はこのカミーユ・クローデルに由来しています。もう1つちなみに、森口博子が歌うZのオープニングに出てくる360度フルスクリーンのコクピットは今見てもかなりセンスが良いなー。



さて、ここまで書けばもうお気付きかもしれませんが、実は上の彫刻「分別盛り」の主題は、彼女の人生そのものであり、真ん中の老人がロダン、悪魔がローズ、そして右下の懇願している女性がカミーユ本人という訳なんですね。この「行かないでー!」という表現に彼女が当時感じていた悲痛な思いが詰まっているからこそ、見るものをその内側に引きずり込んでしまうのかもしれません。その反面、幸せの絶頂期にはこんなものも創っていました:



その名も「心からの信頼(L`abandon)」。二人が寄り添い、互いに支え合うその姿は、僕の心を本当に和やかにしてくれます。そしてこの顔:



この作品が創られたのは、カミーユとロダンがラブラブだった頃と言いますから、カミーユは本当に幸せだったのでしょうね。彫刻から愛が溢れているかの様ですらあります。



上の作品(ワルツ(La Valse))からは、二人が楽しげに踊っている、正にその瞬間の雰囲気がありありと漂ってきます。そしてコレもすごい:



「束を背負った若い娘(La jeune fille a la grebe)」。見てください、この口元と目:



こんな事が彫刻に可能なのか!

カミーユ・クローデルの彫刻の魅力、それはその彫刻が全体で醸し出す「内なる人間の感情=痛々しい程の感情」なのだと僕は思います。



ベルニーニの作品を見て以来、彫刻の本質とは「物語の一瞬を捉える事」、そしてその凍結された一コマから、連続する前後の情景を鑑賞者の心の中に浮かび上がらせる事だと思ってきました(詳しくはコチラ:地中海ブログ:ベルニーニ(Bernini)の彫刻その2:ボルゲーゼ美術館(Museo e Galleria Borghese)にあるアポロとダフネ(Apollo e Dafne)の彫刻)。それはロダンの作品にも言える事で、彼なんかは明らかに一瞬の凍結の中に「動きを見出す事」を目指しているような感じを受けます。これなんてドンピシャ:



故にそれらの彫刻は3次元的であり、周りをグルグル回ったり、はたまた上述した様な、前後の時間の中を彷徨ったりする中にこそ、その彫刻の本質が現れるのだと思うんですね。

しかしですね、カミーユの彫刻はこれらとは本質的にちょっと違う様な気がします。敢えて言うならば、2次元に近いんじゃないのかな‥‥?何故なら彼女の作品には(絵画のように)明らかに見るべき視点が存在するからです(例外っぽいのはワルツですね)。更に前者の彫刻が基本的に「モニュメント」になろうとしているのに対して、カミーユのそれは謙虚な姿勢を基本にしている感じすら受けます。



多分これらのポイントが、彼女の彫刻の大きな特徴であり魅力であり、彫刻界の巨匠ロダンにすら開けなかった彼女だけの道なのでは?と僕は思います。

カミーユの実弟であり詩人でもあったポール・クローデル(Paul Claudel)は姉の作品について幾つかの著作を残しているのですが、彼のこの言葉はカミーユ・クローデルの彫刻の的をついているような気がしました:

「分別盛り!この運命の蓄積されたかたち!」

そう、彼女の作品群は彼女の人生そのものなのです。

非常に豊かな彫刻体験でした。

(この記事は以前書いた文章に加筆修正を施したものです。以前の記事には小さな写真を使っていた為に、「もう少し大きめの写真はありませんか?」という問い合わせが非常に多く、いつか書き直そうと思っていた所、丁度良い機会だったので文章にも少し手を加え新たに掲載する運びとなりました。基本的に当ブログでは同じ記事を2度、違うエントリとして公開する事は無いのですが、前回の記事が比較的まとまっていた事、年末に掛けて記事を書いている時間が取れない事などを考慮した結果、この様な形で公開する運びとなりました)
 
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| 旅行記:美術 | 21:01 | comments(11) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ガリシア旅行その4:オウレンセ(Ourense)訪問:ガリシア地方で日本の温泉に遭遇!
コレ、見てください。



一体何だか分かりますか?



実はこれ、コウノトリの巣なんですね。一日に一本しか電車が来ない様な、非常に長閑な駅前の鉄柱の上に、コウノトリが直系1メートルくらいもある大きな大きな巣を作っていました。どうやらこの辺りはコウノトリの生息地らしく、こんな感じの非常に立派な巣がそこここに点在してるらしい。生まれて初めて見ました!

さて、今日は所用でガリシア地方第3の都市、オウレンセ市に来ています。



オウレンセ市なんてさっぱり来るつもりなかったんだけど、ちょっとした急用が入ったので渋々来たって感じです。でも、まあ、旅っていうのは予定調和的ではない出会いや発見程感動が大きいと言う事は、僕の長年の旅行経験が証明している所でもあるので、その様な発見がある事だけを期待して旅路についたんだけど、やってくれました!今回の旅、結構感動的な発見の連続!!さっぱり期待してなかっただけに、何かしらの発見があった時の喜びが普段よりも大きい!!!オウレンセ市さん、「何もなさそうだー」なんて言ったりしてゴメンナサイ(笑)。で、何がそんなに素晴らしかったかって、取り合えず、オウレンセ市に着くまでの山越えの風景が凄かった。



山間を流れるSil川とガリシア地方特有の深い深い森との対比と調和!「あー、やっぱり自然って言うのは偉大だな」と思う瞬間です。一本一本の木々や川なみ、そしてそれら全てのものが一寸の乱れも無く調和している姿は、「美しい」という言葉以外、表象のしようが無い様に思います。そう感じると同時に、その山間に「これでもか!」と言うくらいの調和を成して存在している集落や遺跡などを見るに付け、「こんな偉大な自然に少しながらでも対抗出来るとしたら、それはやっぱり人間の創造力しかないんじゃないか?」という事を思わずにはいられません。こんな偉大な自然を前に、少しでもそう思える自分がいると言う事は、「僕もまだまだ行けるかな/生けるかな」と、そういうかすかな自信と期待が沸いてきて、ちょっとばかり嬉しいかな。

そんな事を思いつつ、1時間程でオウレンセ市に到着したんだけど、先ず目に入ってきた風景がコチラです:



な、なんだこれー!!バカトラバ、失敬、カラトラバ(Santiago Calatrava)もビックリのブリッジの登場です。



うーん、はっきり言って良く分からない(苦笑)。しかもよく見ると、あの両脇にくっ付いてる、どう見ても余計な付属物の上の方を人が歩いてる気がする・・・と言う訳で試しに行ってみたら、やっぱりこの部分、渡れるようになってた(驚)。しかもこの階段が見た事も無いくらいの急角度で落下してるんですね:



その辺のジェットコースターも顔負けって感じの急降下です。「こんなんで良く市役所が建設許可出したなー」とか、「今まで躓いて怪我した人とかいなかったのかなー?」とか、ある意味、色んな事を考えさせられる建築である事はある(苦笑)。まあ、この橋はどうでも良いんだけど、この同じ川沿いに、この街が誇る観光名所があります。それがコチラ:



じゃーん。そう、実はこのオウレンセと言う街は、温泉が湧き出る事で大変知られてて、市内のあちらこちらに公共浴場なんかが点在している、正に温泉街なんですね。僕が行った時も結構市民のみなさんで賑わってて、みんな、ビーチ代わりに日光浴とかに使ってました:



誰でもタダで入れる公共浴場がある一方で、お金を払って入る私浴場ってのも存在してて、興味本位にその内の何件かにお邪魔してみたんだけど、これが来てみてビックリ:



日本語で「温泉」とか書いてあるじゃないですかー!



しかも竹とか、ヒノキとか、日本の温泉で見かける「言語」を多用して、あたかも「ここは日本の温泉です」と言う事を強調したいかの様な造りになっています。



内部撮影は禁止だったので写真は撮れなかったのですが、温泉の入り口は日本の銭湯みたいになってて、そこで清算を済ませると、「湯」と書かれたノレンと、「男」、「女」と書かれた入り口が用意されていました。そして更に驚いたのがコチラです:



これはもう一つ別の温泉に併設されていた軽食コーナーのメニューなんだけど、何と、メニューの一部が日本語で書かれているじゃないですかー!しかもハッキリ言ってちょっと意味不明なメニューが多い(笑)。一番笑ったのは、禅サラダ(Ensalada ZEN)と禅パスタサラダ(Ensalada de Pasta ZEN) !まあ、温泉だし、健康志向と言う事で、そうやりたい気持ちは分からないでもないけど・・・ねえ(笑)。

ここでやられてる事って言うのは、日本(もしくは日本語)を用いて「クールなイメージを醸し出す」って言う、当ブログでは何度か論じてきた主題であり、最近のヨーロッパではもはや古典と言っても良い話題なのでは?と思います(地中海ブログ:風の谷のセナンク修道院:天空の城の後に見る風の谷:リアル宮崎駿ワールド、地中海ブログ:今日はクリスマス:山下達郎のクリスマス・イブはヨーロッパのクリスマス事情を暗に意味している気がしたりして)。

しかしですね、その一方で、我々日本人も、気が付かない所で同じ様な事をしている、と言うか、外国語や外来のコンセプトを使ってイメージを捏造する事にかけては、日本人の右に出る者はいないんですね(地中海ブログ:鋼の錬金術師を見てて思った事:「ココではない何処か遠く」を想起させるイメージ:何故Bleachではスペイン語が多用されるのか?、地中海ブログ:ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式を見ていて思った事:日本に増殖する結婚式教会について)。だから我々日本人が偉そうな事言えたものじゃないんだけど、やっぱりローマ時代から続いている伝統あるオウレンセの温泉なんかには、下手な事せずに、もっと直接自分のお宝を売り込んでほしいなー。「ローマ時代からの温泉です」って、その一言で十分闘える伝統と質を持っているんだから、自信持って良いと思いますよ、オウレンセの市長さん、そして市民の皆さん。今日お会いした人達に、そういうお話をすれば良かったかなーとか思いつつ、もう遅い。次回に持越しです。
| 旅行記:美術 | 16:38 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
ベルギー王立美術館(Musees royaux des beaux-arts de Belgique)のピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude)とかバベルの塔とか
ちょっと話が前後するのですが、先週の3日間に渡るブリュッセル出張の合間を縫ってベルギー王立美術館(Musees royaux des beaux-arts de Belgique)に行ってきました。



この美術館の見所は何と言っても15世紀から18世紀を中心とするフランドル派の絵画コレクションで、その中でもピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude)のコレクションは必見です。と言っても、政治的な理由から彼の大半の作品はオーストリアはウィーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum, Wien)に所蔵されているんですけどね。でも、やっぱり地元の作家の作品は地元の雰囲気の中で見てこそ意味があると個人的には思っているので、ベルギーの街の風情を感じながら見るブリューゲルの作品は、ウィーンで見る彼の作品とは又違った良さを感じる事が出来、それだけでもこの美術館に来る意味もあるんじゃないのかなー?とか思ったりします。

さて、ピーテル・ブリューゲルと言えば、その繊細で精密な描写で知られているのですが、僕にとって興味深いのは、彼が空想の動物や妖怪などをキャンパスの中に目一杯描き込んでいる事です。



上の絵はこの美術館に収蔵されている彼の代表作の一つ、叛逆天使の墜落(The Fall of the Rebel Angels)で、大天使ミカエル率いる天使軍が魔界軍を一刀両断している場面なんだけど、よーく見ると、そこら中に見たことも無い生物が沢山居る事に気が付きます。



どうしてこの人、こんな妖怪達を描いたんでしょうね?って、実はその辺は結構研究が進んでて、彼はルネサンス期のネーデルランドの画家で初期フランドル派に分類されるヒロエニスム・ボッシュの影響を受けている事が既に指摘されています。



ヒロエニスム・ボッシュという画家は想像上の奇妙な妖怪などファンタジー溢れる絵を描く事で知られ、彼の代表作である「快楽の園」は現在、
スペインのプラド美術館に収蔵されています。何故かって、当時のスペイン国王だったフェリッペ2世がボッシュの絵を大変気に入っていたからだそうです。



僕がこの絵の事を初めて知ったのは、確か中学の美術の教科書だったと思うんだけど、恋人達が大きな風船の中に入ってたりして、「ナカナカに楽しげな絵だなー」とか思ってたんですね。実はそれからずーっと忘れてたんだけど、数年前、プラド美術館を初めて訪れた際、不意にこの絵に遭遇して、あの時の淡い感動が蘇ってくるのを感じて、ちょっと郷愁に浸ったりしていました。

そんな事を思いながら広々とした館内を歩いていたら驚くべき一枚に遭遇しちゃいました。それがコレ:



バ、バベルの塔だー!!超能力少年のバビル2世が住んでる塔、バベルの塔です。いやいや、これは冗談なんだけど、こんな所でバベルの塔に出会えるとは思ってもみませんでした。ちなみにこの絵はFrans Francken the Younger作によるバベルの塔。

バベルの塔って一体何か?って言うと、旧約聖書の「創世記」に出てくる巨大な塔の事で、同じ言葉を話す人々がレンガとアスファルトを使って建ち上げた、天まで届く高―い、高―い塔の事です。その建設過程を見た神様が、何とか建設をストップさせようとして、彼らの中に様々な言語を導入し、コミュニケーションを取れなくする事により見事に建設をストップさせる事に成功したと言う逸話ですね。その結果、人々は世界各地へと散らばっていく事となったのですが、キリスト教ではこのお話が世界に様々な言語が存在する説明となっていたりします。

面白いのは、旧約聖書を注意深く読むと良く分かるんだけど、実は良く言われているように神様はバベルの塔を破壊したりはしていないんですね。ただ単に多言語を導入して建設をストップさせようとしただけ。何の役にも立たない豆知識終わり(笑)。

さて、バベルの塔フェチの僕は当然他のバベルの塔も見てるんだけど、その中でも一番有名なのがピーテル・ブリューゲルが描いたこの一枚でしょうね:



この絵画は現在、ウィーンの美術史美術館に所蔵されています。美術館の一角に何気なく飾ってある一枚なのですが、大判と言う事もあって、独特の存在感を示していましたね。そして僕が好きなもう一枚がコチラ:



こちらも同じくピーテル・ブリューゲル作で、現在はロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館 (Museum Boijmans Van Beuningen)に所蔵されていました。こちらのバベルの塔はもう一枚の方に比べると、ちょっと冷たい感じがします。多分、色使いと塔のフォルムによると思うのですが、これはこれで味があって良いなー。

今回の
Frans Francken the Younger作によるバベルの塔は、ブリューゲル作の2枚と比べると先ずはその構図の独特さが指摘できるかと思われます。ブリューゲルの2枚が視点を高い位置に持ってきているのに対して、Frans Francken the Younger作のバベルの塔の視点は人の目線になっているんですね。こうする事で塔の高さが強調されて、ものすごく壮大な物語が絵画の中に展開されているように感じられます。



手前の人と向こうで作業している人、そしてそれに対する塔の圧倒的な高さによる遠近感の効果を十二分に発揮した素晴らしくダイナミックな作品に仕上がっていますね。


短い時間の中で何気なく寄った美術館だったけど、この一枚に出会えただけで大満足でした。こんな予定調和的ではない出会いがあるからこそ、旅行はやめられないんだなー。「次はどんな出会いがあるんだろう?」と考えると、明日からの何気ない世界も輝き出す気がしますね。
| 旅行記:美術 | 23:32 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
パリ旅行その8:公共空間としての美術館
美術っていうのは権力や政治と切っても切り離せない関係にあるのですが、その事をものすごく痛感させてくれるのが美術館の存在です。美術館の歴史って調べて行くと大変面白くて、その根幹ではデモクラシーと密接に関わっているんですね。何故かと言うと、現在の多くの美術館の基礎となっているのは王侯貴族や富豪の私的コレクションなどであり、それら特権階級の独占権益だった美術品を「あらゆる階層の人達に解放しろ!」という叫びと、それに伴う行動・結果が、現在我々が見る事が出来る美術館の始まりになっているからです。つまり18世紀の人々が、革命などによって「美術品を見る権利」を勝ち取ってくれたが故に、僕たちは今こうして素晴らしい美術品を自由に鑑賞する事が出来ると言う訳なんですね。ありがたやー、ありがたやー。

だから欧米において、すばらしいコレクションを所蔵している様々な美術館が無料だったりするのは、何もその国に余裕があるからとか、その美術館が儲かっているからとか言った理由ではありません。それはその美術館の根本的な所に、「美術館=公共=万人に開かれた」という確固とした信念が横たわっているからです。だからこのような美術館はその経営がどんなに苦しくなろうとも、市民から必要以上のお金を取るような事は無いだろうし、そもそも美術館に併設されているミュージアムショップでさえ、利益を上げる事すら目的にはしていないと思います。

さて、どうしてこのようなエントリを書こうと思ったか?というと、実はパリ旅行の最中に、とあるプロジェクトの為に某美術館関係の方とお話する機会があったのですが、その方曰く、グローバリゼーションが進行する最中、このような美術館の基本コンセプトを保持しつつ、美術館の運営をしていく事が大変困難になっているとの事でした。

その事で真剣に悩む彼女の顔を見ていて、美術館の入場者数とか、美術館ランキング、はたまた来館者の導線最適化など、美術館を「観光」の為に「最適化」する事だけに眼がいっていた自分が、何だかものすごく恥ずかしくなってきたんですね。

時代が変わり、都市間競争が激しくなっていく中において、各美術館は観光客を一人でも多く捕まえようと躍起になっています。そしてそれはある意味仕方が無い事なのかもしれません。しかしその一方で、美術館の本来の意義、目的などといった「グローバリゼーションに翻弄されてはいけないもっと大事な事」が存在する事も又事実だと思います。

「何故僕達は今、美術品を自由に楽しむ事が出来るのか?」、「公共とは一体どういう事か?」そういう事をたまには思い出してみる必要もあるのではないでしょうか?美術館という完成された「制度」をただ単に「輸入してしまっただけ」の我々日本人は特にね。

そんな事を考えさせられた一日でした。




追記:
今回の旅で発見した素晴らしい画家の一人、ドラクロア(Ferdinand Victor Eugene Delacroix)
の作品、"民衆を導く自由の女神"。ルーブル美術館にありました。
| 旅行記:美術 | 19:25 | comments(4) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
パリ旅行その5:カミーユ・クローデル(Camille Claudel)の芸術:内なる感情を全体で表している彫刻作品、もしくは彼女の人生そのもの
僕が旅行で一番楽しみにしている事、それは予期せぬモノ達との遭遇です。予定調和的では無い出会い程僕の心をときめかせる瞬間はありません。そしてそれを求めるが故に僕は旅を続けているのかもしれない。今回の旅行でもそんな素敵な出会いが僕を待っていてくれました。



カミーユ・クローデルの彫刻です。 出逢いは全くの唐突でした。ロダン美術館を訪れていた時の事、入り口中央、右よりの一室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのが上の彫刻だったんですね。作品の名前は「分別盛り(第二バージョン)(L`age mur (deuxieme version)」。



真ん中の老人が、背後にいる老婆(悪魔)に囁かれ、若い女性から身を引いていく瞬間が表現されています。主題としては「人生の3段階」などとして、あちこちで繰り返し用いられているテーマなのですが、カミーユ・クローデル作のこの作品は、ちょっと他には無い域にまで達していると思われます。先ず見た瞬間に圧倒されるのが、そのプロポーションの良さです。
 


左上に展開している悪魔の羽のようなものから始まり、老人の手、女性の手を経て、右下の女性のつま先へと、流れるような3角形を形成しています。



更に素晴らしいのが、この女性の表情と「行かないで!」と言っているかのような手の描写です:
 


この手と手の間の空間!女性の手を力強く振りほどくのではなくて、まるで女性の手からすり抜けていく、その瞬間が「スローモーション」で伝わってくるかのような空間表現です。ちょっと息を呑むほどです。



話は変わりますが、中森明菜のデビュー曲であるこの「スローモーション」の歌詞も見事ですね。

「出逢いはスローモーション、軽い目眩(めまい)誘う程に・・・」

詩を聞いていると、本当にその素敵な出逢いの一瞬が、頭の中でスローモーション再生されていくかのような。そしてココ:
 


悪魔が老人に何かを囁いています。この悪魔も無理やり老人を引っ張っているというよりは、老人を誘惑し、そそのかしている、そんな表現になっています。何よりも悪魔の手がその事をよりよく物語っていますよね:
 


ほら、悪魔の手が老人の腕に触れるか触れないか、その一瞬を表現しています。

さて、カミーユ・クローデルの彫刻を見た感想、それは今まで僕が見てきた彫刻のどれとも、その感じ方が異なっていました。彼女の彫刻から感じられるもの、それは生々しい程の「人間の内なる感情」じゃ無いのかな?例えば上の彫刻には「行かないでー!」という彼女の思いと、それによる「寂しさ」が彫刻全体に充満しているかのようです。そしてそれらの感情が喜びであれ憎しみであれ、痛々しいほど彫刻全体に溢れている、それが彼女の作品を通して言える事なのでは?と思う訳です。コレなんてすごい:
 


作品名、クロト(Clotbo)。クトロというのは、ローマ神話に出てくる生と死、そして運命を司る3女神の一人です。頭の上から湧き出ているのは髪の毛なのか、何なのか良く分からないけど、ここには内臓をえぐり返すような、ドロドロとした恐怖が充満しています。率直に言って、この彫刻は「怖い」。

何故カミーユ・クローデルはこれらのような彫刻を創ったのか?何故彼女の彫刻からは人間の生々しい感情が感じられるのか?それを説明する為には、少しばかり彼女の経歴を知る必要があるかと思われます。

カミーユ・クローデルは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランス人女性彫刻家であり、20世紀最大の彫刻家として知られるロダンの弟子、助手兼モデルそして愛人だったそうです。彼女がロダンと出会ったのが18歳の時で、ロダンは彼女の中に眠る天才的な才能とその美貌にコロッとやられ、内縁の妻(ローズ)がありながら、彼女と関係を持ったと言う事らしいです。若い時の彼女の写真が残されているんだけど、それがコレ:
 


確かに美人ですね。そして彼女はロダンの下でメキメキとその頭角を現していきます。しかしですね、最初の内は順風満帆だった彼女の人生にも次第に陰りが見え始めます。彼女はその生まれ持った才能とは裏腹に、世間では全く評価されず、ロダンのコピーだと言われ続け、私生活ではロダンの子を妊娠するも流産、そして内縁の妻ローズとカミーユの間で揺れていたロダンも最終的にはローズの元へと去って行ってしまいました。仕事もうまくいかず、私生活も最悪、挙句の果てに彼女は精神に異常をきたし、30年間の精神病院への強制収容の後、誰にも看取られる事無く死んでいったそうです。 天才彫刻家のその悲惨な運命は、後に数々の小説になったり、映画になったりして、今では広く人々に知られる所となり、近年においては彼女の作品に再評価の光がさしているようです。

で、ここまで書けばもうお気付きかもしれませんが、実は上の彫刻、「分別盛り」の主題は、彼女の人生そのものであり、真ん中の老人がロダン、悪魔がローズ、そして右下の懇願している女性がカミーユ本人だったという訳なんですね。この「行かないでー!」という表現に彼女が当時感じていた悲痛な思いが詰まっているからこそ、見るものをその内側にこんなにも引き込むのでしょうね。この彫刻はその主題故にかなり悲しいものとなっていますが、幸せの絶頂期にはこんなのも創っています:
 


その名も「心からの信頼(L`abandon)」。二人が寄り添い、互いに支えあうその姿は、僕の心を本当に和やかにしてくれます。そしてこの顔:
 


この作品が創られたのは、カミーユとロダンがラブラブだった頃と言いますから、カミーユは本当に幸せだったのでしょうね。彫刻から愛が溢れているかの様です。
 


上の作品(ワルツ(La Valse))からは、二人が楽しげに踊っている、正にその瞬間の雰囲気がありありと漂ってきます。そしてコレもすごい:



「束を背負った若い娘(La jeune fille a la grebe)」。見てください、この口元と目:



こんな事が彫刻に可能なのか!

さて、カミーユの彫刻の魅力、それはその彫刻が創り出すダイナミックな空間もさる事ながら、それらの彫刻が全体で醸し出す、内なる人間の感情、痛々しい程の感情なのだと僕は思います。そして彼女の彫刻には、何かしら、人をその内側に覗き込ませる魅力を秘めている。それは彼女の作品のスケールが小振りであると言う事だけが要因なのではなくて、本質的に彼女の彫刻は、そのディテールが何かを語りたがっている、そんな気がするんですね。だから、それにそっと耳を傾けてみたくなる。

ベルニーニの作品を見て以来、彫刻の本質とは「物語の一瞬を捉える事」、そしてその凍結された一コマから、連続する前後の情景を鑑賞者の心の中に浮かび上がらせる事だと思ってきました(詳しくはコチラ:地中海ブログ:ベルニーニ(Bernini)の彫刻その2:ボルゲーゼ美術館(Museo e Galleria Borghese)にあるアポロとダフネ(Apollo e Dafne)の彫刻)。
それはロダンの作品にも言える事で、彼なんかは明らかに一瞬の凍結の中に「動きを見出す事」を目指しているような感じを受けます。これなんてドンピシャ:



故にそれらの彫刻は3次元的であり、周りをグルグル回ったり、はたまた上述した様な、前後の時間の中を彷徨ったりする中に、その彫刻の本質が現れるのだと思います。しかしながら、カミーユの彫刻はどちらかというと、2次元に近いんじゃないのかな?と感じています。何故なら彼女の作品には(絵画のように)明らかに見るべき視点が存在するからです(例外っぽいのはワルツですね)。更に前者の彫刻が基本的に「モニュメント」になろうとしているのに対して、カミーユのそれは謙虚な姿勢を基本にしている感じをすら受けます。 多分ココが、彼女の彫刻の一番の大きな特徴であり、魅力であり、ロダンにも開けなかった、彼女だけの道なのではと僕は思います。

彼女の実の弟であり、有名な詩人であった、ポール・クローデル(Paul Claudel)は姉の作品について幾つかの著作を残していますが、彼のこの言葉は、カミーユ・クローデルの彫刻の的をついているような気がしました:

「分別盛り!この運命の蓄積されたかたち!」

そう、彼女の作品群は彼女の人生そのものなのです。
非常に豊かな彫刻体験でした。
| 旅行記:美術 | 23:52 | comments(4) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
パリ旅行2009その4:美術館における人の動きのコントロールについて:グローバリゼーション下に見るローコスト(チープ)観光現象その2:ルーブル美術館の場合
前回のエントリ、美術館における人の動きのコントロールについて:グローバリゼーション下に見るローコスト(チープ)観光現象その1の続きです。

ルーブル美術館と言えば、その驚くべき展示品数の多さで世界的に知られていると思うのですが、実際ココに来ると、それが誇張では無い事が瞬時に理解出来ると思います。それら途方も無い数の美術作品を一つずつジックリ見て回っていたら、一体全部見るのに何日掛かるのか検討もつかない程です。実際僕は今回の旅行で既に丸々2日間、朝から晩までルーブル美術館に費やしたけど、それでも未だ回り切れていません。だから明日も行く予定なんですけどね(笑)。

「ルーブルに3日間も行くなんて、cruasanのヤツ、よっぽど暇なんだな」とか言う声が聞こえてきそうですが(笑)、その他大勢の「暇じゃない人」の為にルーブル美術館が生み出したシステムがコチラ:

パーソンカウンター

オーディオガイドを使ったExpress観光システムです。詳しく言うと、「特選コース」とか「イタリア美術コース」とか、幾つかのコースがあって、数千の作品の中からテーマ別に、数点を掻い摘んで早足で回り、この上なく効率良く観光が出来るようになっています。で、その中でもすごいのが「特選コース」。所要時間約45分で、ルーブル美術館が誇る3大目玉作品、「モナリザ」、「ミロのビーナス」、そして「ニケ」を見て回る事が出来るというものです。

むむむ・・・このシステムを最初に見た時に思った事:

「オーディオガイドの根本的なコンセプトとの逆転現象が見られるなー」でした。

前回のエントリで書いたように、オーディオガイドの本来の役割とは、美術品や芸術家、ひいてはその美術館のコンセプトをより深く理解してもらう為に生み出された道具だったんですね。つまり作品を鑑賞するだけ、もしくは作品の前になぐさみ程度に掲げられている数行程度の説明だけでは物足りないという人の為に、入場料とは別にお金を採って提供しているサービス、それがオーディオガイドの基本コンセプトです。だから、オーディオガイドを借りている人は借りて無い人よりも、明らかに美術館の滞在時間は長いはずです。何故なら一つの作品に掛ける鑑賞時間が長いですから。

しかしですね、このような関係に逆転の傾向が見られるようになってきたのが、ココ最近の事なんです。つまりオーディオガイドを、「作品をより良く知ろう」とする為に使うのでは無くて、数多ある作品の中から効率良く「見るべきものだけを見て、さっさと次の美術館へ行こう」という目的を達成する為に活用する人が多くなってきた様な気がしています。そしてルーブルのような大型美術館では、観光客の回転率を上げる為に、そこを利用している感さえしているんですね。

このような人の動きのコントロールで圧倒的に巧かったのが、ウィーンで訪れたシェーンブルン宮殿でした。あそこのオーディオガイドは一度再生したらまき戻しが出来ない様になっていて、必然的に順路を前へ前へと歩かされるシステムを取っていました。巻き戻し出来ないので、自ずと観光客の足は次の部屋へと向かい、ほとんどの人が、わずか3分程度の誤差で宮殿の滞在時間を終えるという、まあ、その余りの見事なシステムに、溜め息すらついたのを覚えています(詳しくはコチラ:地中海ブログ:ウィーン旅行その9:シェーンブルン宮殿(Schloss Schonbrunn)のオーディオガイドに見る最も進んだ観光システム/無意識下による人の流れのコントロール)。

さて今回のルーブルのシステムなのですが、実際試してきたので、その体験を記しておこうと思います。

その3に続く。

| 旅行記:美術 | 22:56 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
パリ旅行2009その3:美術館における人の動きのコントロールについて:グローバリゼーション下に見るローコスト(チープ)観光現象その1
今回の旅行では連日のように美術館に行っているのですが、芸術の都パリというだけあって、どの美術館も大変魅力的な作品を所蔵・展示しています。ドラクロア、ルノアール、カミーユ・クローデルなど、美術作品については又改めて別のエントリで書こうと思っているのですが、これら幾つかの美術館を回っていて気が付いた事があったので、ちょっとココに記しておこうと思います。

多分誰も知らないし、全く興味は無いと思われますが、一応僕はヨーロッパでは人やモノの移動軌跡を扱うエキスパートという事になっています。今、「エー、そうなの???」とか思ったあなた、地獄に堕ちて下さい(笑)。「cruasanって、美味しいレストランでパエリアとか食べて、適当に紹介する人かと思ってたー」って思ったあなた、火あぶりの刑、決定です。こんな感じで:

一応、人の動きを扱うスペシャリストって事になってるの!!!

と言う訳で職業柄、違う街などに行くと、どうやって交通計画してるのかな?とか、どうやって人の動きをコントロールしてるのかな?とかいう所に眼が行ってしまうのですが、今回面白かったのがポンピドゥーセンターが採用している仕組みでした。

パーソンカウンター

ポンピドゥーセンターでは一階でチケットを購入して、ガラスのチューブを使って各階に配された各展覧会へとアプローチする事になるのですが、各階のエントランス部分に当たるガラス扉に赤外線センサーのようなものが設置され、出入りする人の数をカウントしていたんですね。

パーソンカウンター

上の写真が表示パネルで、実際には数が表示されているのですが、写真ではちょっと見えにくいですね(ゴメンなさい)。で、ココまでは普通なのですが、ちょっとの間観察していて気が付いた事がありました。それはこのセンサーはこの部屋の中に入った人をカウントしているのではなくて、部屋の中に何人の人が居るか?を表示しているカウンターだという事に気が付いたんですね。ちょっと分かりにくいかもしれないので、最上階の特別展のセンサーを例に出してみたいと思います。それがコレ:

パーソンカウンター

数字が3つ並んでいますね。一番上(Entrees)はこの部屋の中に入った人の数。2番目の数字(Sorties)はこの部屋から出て行った人の数。そして一番下の数字(Presents)は、この部屋の中に居る人、つまり展示を見ている人の数を表しています。コレは面白い!!!僕は世界各地で色々な美術館を見回っていますが、人の滞在時間を計っている美術館に出会ったのは今回が初めてです。コレを実現する仕組みはこんな感じ:

パーソンカウンター

出入り口に赤外線センサーを2つ平行に取り付けます。

パーソンカウンター

ちょうど2本の線が横並びで引かれた状態を想像してもらえれば分かり易いかと思います。この線の間を人が通ると、必ずどちらかのセンサーに最初に引っかかり、続いてもう一つのセンサーに引っかかる事となります。つまり、どちらのセンサーが先に反応したのかを調べる事によって、人がどちらから来たのか?どちらに行くのかが分かるという訳です。全く同じシステムがポンピドゥーに併設されているブランクーシのアトリエにも採用されていました。さすが美術先進国だけあって、美術館にも最適化(Optimization)を採用しようという気概が感じられますね。

パーソンカウンター

ちなみにオルセー美術館では単純に入った人の数をカウントしているだけでした。

そして今回非常に感心したのがコチラ:

パーソンカウンター

世界中、何処の美術館でも採用しているオーディオガイドなのですが、パリの美術館ではズバ抜けてその内容が充実していました。普通のオーディオガイドのシステムというのは、見たい作品の前に割り振ってある番号を入力すると、その作品の解説が流れてくるというのが、通常のオーディオガイドだと思います。しかしながら、ここパリでは一つの作品に対して、複数のオプションがあり、画家の経歴や作品が描かれた背景、ハタマタ関連作品情報など、素晴らしく深い説明を聞く事が出来るんですね。ちなみに僕は美術館に行ったら必ずオーディオガイドを聞く事にしているオーディオガイド・ヘビーユーザーで、オーディオガイドの中に入っている説明は隅から隅まで聞く事にしています。そんなんだから、昨日、朝一番でルーブル美術館に行ったんだけど、9時間かけて4分の1程度しか見れなかった!(恐るべしルーブル!)

さて、オーディオガイドの目的とは、収蔵作品をより良く理解する為に生み出されたモノだという事は言うまでも無いのですが、実は近年、このオーディオガイドを用いて、ある実験的な試みが行われ始めています(ココからは僕の観察に基つく推測なので適当に聞いてください)。勘の良い人はもうお気付きだと思うのですが、そうなんです!このオーディオガイドを用いて、人の動きをコントロールする試みが行われているんですね。そしてココ、ルーブル美術館では、最新技術を用いた最新サービスを提供しているが故に、必然的にグローバリゼーションに覆われた僕達の時代が抱える闇の部分を照らし出している様に思えます。

美術館における人の動きのコントロールについて:グローバリゼーション下に見るローコスト(チープ)観光現象その2:ルーブルの場合に続く。

| 旅行記:美術 | 22:02 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルベリーニ宮:国立古典絵画館(Palazzo Barberini: Galleria Nazionale d’Arte Antica in Palazzo Barberini):バルベリーニ家とミツバチの紋章とか、フォルナリーナ(La Fornarina)とか、その2
前回からの続きです。
フォルナリーナ(La Fornarina)があるバルベリーニ宮はバロック建築の3大巨匠、マデルノ(Carlo Maderno)、ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)そしてボッロミーニ(Francesco Borromini)が設計に携わった事でも有名なんですね。といわけで、イザ!





斜めからのアプローチ。正面ファサードや螺旋階段などナカナカ見所の多い建築ですね。特にロの字型の中庭形式が一般的だった当時において、コノ建物は前面に庭を持つH型平面をしています。バロックの始まりを暗示するかのような、そんな魅力的な建築です。その一方で、僕の気を強く引いたのが実はコレ:



ハチです。



「ブン、ブン、ブン、ハチが飛ぶ」、との如くにコノ建物の至る所はハチの彫刻で埋め尽くされています。



ハチ、ハチ、ハチ。何処もかしこもハチ。ハチ屋敷か!ココは!!!



どうやらバルベリーニ家のシンボル(家紋)がミツバチだと言う事です。なーんだ、そういう事か、とか思ってネットでちょっと探したら面白い論文を見つけました。

ベルニーニの《バルダッキーノ》に関する一考察 ―バルベリーニのミツバチと台座の小モチーフ― 成城大学 佐藤 仁

この論文によると、以前書いたヴァチカン宮殿にあるベルニーニ作のバルダッキーノには、バルベリーニ家のプロパガンダ的要素が見られるとか。何故かと言うと、ベルニーニにバルダッキーノを作らせたのはウルバヌス8世で実はこの人、バルベリーニ家出身だったらしいのです。だからバルダッキーノの至る所にはバルベリーニ家のニオイがするものが紛れ込ませてあるとか。フムフムとか思って、ローマ旅行の写真を見返してみると、ありました:



確かにココにもハチがいた!しかもバルベリーニ家の紋章とそっくりだ!更に面白い事に、このミツバチのデザインには当時の最新技術、ガリレオの顕微鏡研究の成果が反映されているとか。だからバルダッキーノに採用されたミツバチのデザインはバルベリーニ家の紋章のミツバチよりも細部が詳しく描写されているんですって。ヘェーヘェーヘェー。

残念ながら、旅行中はそんな事あまり気にしていなかったので、バルダッキーノのミツバチ拡大写真はありませんが、バルベリーニのハチの方は気にしまくっていたので、ミツバチ撮りまくりました。タマタマ中庭の奥の方を歩いていたら、使われなくなった昔の紋章が放置されていたので、ここぞとばかりに撮った写真がコレ:





更に更に、旅行写真を見返してみたら、こんなの発見しました:



コレはヴァチカン博物館内、地図の間(Galleria delle Carte geografiche)の間の出口だと思うのですが、こんな所にもミツバチが!

建築っていうのは元々、広告要素を含んでいる表象文化です。昔なら教会の大きさがその信仰の偉大さを、最近ではビルの高さがその企業の資本力を表しているという様に。(最近の経済危機で、自動車産業が不況に喘ぐ中、クライスラーの経営悪化を伝えるニュースに、本社ビルが会社全体を表象するものとして映し出されていた事は記憶に新しい所です。)

そんな広告が本領を発揮するのは「コレだ!コレだ!」と主張する広告ではなく、人々の無意識下に密かに働きかける広告なんですね。(ちなみに僕らの時代の最大の広告が都市計画である事は以前書いた通りです。)そう考えると、ヴァチカン宮殿を訪れていた際、何の意味かも知らずにミツバチをバチバチ撮っていた僕は、まんまとバルベリーニ家の広告にはまっていた訳だ!ヤラレタなー(笑)。
| 旅行記:美術 | 23:42 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
バルベリーニ宮:国立古典絵画館(Palazzo Barberini: Galleria Nazionale d’Arte Antica in Palazzo Barberini):バルベリーニ家とミツバチの紋章とか、フォルナリーナ(La Fornarina)とか、その1
前回の続きでラファエロ繋がりです。ローマはラファエロが25歳から亡くなる37歳まで過ごした地であるだけに、彼の足跡がソコ、ココに点在していてラファエロファンにはたまらない聖地なんですね。その一つがバルベリーニ宮:国立古典絵画館(Palazzo Barberini: Galleria Nazionale d’Arte Antica in Palazzo Barberini)にある謎の肖像画、ラ・フォルナリーナ(La Fornarina)です。

ラファエロは若くして亡くなってしまい、伝記など残さなかったので、彼の性格などはほとんどベールに包まれています。残されている手紙なども外面的なものに限られている為、彼の人間性についての情報はほとんど残って無いんですね。そこに「優雅な天才画家」というイメージが重なって、後世の人々によってロマンチックな物語が展開されたりもした訳なんですけれども、そんな中で生まれたのが、ラ・フォルナリーナとの禁じられた恋物語です。

そう、ラ・フォルナリーナとはラファエロの恋人だったのではないか?と目されている人物なんです。ちなみに「ラ・フォルナリーナ」とはパン屋の娘という意味で、彼女の本名はマルゲリータ・ルーティというそうです。それがコノ人:



とても魅力的な絵です。特にこの眼、見るモノを惹きつけて離しません。ビーナスのように完全な裸ではなくて、透明のベールに包まれている事によって、「露出している」という印象を強めています。腕輪には意味深にウルビーノのラファエロと彫られているそうです。

さて、このフォルナリーナさんなんですけど、彼女をモデルにしたと思われる絵が数点存在します。その内の一つがコレ:



ヴェールを被る婦人の肖像 (Ritratto di donna (La Velata))

ラファエロは政治的な理由からフォルナリーナとの結婚が出来なかったようです。だから彼女とは秘密裏に交際し、生涯独身を通したそうなんですね。しかし、そんなラファエロがせめて自身の為にと描いたのがラ・フォルナリーナであり、このヴェールを被る婦人だと云われています。せめて絵の中だけでも、恋人にウェディングドレスを着させてあげたかったのでしょうね。更にフォルナリーナが頭に付けている真珠のブリーチが、秘密裏の結婚を暗喩しているとする研究も存在したりします。

このフォルナリーナさん、ラファエロがフォルネジーナ荘(Villa Farnesina)を手がけている時にタマタマ出会ったパン屋の娘らしいのですが、当時住んでいたと云われている家がトラステヴェレ地区(Trastevere)に残されています。勿論行って来ました。





住所:Via di Santa Dorotea 20


ラファエロは長い事ミケランジェロに会いたかったらしいけど、人嫌いのミケランジェロは彼との面会を避けていたとか。しかし、ある日、ふと気が変わってミケランジェロがラファエロの工房を訪れた時、彼はフォルナリーナとデート中だったという逸話が残っています。

飛ぶ鳥を落とす勢いの宮廷画家とパン屋の娘の隠された恋。とってもロマンチックに聞こえるけど、現実のそれは多分とても悲しい恋だったのだろうと思います。僕達の生きている今の社会からは想像もつかないような厳しい身分制度の為に、フォルナリーナはラファエロの葬儀にも参列させてもらえなかったそうです。



ラファエロの墓:パンテオン

全ては想像に過ぎませんが、幸福に満ち溢れたと思われていた画家にも、こんな一面があったかと思うと、とっても人間味に溢れていて、それはそれでより一層ラファエロを好きになりました。
| 旅行記:美術 | 21:57 | comments(0) | - | このエントリーをはてなブックマークに追加
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